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場所の持つ神聖性~自然信仰の気配とは

 私は今、瀬戸内海に浮かぶ小豆島に住んでいる。生まれは福島県の会津若松であるが、地銀に勤めていた父の転勤に合わせて福島県内を転々としながら育った。地元の大学を出るまで福島で過ごし、社会人になってからは東京で15年ほど働いた後、香川県の小豆島に移った。住まいが東北から東京を経て四国・瀬戸内海と流れていったわけだが、私が特に思うのは、東から西へ移動するにつれて、土地の雰囲気や歴史がより重厚になっていく、という印象があることである。瀬戸内海は、昔から朝鮮半島と大阪との海洋交通が盛んで、様々なモノと同時にヒトも往来した。その交易の要衝の一つが小豆島である。小豆島は古事記の国生みの章において十番目に生まれた島として記載されており、その歴史は長い。小豆島をはじめ、瀬戸内の島々には、もはや言い伝えも途切れてしまった祠や謎の巨石など、様々な人の往来の中で、すでに忘れ去られた遺跡がそこかしこにある。それに対して東北は、時の将軍が「征夷大将軍」(東北の蝦夷(えみし)を討伐する大将)という大義を天皇から授かっていたことにも明らかなように、国にとっては江戸時代まで“未開の地”であったから(もちろんそこには人々の生活があったわけだが)歴史的には遅い地域なのである。

 私が感じる歴史の重厚感は、島々に残る遺跡とそこに込められた想いが地層のように重なり、私たちの生活の足元にある、という感覚から受ける印象なのかもしれない。小豆島は小さい島でありながらも様々な信仰を内包する歴史を持ち、日本人の信仰心を象徴するような場所でもあるのだが、西日本はおしなべてそのような雰囲気がある。東北から渡ってきた私の率直な感想である。

 さて、この島には「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨石信仰の場所があるが、私が感じる歴史の重厚感とともに、昔の人々も感じたであろう、「場所の持つ神聖性」について、この場所を例に挙げて述べてみたい。

 「重ね岩」(かさねいわ)と呼ばれるその場所にたどり着くためには、島の西側を通る町道から、脇にそれて入る山道を車で10分ほど走らなければならない。そして山の中腹にある小さな駐車スペースに車を停め、そこから階段を約400段上がっていく。途中、地元の自治会が建てた庵があるが、そこからさらに舗装されていない坂道を地面に這わせた鎖をたどり、時には支えにしながら登っていく。到着するまで約30分。車がなければ山のふもとからてっぺんまで、昔の健脚でも小一時間はゆうにかかったであろう。軽いトレッキング感覚だが、慣れていない人にとっては息が上がるくらいの場所である。岩の間の小道を登りきると、ふと、その山頂に謎の巨石が鎮座している。大きさは横7メートル、縦2メートルほどの横長の立方体。さらにその左肩には3メートル四方ほどの石が乗っている。下の大きい石は安定性がなく、今にも転がって落ちていきそうなかたちでそこにある。上の石も滑り落ちそうなかたちで、どうにも心もとない。石の足元には社が建てられていて、地元の人たちによって管理・祭祀されている。断崖絶壁の山頂にある巨石に圧倒されることはもちろんだが、ここはなにより景色が良い。巨石を背にする形で海に向かうと、視界のすべてが瀬戸内海である。眼下には海苔養殖のためのブイが海面に整然と並んでいるのが小さく見える。ずいぶんと遠くまで霞むように数々の島が大小浮かんでいる。青々とした海原からあがってくる風に吹かれていると、汗が爽やかに乾き、心身が整う感覚がする。ここは「聖域」である、と思える瞬間である。

 不思議なバランスを保つ巨石は人知を超えた神秘的な力を感じさせるものであるが、この場所を「聖地」たらしめているのはそれだけではない。景色や匂い、気温や湿度、風、静寂の中に響く物音など、複数の要素が重なることで、非日常性が増幅され、聖域という意識が人々の心の中で形作られるのではないか。この巨石がある頂に立つとき、私はそのように感じるのである。

 昔の人はこの岩を神として祀っていたし、それは今でも続いている。

 人知を超えた超自然的な現象によって、このような光景が形づくられていると想像することはそれほど困難ではない。天から巨大な手が伸びてきて、ここに岩を重ねたのか、はたまた巨人が表れ、この岩を担いでいったのか。実はそうではなく、この大岩自身が、遠い国から空を渡って飛んできたのか、、そのようなあらゆる想像を巡らせることができるのである。

 こうした「空想」は、巨木や山、大地、海、太陽、月、星、雷、風などに対する自然信仰の発端となっているのである。また、これはアニミズム的な精神性、そこから派生するシャーマニズムなどの根底にも確実に存在する。

 すなわち、ある「場所」が「聖地」となるためには、そこに向かう道程やその間の体験、五感の刺激、さらには自らの身体の変化(体温の上昇、発汗とその蒸発など)などが統合され、種となって神聖なるストーリーが形成される必要がある、と考えるのである。

 あらゆる聖地にはそうした共通の要素が必ずあるはずである。これを意識しながら訪問することは、自分の感覚を研ぎ澄ますことにもなるから、実はよりその場所の神聖性を感じ取るきっかけにもなるかもしれない。

 場所の持つ神聖性とは、その場所だけでなくその地に立った自らの存在があって初めて成立する特殊な作用である、といえる。

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