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引越★Vol.1★ヅカと私と受験物語--祖母と母

当noteはしばらくアタイの旧住所から過去記事を転送していくよ

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こんにちはー!

書き出してみると意外と筆が進みますもので、昼休みにドカッと進めてみた。わたくしのヅカ受験物語、第1話になります。今回も特に益のない記事ですが、ぜひ暇つぶしにどうぞ……

色つきの鮮明な記憶、15年前見た緞帳

宝塚ホテルが改築される。わたしは、2005年の受験時ワシントンホテルに宿泊したくちだが、一番仲のいい(とわたしが思っていた)同い年の友人は、タカホに泊まることにしていた。だから、いきさつはたぶんそのうち語るとして、あのタカホの「緞帳前」で、二人でその緞帳に触れるでもなく言葉も交わさずに、ただじっと詛うように見つめていたあの夜(夕方だったかもしれない)が、ありありと思い出される。

NHK総合『あなたが選んだタカラヅカ』

そんな2005年3月から遥か遡ること1996年12月。

NHK総合だったと思う『あなたが選んだタカラヅカ』という番組があった。番組主旨はまったく記憶にないが、たぶん題名から推察するに、視聴者に放送してほしい作品のアンケートでも取ったんだと思う。放送時期も定かではないけど、なんとなくスタジオの装飾や司会の葛西アナ(フジの笠井さんじゃないわよ)が、クリスマスっぽい格好をしていた。なので、きっと年末なんですよ。知らんけど。

そして、その番組で確実に放送されたのは『あかねさす紫の花/マ・ベル・エトワール』『剣と恋と虹と/ジュビレーション』。その頃には、すでにハマり始めていて、学校から帰宅するとすぐに勝手にVHSを再生して、高嶺ふぶきさんが歌う「My way」やら真織由季さんの「ガスコン青年隊の銀橋ソロ」「パジャマ戦争」を、それこそ擦り切れるほど見た。

それ以前に、同じNHK総合で『エデンの東/ダンディズム!』『青き薔薇の軍神』の順で見た記憶もあり、その後VHSで何度も何度も見た記憶はあるけど、それも9歳前後の話。上記の『あなたが選んだ〜』と記憶がごちゃ混ぜになり、正直記憶にない。

少なくとも、行動と想いとを思い出せる一番古い記憶が1996年12月、柔和な笑顔の葛西アナウンサーと白と赤で彩られたスタジオだった。

タイムリミット前年の初詣

そんなに昔(22年半前…😨)から母娘ともに(あ、母もその辺りで本格的にハマりましたんでね)ファンを始めたのなら、よく聞くように

「アタイ、ここに入るーーーー!✨*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*」

みたいなことになったのかと言われると、そんなことはない。

まあ、そのうだうだした態度のせいで落ちたんじゃねーのと言われればそれまでなんだけど、晴彦さん(正塚先生)が『La Esperanza』の座談会でも言ってた

「お前らな、そもそもタカラヅカ観て『あそこに入る!』ってなる時点で、全員変人だからな」(ニュアンス)

という発言に首がもげるほど頷いたんだけど、そこに迷いがない人は、正直とても少ないと思う。なんなら、迷って、挙句、受ける前に辞める人が大半なんだろうな。

そんなわけで、わたしがハッキリ両親に「アタイ、やっぱりタカラヅカ受けるよ!」と言ったのは、2004年の正月だった。正式にはその前からだらだらと話はしてたんだけど、護国神社っていう近所の神社に初詣に行って、帰り道に「アタイ、決めたよ!」ってなった。

だから、そのとき残された時間は実質1年。17歳8カ月でした。

《容姿端麗な15歳(中学卒業)〜18歳》

そのタイムリミットの、14カ月前の夜である。

まる7年の煩悶の理由

きっと生き急ぐ10代やいい歳して子供のことになるともっと生き急ぎがちなその親にとっては、それまでの芸歴とかお稽古のようすとかが早く聴きたいんだろうと思うが、正直言ってそんなことはハッキリ言ってどうでもいいというのが、自分の手応えの1つであります。

一番大事なのは、それまでの心のさまよい。

これがその後の人生を、受かろうが落ちようがいかにせん!というもっとも大切なファクターだと感じている。

わたしが1996年12月、10歳7カ月頃に既に「タカラヅカすっきゃ✨」となっていながら、そして心のうちに「アタイもかわいいむすめやくさんになるんや(真顔)」と思っていながら、そのことを決意するまでに7年もかかってしまった理由を2つ紹介していきます。

 

1つは、母方の祖母の存在だった。

死んだからいうわけじゃないし、今でもその時もずっとわたしは祖母が好きだったし、家族で一番祖母に似ていると思う。ただ1つ、彼女は、偏見的に芸事が嫌いだった。傍目には「は?」って感じかもしれないが、まず一番大きい障害はそれ。

一番好きな人の一番嫌いなことを、嫌われてまで貫きたいと思うほどのきもちは、10歳のわたしにはとてもなかった。

たぶん、今読者のほとんどが「は?祖母?親でもなく?どうでもいいじゃん!」って思ったと思うんですけど。時代が時代だし、我が家は今みたいなシアワセ核家族じゃなかったのね。

祖母も両親や弟とおなじくらい大切だった。めちゃくちゃだいすきだった。

子供ってそんなものです。毎日が幸せであればあるほど、そういう臆病さがあると思う。

ついでに彼女は、勉強の虫だった。そしてバツの悪いことにわたしは、この年になると元気に自慢していくけど、めちゃくちゃ成績がよかった。成績学年トップ生活はずっと続いて、県下最難関の公立高校に進学したりしちゃうんです。空気読めよ、俺の脳ミソ。

あのね〜、これは、別に謙遜じゃなくて【テストが得意】だったの。ほんっっっっとに嫌味でもなんでもなくて、家で勉強とかほんといやなの。学校でべんきょうしたのに、なんで家でべんきょうとか!しゅくだいはぜんぶがっこうでやる!!!!なぜなら、すばるくんとか学校の怪談(懐)とかタカラヅカとか、観たいもん!!!みたいな。いやまじで、致命的に頭悪い。

単に策士で、テストその一瞬にかける集中力、兵法はすごかったと自分でも思う。問題見た瞬間に「こんなものは解けぬ、次!」みたいな。塾の先生に「捨て問の魔術師」って言われたり、捨て問以外の容赦なさがほぼ追い剥ぎとか山賊とか言われたりした。つまりそれは、ドッジボールからバレーボール、テニスにマラソンまでなんでもござれって感じで、要は「他者と闘うのがめちゃくちゃ得意」な子供だったってだけなんですね。やなやつなんですよ。

そんな感じで、元々勉強が好きなわけでもこころざしがあるわけでもないわたしは、こころざし高い仲間ばかりにかこまれる高校に入って、途端にこころにざらつきを感じるようになった。そうして、自分の本当にときめくことを心の奥から取り出したいという気持ちになったのだった。音楽や芸事は細々と続けていたので、ぷすぷすとあたたかいままの暖炉に、7年かけて決心の火をつけたといった感じでした。

 

そして、この祖母が好きすぎるという煩悶は、とても簡単な理由で解決されることになる。あの護国神社の帰り、母が夕闇の中で一言、祖母(彼女の母)についてこう言った。

 

「あんたは何も悩まなくていい。全部私のせいにするから」

 

カッコよくない!?既視感あると思ったら殤さまじゃない!!!????(黙れ

あの日以来、どんなことがあっても母は私の隣で爆笑して、そしてよく一緒に怒る。驚くほど機転がきいて、いつもポジティブな魔法の言葉をかけてくれる。

そして一度だけ私自身が彼女の魔法の言葉を奪って、結果泣かせた。2005年の3月末のあの日、初めて母が「絶句」したのを見た。

 

死にたかった。

いや、死ぬのは怖いな、消えていなかったことになりたかった、って感じ。

 

そんな風に、母の一言と決心と、それがわたしの今歩く人生の方向へ大きく舵を切るトリガーになった。

 

***

長くなってきたので、1つめの理由はまずこの辺で。次回はもう1つの決心への障害についてお話しできたらなと思っています。

母は未だに、他人に私が受験したことをその口から語らない。

「タカラジェンヌなりたいねェ〜!」みたいな誘導が上記7年間一言もないのはもちろん、受験時代はまったくもって他言は無用という頑なな姿勢。それは相変わらず「自分のせいでこういう人生の選択をさせた」と思っているからだそうで、なんとなく私の荷物の端っこに手をかけてくれているんだなと思うのです。

だから、私個人的には、冗談でも本気でも「うちの子タカラジェンヌになりたいって言ってる!」なんてSNSとかで世界中に発信する人を見るたびに蕁麻疹が出る思い。子供のプライバシーの大侵害だと思う。

3歳だろうが5歳だろうが10歳だろうが、子供にはもう社会の中の自分という繊細な意識や恥じらいがありますから、その無神経な一言が、彼女たちの夢を無意識理に踏みつぶさないこと。それを願ってやみません。届け俺の想い。

 

心から、ご静聴ありがとうございました。

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