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腹式発声


 私の父は難聴でした。四十代ですでに補聴器を使っていました。晩年は、私以外のほとんどの人とは、補聴器なしでは会話できませんでした。なぜ私の声は補聴器なしで聞こえるのか。それは、私が高校演劇出身だからです。
 高校の演劇部に入ると、大体の場合、腹式発声を習います。腹筋を使って大きな声を出すという技術です。大きな体育館で芝居をするには必要な技術です。高校二年生が高校一年生に教えられるぐらいの技術ですから、それほど難しい技術ではありません。
 この腹式発声が難聴の父の介護で役に立ちました。
 皮肉なことに、高校を卒業して演劇を続けた場合、この腹式発声というのはむしろ邪魔になるクセです。小さな劇場で公演する場合、必要ないのです。うるさい。また、大きな劇場で公演をするような大きな劇団は、ワイヤレスマイクを使っている場合が多いので、必要ありません。さらに、腹式発声は声の個性を薄めてしまう欠点もあります。呼吸の仕方を含めた発声法がその人の個性なのです。
 しかし、難聴の人との会話では役に立ちます。
 ある日、父の診察に付き添いました。私と父が補聴器なしで会話しているのを見た医師は、まねして大きな声で話そうとしました。腹式発声はむつかしい技術ではありませんが、見てすぐできるという物ではありません。なれない声の出し方をして、先生、むせ返っていました。私は基本だと思っていましたが・・・先生、医学部では腹式発声を習わないのですか? 
 人生、どこで何が役に立つかわかりませんね。
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イラスト by koriko

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