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【徒然時事ネタ】キングオブコント2019→2020の変化に本職の兜の緒を締めた話 #コンテストおばさん

私が生業にする美容専門誌編集には「コンテスト審査」という業務がある。美容師さん同士がヘアスタイルの技術やデザインを競う大会があり、その審査をするのだ。

詳細は、オフィシャルの審査仕事をハッシュタグ #コンテストおばさん というものでまとめているのでご参照いただきたい。

まず、そのコンテスト審査のミッションを、私は

“技術の継承・文化の保存“

だと教えられて向き合ってきた。今、大衆に受けているものの尻をただ追っかけるのは(仮に必要だとしても)、それは「賞レース」「審査員」の仕事ではない。それが今のところの持論である。

それで自らに打ってきた楔が「#コンテストおばさん」だった。経年劣化するセンスを食い止める記録。アリバイづくり、せめてもの抵抗として始めた「言い訳と思考の蓄積」だった。

そんな審査の現場から、異動などがあって、コロナがあって、離れて半年以上。

私は、2020年キングオブコント(TBS/9月26日放送)を観た。

その口直しに2019年をまた見返して、自分がミッションに掲げる継承とか保存ってなんだろうと、考え直した。

今日はそんな、盛大な公私混同の話である。

「亡霊」に狂う

2020の決勝は、数日反芻したけど、やっぱり私は面白いと思えなかった。SNSをパトロールしているとそういう人が結構いたし(そのことを即時的に吐き出す便所のようなツイート・コメントには辟易するけど、いやがったという事実として)。推察するにその原因は、ファイナリストのほとんどが「俺の一番」を敢えて外すというか、今までと違うことをやるのか、これまでの自分たちの芸風でいいのか…、よくいえば過去の実績を一旦捨てて、チャレンジしているように見えた。

決意して「よし!」とビジョンが見えたチャレンジではなく、暗中模索に見えたというか。「どうしたらええねん」が最終的に顔に出ているように感じたグループさえいた。

これはコロナによって新ネタを舞台で下ろせないとかいろんな事情もあるのだろうが、その「後味」を拭き取ろうと2019年(※推してるうるブギが準優勝した年)を見直して、その「霧」の招待がわかったような気がした。

本職の審査の仕事で、美容師の先生に聞かされてきた言葉がポンと降りてきたのだ。

この優勝は「来年の基準」

美容師や美容学生の技術コンテストの審査は採点方式も基準も主催者の意向や方針によってさまざまだか、多くが審査員の総合的な加点や投票を積算するものだ。至極当然というか、演劇や映画などのオーディションなどは別にして、まあ大体の賞レースはそういう審査の仕方をするだろう。だから、私は6年前初めて技術コンテスト審査のお仕事をいただいたとき、そのことに何ら疑問を持たずにいた。

すると、集計の段になって美容師審査員の先生がたは「集計結果を元に議論しよう」と言い出した。

議論って何?数字を根拠にした結果なのに??

そんなポカン顔の私の前で始まったのは、集計上1位になったヘアスタイルの再評価だった。

技術、似合わせだけでなく、新しさは? いわゆるファッションモードのコレクションよろしく、半年先にそのヘアスタイルを元にしたトレンドを生むことができるか? そういったことを話し合い、その「数字上1位の人」に「優勝」を授けてもよいだろうという結論にいたり、授賞式に臨んだのだった。
※念のため補足しとくと、この議論で1位がひっくり返ったことは私の経験上ない。「講評でこう補足しよう」という審議付という程度。議論すること、あと、審査員が「あとからジャッジをジャッジされる覚悟」を持つことが必要という話なんだと思う。

そのようすに、本質はおぼろげでわからないながらも「すごい」と興奮さめやらぬ帰り道、一緒になった先生はその理由をこう語った。

「優勝って、大事なんだよ。来年チャレンジする子の基準になっちゃうだろ?」

震えた。文化を継承する現場とはこういうことかと思った。

無粋を承知の上で先生の発言を補足すると、審査員おのおのの評価を集計した採点方式は、圧倒的1位に票が集まることもある一方、平均的な「よくできました」に票が集まる危険も孕んでいるということだった。1位の票(得点)が割れた場合、全員が2位とか3位をつけたものが「優勝になってしまう」可能性があると。まあ、よく考えりゃわかるけれど。

それ(技術の鍛錬やアラのなさ)を競う大会であると割り切るのならばそれでもよい。だが、新しいデザインやモードを生み出す場としての役割に賞レースをおくなら、必ずしも覆すことはなくても「なぜその作品に票が集まったのか」を考えるべきだということだった。
(この「なぜ」は色々ある。大会全体のレベルもそうだし、もちろん審査員の“レベル“、つまり「その辺りの自負があるかどうか」ということも。)

その先生は、とにかく「技術が前に進むこと」をといた。

また、別の先生は、授賞式の総評でこう言った。

「入賞した皆さん、おめでとう。紛れもないあなたの鍛錬と努力の成果だから、ぜひ誇りに思ってください。
ですが。さあ、たった今から優勝した人もしなかった人も、皆さんのデザインは【過去のもの】になりました

私は、美容師の先生のように技術を遺しうる最前線の感性は持ち合わせていないけれど、言葉の専門家としてこの金言は残したいと思い、折に触れて接触するコンテスターたちにこの話をしている。

美容師のコンテスターたちも、コント師や漫才師の方達と同じように「売れてれば賞なんかいらないじゃん」「それより売れる方が大事でしょ」という残酷な合理主義と闘っているからだ。

打ち上げの配信で、ジャングルポケットの太田さんが「正直食えてるけど、どうしても(王者というタイトルが)ほしい」と声を震わせたのを見て、いつも胸が熱くなる技術コンテストの授賞式の風景が眼下に鮮やかに蘇った。

大衆と「競技の笑い」

こう言ったわけで、私は「2019の結果」が、2020の挑戦者・ファイナリストたちの【照準】を狂わせたことが、全体的なふわふわ感・間延びの原因だと思っている。

ただ、2019チャンピオンの彼らの芸風は間違いなく最大公約数が笑うものだと仕組みとしても理解している。

「ド直球の下ネタを“シンコペーション+三連符の短調のメロディ“にシステム化して死ぬほどくだらないギミックも何もない歌詞でありながら聴かせる」ことに成功したのは、下ネタが嫌いな人にとってもリズム系が嫌いな人にとっても、“どちらにも例外“になりうるからだ。この逆張りがうまい。そう考えると、さすがはチャンピオンという部分も、肯けはする。

そして、実際会場が揺れるほどウケた。これは紛れもない事実だ。

細かいことを言えば、キングオブコントはM1と違って「ファースト+ファイナル」の加点方式なので、1回戦の爆発で逃げ切ったような格好だと読み取った。というのも、ファイナルステージのジャルジャルとうるブギは両者持ち味の真骨頂であって、ファイナルだけでいうと2組ともかなり善戦していた。

そんなシチュエーションコントの猛者たちが、あの「下ネタの歌ネタ」に逃げ切られて負けた。

これが、2020年の番狂わせの理由かなあと思っている。笑いに関しては素人だが、賞レースの現場で6年働いた私なりの1つの仮説だ。

よくこの手の番組が終わると(というか最近は並行して)、視聴者が自分たちの「面白かった」かどうかを振りかざして、審査員を非難する光景が定番だが、賞レースって「そこじゃない」部分と「結局そこ」という部分が混ざり合った非常に曖昧で難しい存在なんだよなとも思う。

ある養成所講師が賞レースのことを「競技の笑い」という表現をしていたのが一番しっくりきたが、自分の仕事に寄せるなら

・大衆のウケ=トレンド、サロンスタイル
・競技の笑い=モード、クリエィティブ

というとわかりやすいかな。ファッションやビューティのシーンでは、トレンドに飽きた人が大衆に逆行を始める。それによって、新しい着こなしや組み合わせ、デザイン、製品が開発されていく。

だからさ、M1もR1もキングオブコントも、要はコレクションなんだよね。パリコレに東コレ。(≠●GC)

これも部外者の戯言だけど、審査基準とか審査員とかそもそも番組制作の軸に問題があったとしても、審査員1人ひとりはやっぱり私たちと一緒で、「何かを開発するんだ」という気概であそこに座っていると思う。
とは言え、やっぱり大衆が沸いたら加点はしたくなるのも心情だ。「競技の笑いだから大衆ウケは一切加味しない」というのも、これは極端で間違っていると思う。美容の技術コンテストでもあるんだ、うーん、何が新しいとかエッジがあるわけではないんだけど、どう考えても誰よりもめちゃくちゃ可愛いんだよな…というとき。競技の笑いと大衆ウケは一致はしないが、背反もしない。線引きもできない。マーブル模様の微妙な色で、毎秒変わるものだ。

ただ、別にその【微妙な色】を、一般視聴者・消費者がふまえるべきとも特には思わない。言いたきゃ自由に言えばいいのだ。ただこのSNS社会、反射で吐き出される戯言と熟考の末の血の一句が同質視されやすい中で、審査員や番組制作者といった「専門家」たちが足を取られないでほしいなとは、似た仕事をしている身としてうっすら願っている。

一般消費者として気をつけておきたいのは、これはテレビの話ではないけれど、「専門家」でありながら支持ほしさに「大衆ファースト」で専門知をかき回す人もいるから、余計に話はややこしい。この逆で、専門知を振りかざして大衆を押さえつけようとする人もいる。感性が今より自由だった時代はこういう人は嫌われたが、何にしても「誤読を恐れる」今、メキメキと頭角を現す。

二大めんどくさい民。イデオロギー、ヘイト、差別と同じ、何事も極端は害悪である。

見るプロの本懐

あの番組を始め地上波のお笑いを扱うバラエティ番組の問題は、改めてじっくり見てみて、自分の業種の問題にもすごく似ているなと思った。いや、分析するだけなら簡単で怒られそうだがしっかり自戒も込めて、要は番組制作が「作る人が出る人よりも面白かった時代」のパッケージのまま、中身がスカスカになっているという点が酷似していると思う。

受賞者とかファイナリストとか、再生数という実績に飛びついて、そういう人を“使えば“いいと思っている。

一人ひとりのネタを知らないだろうなとも思う。劇場に足繁く通っているスタッフが何人いるか。事務所のプッシュとは別に、作家や製作側が目をかけているルーキーはいるのか。

私たちの時代でいう「とぶくすり」みたいなことが、いつからかじわじわと見られなくなっていってる。大体、すごい名前だよな、飛ぶクスリって…

いや、本当に、笑いとか音楽とかアートという非言語のカルチャーって、劇薬と言っていい。言葉を介さずに笑いあえたり分かち合えたりするから素晴らしくもあり、だからこそ言葉を介さずに人の精神を支配できる、まさにクスリみたいな存在だ。わかりやすさや大衆ウケは、いつもプロパガンダの隣にいる。

だから、そこに「競技」という秩序の楔がいるんだなあ、秩序で支配できないジャンルだからこそ。たぶんそれが、本当の本当はメディアの本懐のはずだった。

人もカルチャーも一人で進化していくことはできないなと、そんなことを思った2020年の秋でした。

ご清聴ありがとうございました。

追伸 最後に私の推し見て。最下位と&ブービーだったつらい

笑顔が悲しくて草

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