紛れもなく私の話だった―映画「花束みたいな恋をした」感想

※ネタバレを含みますのでご注意ください。

これは、紛れもなく、私の話だった。誰しもが自分の話なのではないかと錯覚しているところ大変申し訳ないが、紛れもなく、京王線沿いで大学時代を過ごした私の話だった。京王線のシートのピンク色の張地、明大前駅の改札、調布のパルコ、京王バスですら、私の記憶に重なって溶けた。

天竺鼠の単独ライブ。笑ってしまうが、絹と麦にとってキューピッドのような存在だ。偶然か、本作の公開日1月29日には、ルミネtheよしもとにて天竺鼠の単独ライブが開催された。私はそれを観ることができなかったショックを引きずったまま映画館へ向かい、本作を鑑賞した。すると、麦と絹も天竺鼠の単独ライブを見逃していた。私だ、と思った。私の物語ではないか、と思った。頭を抱えてしまった。勢いで隣の席のおじさんに「これ、今の私です」と言いたくなってしまった。購入したパンフレットをめくると、天竺鼠の単独ライブのチケットを模した紙片が挟まっていた。まさかパンフレットにまで演出が及ぶとは。くらりとした。

先に、麦と絹についての所感を書きたい。

麦は、別れた方がいいと分かりながら、絹に対して「結婚すれば解決可能な問題だ」と提議し、自分にも言い聞かせるように説く。恋愛と結婚を同列に語らない男性の思考がふと現れる。告白も、別れも、実は麦から言い出している。そっかあ、麦が言い出すんだなあ、と思っただけなのだけれど。それと、忙しさのあまり心にゆとりがなくなってしまい、自分が好きだったはずの文化的・文学的なことが急に鬱陶しくなり雑に扱ってしまっている、ということを自覚している姿には苦しくなった。それらを変わらず楽しんでいる絹への苛立ちなのか、麦自身への苛立ちなのか。そんな葛藤が私にもいずれ訪れそうで怖い。面白いと思えていたものを面白いと思えなくなる日を想像すると、とても怖い。私は絹でありたい。絹のように生きたい。

絹は、麦のカルチャーへの感覚・リテラシーみたいないわゆる"中身っぽい"とされる部分を好きになったはずだ。けれども、麦とうまくいかなくなって、ラーメンという一般的で画一的なテーマを提示されただけで加持に惹かれてしまうところに、もやもやする心が感じられて苦しい。描写こそないが、きっとラーメンを食べたあと加持とソウイウコトをしたんだろう。そういえば、絹はラーメン大好きという説明があったのに、麦と絹がふたりでラーメンを食べるシーンなかったなあ、と思い余計深読みしてしまう。

菅田将暉と有村架純でいうと、共演は映画「何者」ぶりらしい。私はそちらの舞台挨拶に行っていたことを思い出し、ふたりにとっての5年は私にとっても5年なのだなと、感慨深い気持ちにもなった。

個人的に「共感」と「面白い」を一緒くたに扱うのが苦手だ。本作に関しては、キャッチボールに例えると、変な位置に来た球を無理やりキャッチしてあたかもうまくキャッチできたような顔をさせられてしまうわけではなくて、なぜか自分の来て欲しい場所に球が飛んで来てグローブにすっぽりおさまってきょとんとするような、「共感」では表現が正しくない気がして言葉の選択に迷うのだが、とにかく、私のグローブにすっぽりおさまった。

自分を見透されるような体験。坂元裕二作品を観ていると、自分自身が見て見ぬ振りしていた自分の心の痛みに気づかされたりする。東京ラブストーリーのリカには何度苦しめられただろう。度々「なぜ私のこと知ってるの?」と疑念を抱いているのだが、本作もその感情に近く、ちょっともう勘弁してよ、とすら思う。そういうことを思いたい、という自分の願望なのかもしれないが、坂元裕二先生は私のことを見透かしている。あれは魔法だ。間違いない。そしてあまりにも言葉が美しい。ずるい。

上映後、満席を見て思った。いったいこの中で、どれだけの人が“土井裕泰の作品”“坂元裕二の作品”としてこの作品を受け取っただろうか。“菅田将暉の作品”“有村架純の作品”という受け取り方ももちろん肯定するが、押井守のシーンのせいで、なおさらそのことを考える。もしかしたら、よくある恋愛映画として処理する人も多いかもしれない。おかしくはない。なぜならよくある普遍的な恋愛が描かれているから。だけれど、だからこそ、私にとって特別な作品になった。でもみんなにとっては特別になってほしくない。そんな独占欲すら生まれる。

そんなことを考えながら映画館を出た瞬間、街の喧騒に苛立ち、耳を塞いだ。

「上書きしないで。もう少し余韻に浸らせて。」と。


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