【ネタバレ/後編】RAB(リアルアキバボーイズ)ネス主演『SIN[シン]』を見て/芝居見てる時の脳内を整理したった【観劇初心者様向け🔰】
noteって、毎日更新した時だけじゃなくて、1週間、1カ月空いても褒めてくれるじゃないですか。それがね、前回はついに褒めてくれなかったんですよ。仲の良い美容師さんにむっちゃいじられました。
なので、忘れないうちに後編書きたいと思います。
というか前編、肝心の「芝居見てる時の俺氏の頭の中」を書くって言っといて、カンパニー褒めちぎって終わってるんですよね。ロジックはどこへ。
お金いただかずに書いてる私の原稿なんて大体こんな感じです。あらかじめご了承ください。
私信:村上くんはまだ成仏してないです。
作者様に寄せられた質問から考える ――考察と妄想の狭間
昨日の前編、今回とでレポっているのはRAB[リアルアキバボーイズ]のネスさん主演『SIN(シン)』です。
何回見ても顔がいいなあ!(クソデカ大声)
音声不良を再調整し、購入者限定で再配信するようです。なので、買った人はまた観られるのか。個人的な感想としては、聞きづらいところはあったけど何を言っているか聞き取れないほどではないと感じたので驚愕しました。
金返せ、みたいなことをおっしゃった方がいたのかしら。配信が一般的になり、配信でも実地観劇と同じクオリティで見られて当然、金を払っているんだからというムードも広がってきていることは危惧しています。
特に今回の公演でいえば、演劇ではなく「裁判」というテイでしたから、あの程度の品質トラブルで「再審」を求めるのは少々無粋に感じます。人生は1回切り、人を裁くのも1回切りというメッセージを私は読み取ったんですけどね。
こちらは劇団GAIA_crew代表・加東岳史さんがネスくんの希望(原案)を元に脚本・演出をしたもの。加東さんはご自身のnoteで作品世界の解説や意図を語ってくださっていました。日頃作者の意図がここまでまとまったものを、このスピード感で拝読することはないので、大変貴重だと思った。みなさま読め。
前回も引用したように、この中で「体裁はファンイベント」と加東さんおっしゃっているので、私も大人らしく溜飲を下げることにします。
個人的に「そんなことも答えてくれるのか」というのと、懐が深いなと思ったのは、ここ。たびたび引用して申し訳ございません。
ネスが踊った「ノーブレス・オブリージュ」(原文ママ。20211118時点)は作品の中でもとても大事なシーンになっています。(中略)あのあとに語られる和臣と美雨の食事と睡眠のシーンは僕もネスもお気に入りのシーンです。この作品でほぼ唯一静かなシーンなので。あと、あそこで和臣と美雨には肉体関係があったんですか?と聞かれもしたんですが、それは見た人がどう感じるかでいいと思います。どちらでも、貴方がそうだと思えるほうでいいんです。
良い質問だと思いました。てか、作者様に質問して答えてもらえるって普通じゃないからな。現状宝塚では作家さん、二次元ではアニメ制作チームを推してる人としては羨ましいの3億乗です。合掌しろよ
板の上の演劇って、映画やドラマと違って行為そのものは描くことができません。ですので、セリフや照明、場面転換などを通して“匂わせる“しかない。わかりやすい例で言うと、ロミオとジュリエットやWEST SIDE STORYの“朝チュン“描写みたいなことになります。あれらの多くはカンパニーでの大掛かりな芝居ですから、大道具や衣装の変化(要はベッドで脱いでる状態の目覚め)で事後を表現することになります。今回の『SIN』は一人芝居だし、衣装も小道具もないから疑問に思うのは十分頷けることです。
直近でいうと宝塚歌劇団月組公演『桜嵐記』の出征前の逢瀬シーンでも、オタクたちがあーだこーだ議論をしていたのが記憶に新しい。この公演に関しては、デカイ!派手!豪奢!で小道具セット使い放題の宝塚で、そこが議論の的になっていたのは興味深いですね。私は主演カップルの恋愛模様に一切感情移入できなかったのでただ現象として眺めていただけで考える気にもならなかったんですが、今回『SIN』を観て、またそれを観た方の素朴な疑問を通して、改めて「描かれていないことを想像する楽しさ」に再会しました。
それが舞台の醍醐味だよね。醍醐味なんです。
で、作者様が「どう読んでもいいよ〜」と言っている以上、書かれていないことを好きに読むのは自由です。思想は自由なので。
でも、そこの根拠が話せたら楽しくないですか?
その辺りをどう根拠づけるか。私があのシーンを見たときに大体30秒くらいで「してねえな」と結論づけて次の情報処理に移ったので、その頭の中を説明していこうと思います。
根拠をもって自分の読み解きに結論を与えるのが考察、根拠がなく想像の翼を広げるのが妄想です。
1つ断っておきたいのが、妄想を考察より下に置くつもりは毛頭ありません。妄想は発明の源で、むしろロジックに囚われないから考察より上位だと思っている。
ただ、根拠のない妄想に過ぎないことを考察と言って発表したり、考察しているものを妄想と逃げるのは個人的になかなかどうして許せません。SNSの個人アカウントだろうが、発表する以上は言葉選びに責任を持ちたいなと思っています。
もっと言うとね、私、リアルな情景描写のスピード感を無視したジュウバコノスミツツキ的な証拠探しも考察とは言いたくないなと思ってます。コナクラとしてそこは辟易している
考察という以上は論理とテンポがいるなって。一応芝居の研究で大学卒業させてもらったので、その道筋とテンポ感を紹介させてください。
❶ セリフそのまま文章の通りに読み解く
30秒で「してねえな」の根拠その一は、まず脚本の中にあります。単に「描かれてない」。以上。
ただ、「描かれてない」を証明するのは「描かれている」を証明するのより難しいことです。
ここはどう証明するかというと、何らかの数(有名どころだとπとか)が無理数なのを証明するとき、それが有理数だと仮定して否定していくという方法を取りますが、そのように読み進めていきます。
あのシーンの流れは大体こうです。
和臣、美雨を住まいに連れ帰る
内言「愛用のベッドに深く腰掛けた」←→少し離れたところの椅子が美雨の表象
↓
和臣と美雨の会話
美雨の質問で展開される和臣の自分語り。会話のイニシアチブは美雨にある
↓
美雨「かわいそうなんかじゃない!」「自分で自分を慰めてんだよ」と言って和臣を抱きしめる。前段の内言より、場所は「愛用のベッド」とわかる。
↓
『ノンブレス・オブリージュ』によるダンスパフォーマンス
Noblesse obligeの「noblesse(高貴の身)」と「breath(呼吸)」「bless(救い)」が「Non(ない)」がかかっている。これウマイよねぇ。英語の発音が不得手な日本人にしか思いつかない掛け言葉で、好きな曲。
↓
和臣内言「しばらくそうしていた」「食うだけ食って気づいたら2人とも熟睡していた」「その後俺はトイレに行って……」「本当ならそれを一番に聞かないといけない/でもそれは 明日でもいいと思った/それが美雨との出会いだ」
↓
翌朝 和臣内言「元々気まぐれで拾った女だ/昨日一晩泊めて飯を食わしただけ」
上記を照らすと、まず肉体関係を持ったという具体的描写がないことがわかります。で、基本的には当作は作品の性質(被告の記憶を取り出している)上、内言が写実であることが前提。戯曲の場合、写実的表現を避けてソネット的に暗喩したり、ミュージカルであれば歌で補完することもありますが、基本的にはそのような要素はありません。
ここから「有理数と仮定して」深掘りすると、方向性は2つ。
1つは「本当はあった行為を内言で言っていない」という可能性です。
これに関しては、個人的に「食うだけ食って」の前の「卵やソーセージ、パンを焼いて食べた」「缶詰も平らげた(ニュアンス)」という【食欲】を満たす行為の細かい写実性に加え、先述の「その後俺はトイレに行って」という【排泄】の描写が描かれている以上、生殖行為という【動物の基本的欲求に伴うその行為】が内言で書かれていないとすれば不自然だと感じました。一応、この食欲+排泄を性行為のメタファーとする説もなきにしもあらずなんだけど、これに関しては直感で、ここまでこれだけ写実的な内言にこだわっているのに対しそれはヘンかなというのが個人的感想です。
2つ目は、「ダンスパフォーマンスが行為を暗喩している」という可能性。
これはなくはないと思います。そういう意味で、「あったんですか?」と質問があったことに好感を持ちました。歌や衣装チェンジ、セットなどがない以上、文章化されていないことを込めるのには、今回ダンスしかありませんので。
で、これに関しても、私としては「ナシ」です。歌の文字通りというのと、ネスくんが振り付けた最後のモーションが抱き合っている2人のマイムと呼吸音で終わるところから、本当に文字通り2人がお互いの体温を感じることで初めて深く呼吸ができただけだと読み取りました。一応帰宅後に歌詞を検索すると、同曲は前半に少々肉体的接触の描写があるのですが、そこがカットされてサビから入っているのも意図を感じました。これは先述の「30秒」とは別ですが、帰宅後に一応自分の仮説が「間違っているかもしれない」と見直すことは毎回やっております。
さらに、和臣の内言で
「元々気まぐれで拾った女だ/昨日一晩泊めて飯を食わしただけ」
というのがありますね。
結局ここを信じるのが芝居鑑賞の道理だと思います。同じような“朝チュン描写“があった上で、さらに脚本上の言葉でのダメおしがあるという例はあって、印象的なのは劇団☆新感線の『シレンとラギ』。シレンとラギは母子なんですけど、知らずに出会って関係を持ちます。そこは朝チュン描写。で、その後、ラギの実父であるゴダイがしつこくそこを糾弾する描写があるんですね。
ゴダイ どうだシレンは/いい女だったろう/色が白くて柔らかくて/(略)あんな抱き心地の女は滅多にいねえ/ああこうしてみるとシレンによく似てるよ、確かにお前は俺とあいつの息子だな(→ラギ役の藤原竜也さん発狂して立ち回り)
何が言いたいかというと、ゴダイ役の高橋克己さんがかっこ良かったよということだけではなく、先にことわったような「舞台の上での表現できない重要な行為」に関しては、本来脚本としては饒舌に語るものだと私は理解してます。
さらにそれは、同じく先に見解を示したような基本的で大切な欲求とその排泄行為であることなどから、それ以外のことは事細かに書いてそれを書かないというのは不自然だというのが私のあの瞬間に読み取ったことです。それゆえに、ダンスで用いた曲でも前半が用いられていないことには少々意図を感じてしまったりして。
ただ、何度も言うように、このシーンで「愛用のベッドに腰掛けた」→セリフ劇が中断しダンスパフォーマンスになるという演出を見て、結局和臣と美雨はその「しばらくそうしていた」のあいだ何をしていたんだろう?と考えることは、演劇を見るにあたってめちゃくちゃいい視点だと思いました。それはね、マジで長く舞台カルチャーに推しがいるらしい人でも気づかない人がいますから、頭をフル回転して観ていたことをリスペクトします。
多分、加東さんの「あなたが思ったように」というのはそういう意味もあるのかなと拡大解釈をしている。作家さんには「違います」という方もいるし、それはそれで素敵な上で、「どっちでもいいよ」を明言するっていいですよね。
❷ 書かれた時間軸の外を補完する
❶が要旨のほとんどなので、ここからは駆け足になります。
一応、舞台を観るときに意識しているのは「登場人物は、今描かれている瞬間以外を確かに生きている」ということです。
今回で言えば美雨ちゃんにフィーチャーして、この瞬間で切り取られた以前の「仕事ぶり」を考えた上で、和臣と肉体関係を持つような女か?と言うことを考えました。
特に、私は現地でAの美雨編を見ていたので確信も強まったのですが、美雨ちゃんは割と地頭が良い女だと思いました。それでいてデリヘルで生計を立てているわけで。で、プライドも高い人。
と、すると、とりあえず助け出して一番泊めてくれる“かもしれないだけ“の男に、無銭で本番いかせないだろうなと思いました。和臣から何かアプローチがあったら、そこすら“腕の見せ所“わけで、描写されないはずがないかな、と。
そう言うことも相まって、あの和臣くんの部屋ではまだ「やってねえだろうな」の仮説に過ぎなかったのが、現地でA美雨編まで見て確信に変わったような脳の動き方です。
B 荒田編だけ見てたらどうだったかしら?とはいささか訝しく思いますが。
なお、この時間軸の外を読むと言う楽しさに関しては、過去に自分が書かせてもらったコラムに書いております。
芝居のラストシーンで主人公の終末を書かないことによって、その後その登場人物たちがどうなって言ったかは明言しないけれども、観客の基本知識や人生経験にによって結末がステレオタイプの場合もあるし、どうなるの⁉︎と混乱してしまう可能性のあるラストシーンを描いた作家さんの紹介をしたコラムになります。
ここには書いていないけど、中学レベルの世界史の結末をちゃんと念頭に置いているかどうかで、物語がハッピーエンドにも悲劇にも、全く別のオチに読めてしまうような作品も書いているような人なんです。面白いんですよ!(『黒豹の如く』ですね>ヅカファン)
コラム中の『琥珀色の雨にぬれて』に関しては、私は主演を演じる役者さんが変わるたびに「この人はシャロン(浮気相手。ファムファタル)にまた会いに行っちゃいそう」「この人はキッパリ訣別しそう」と毎回感想が違いました。それが楽しいんですよね。
なので、私として「和臣と美雨がプラトニックである」と結論づけたとしても、同じシーンを見て「どうなの?」と観た人が考え始めることはどんどん応援したいのです。
そういう楽しさを持った作品、結構少なくなってきちゃってるからね。
「ファンイベント」でこう言う経験は、得難いですよ。
❸ オマージュを軸に立てて比較考察する
ここまで話してきて、結論としては「何もなかった」と情報処理しているんですが、あるテーマに対して考察するにあたって大切なのが【反証】です。
「こうだろうな(自分の意見)」に対し、「違うかもしれない」と言う視点を持って再検証することが“考察“の正しい手順だと思っています。これが少ないんだよね、世の中のサブカル系の「考察記事」には。
これは、本来論文の作法です。仮説→証明1→証明2→…→反証→結論というのが、おおよそ特に文系論文に関しては鉄板の型だと思います。
で、今回たまたまこの章が反証になってしまったんだけど、私はこの「オマージュを探す」というのは演劇そのほか創作物を見るとき毎分毎秒やっていることです。
当作『SIN』でいうと、この記事の議題「やったの?(雑)」と直接的に関係していないのですが、結果的に反証になったねという例を紹介していきますね。
私が注目したのは和臣の生い立ちです。ご本人の出生に際してお母様が亡くなり、お父様に辛くあたられたという内言がありました。
これを聞いて私は
「羽山やん!!!!」
と思った。
羽山とは、少女漫画誌「りぼん」で連載されていた『こどものおもちゃ』のヒロイン・倉田紗南ののちのパートナーとなる羽山秋人のことです。
作者様が私たち世代の少女漫画をご存知とは思い難いし、それとこれが別なのは全く問題ないんです。読む方にとって「あの人もこんなこと言うてたな」と言う思考の軸ができるのが重要。今回に関しては、それが偶然にも反証の材料になったというだけの話です。
この「あの人もこんなこと言うてたな」が、反証ではなく立証の材料になることもあります。新しく創作した方が、元ネタの世界観をなぞってオマージュしているという場合も多いからです。先に出た例で言うと、ロミジュリとWEST SIDE STORYの関係性が立証のオマージュです。ここは面倒なので、ググって確認して。
今回に関しては、「羽山みたいやな」と言う感覚が最後まで脳味噌の1mm程度に置かれたことによって、和臣の美雨に対する執着、美雨は和臣に何を夢見ていたかを見比べ考えながら観ることができました。
『こどちゃ』も知らない人はググってもらえたら良いんですけど、あれも「母親に捨てられた傷を本人も気づかないまま生きる少女」が壊れていく様子と、「自分の出生と同時に母親が死んでしまって虐げられ道を踏み外しかけた少年」がお互いの足りないところをパズルのように埋めながら生きようとする話でした。
で、当作の「羽山」は割と性に対して貪欲なんですよ。ヒロインの「紗南」に対する唐突な好意の出現(チュー2回、おっぱい触るの1回。だったかな。確か)に限らず、おそらく虐げられていることを自覚し始めた幼稚園時代の別の少女に対する性的に早熟な行為も描かれています。
そう言う“脳内アーカイブ“もあったので、和臣が美雨を部屋に連れ帰り、彼の生い立ちが明かされ、美雨が「かわいそうなんかじゃない〜自分で自分を慰めてる」と抱きしめた瞬間に「これはワンチャンあるかな?」と予測が経ちました。が、先にあるような描写・情景を根拠に「なかったな」と結論づけた次第です。
大事なのは、「あるかもな」と予測しながら観ることで、考察が深まると言うこと。結果それが「なかった」からと言って意味がないことでは断じてないと言うことです。
過去に、宝塚を見ていて自分の贔屓(トップスターで主人公)が小金持ちの役で、舞台上で札束をばら撒いていたシーンがあったんですね。それを見て、私はその直前まで興行されていた別の組の芝居で、主人公が地べたに落ちたお金を拾い集めるシーンを思い出したんです。
で、それをTwitterで呟いたところ「せっかくチケットを取って見に行っているのに別の公演のシーンを思い出すなんて信じられない。一生懸命演じている目の前の役者に失礼だ」みたいな反応があったことがあって。エアプですけど。
これは、悪くはない…というか、ご勝手にすればいいけど、マジで勿体無いです。ムカつきますけどね。
舞台は、ほとんどの場合、その1回に全てをかけて観るものです。
明日になれば、もしかしたら演者や作家の気分が変わっているかもしれないのだし。
そうすると、そのいちゃもんをつけてきた方のように、見ている間に「そのシーンに集中している」というと聞こえはいいが、なーんにも考えずに目の前で起きている光景を眺めているだけでは読み取れないことも多々あると言うことはぜひ知っておいてほしいと思いました。
たまたま今日、全く関係のない映画関係者の方が「ファンが推ししか見ない姿勢がネット社会さらにを難しくする」(ニュアンス。当該ツイートはオタクの曲解によって削除済み。)と言うツイートをなさってまして。
これ、真理すぎると思ったんだけど、140字じゃ伝えたい人には伝わらなかったようだ。
私が前編で書いたのは、推しを通した出会いによってそこから先の芝居の世界を見てほしいという気持ち。さらに、今回伝えたかったのは、目の前の推しの表現を通して宇宙を感じましょう!ということです。
目の前で演じられている様子の先に、自分の見聞きしたもの、あるいは体験したことを思い巡らせ、猛スピードで取捨選択するのが演劇鑑賞です。
映画やドラマ、小説と違って、演劇って明日にはなくなっちゃう儚いものなんですよ。だから思考の張り巡らせ、スピードって超大事。
私が今回恥をしのんで提示したように、「羽山や!」の仮定は大きくズレていました。和臣と美雨が共依存関係であることは「羽山と紗南的」かもしれないけど、結果この考察には役に立っていませんからね。
セリフや内言を聞く、音楽や映像をちゃんと読解する、描かれていないことをオマージュを立てながら予測する、毎分毎秒仮説を立てては違っていたら捨てる、あっていたら懐に入れておく……。これが演劇の読み方で、楽しさです。
こうやって書くと、単に現実社会で他人と話すときのコミュニケーションの作法と何ら変わらない気もします。
小難しいことではないんですよ。難しくはありますけどね。私もまだまだ、作品読解だって人付き合いだって、修行の最中です。
でも、そこをしつこく読み抜くと、人付き合いだったり実生活の解像度だったりも色鮮やかになる気がして。
たまたま見つけた若き天才ネスくん(もうだいすき)と、彼を信じてバックアップする素敵なカンパニーの皆さんののおかげで、そういうことに出会えるファンの方がたくさんいればいいなと思いました!
初めてブラウン管の中(昭和生まれ感)の舞台中継に釘付けになり、背負ったままのランドセルをおろせずに突っ立っていた日から24年。
ここに記した見方も、もしかしたら10年後20年後変わっているかもしれない。
ですが、私の経験や見方が、誰かのスタートラインになることを願ってやみません。
最後になりますが、肉眼で拝見したネスくんはびっくりするくらい美しかったです。若い割に瑞々しさはなくて、硬質な、でも吸い込まれるような宝石みたいな人だった。天は二物を与えるなァー!(クソデカ大声)
本職はダンサーだし、DJもやってるけど、また芝居やってくれたらうれしいな。その時は見にいきたい。まあ、とりあえず生きててくれたらそれで良いです。(オタクの真理)
ご静聴ありがとうございました。
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