演劇と家と日常/非日常と面白いと『彼方のアストラ』

 僕は幸運にも、「家」には良いイメージを持っています。それは両親や兄弟とそれほど仲が悪いというわけではない、というところに起因します。目に見えて虐待を受けていたわけでもないし、経済的に苦しかったわけでもなく、すこやかに成長できた僕にとって、家はポジティブなものです。ですが、世の中には、そういったポジティブな思いを家に対して抱けない人もいるであろうことは想像に難くありません。それは家族関係のことであるかもしれないし、経済的な理由かもしれないし、もしかしたら立地が原因かもしれません。おおよそ、それらは「人間関係」と言い換えることができるでしょう。演劇もそういった、「家」になり得るかも、ということは以前にも書きましたが、上で述べたようなことを考えると、「家」というのは少し不適当なのかもしれません。「居場所」というのが、よりフラットな物言いのように思います。僕にとって演劇は「居場所」か、というと、たくさんある居場所のうちのひとつ、という感じです。「コミュニティ」とも言えるでしょうか。とにかく、唯一無二のもの、というほどではありません。劇団に所属しているわけでもありませんし、「ホーム」といえるほどのものを、僕は演劇に対して持ち合わせていません。とある友人が、Wikipedia で「初期の貿易会社は、航海の都度出資を募り、航海が終わる度に配当・清算を行い、終了する事業であった」という記述を見て、「演劇集団や公演に対して、初期の貿易会社的なイメージを持っている」と言っていました。どこにも属していない僕も、演劇をやる際はまさに初期の貿易会社なのでしょう。贔屓にしている主催者が居はすれど。

「日常=ケ」と「非日常=ハレ」というものについて考えてみると、演劇は僕にとっては間違いなく「非日常=ハレ」です。それは1年に1回程度しか演劇(公演)をしていないからかもしれません。これが毎日のように稽古をしていて、毎月のように舞台に立っている人だったら、「日常=ケ」に感じるのでしょうか。
 演技として、「誰かの日常」を演じることはあります。宇宙人とか未来人とか超能力者とか地底人とかの役でなければ、だいたい日常的な範囲の演技をすることになるのではないでしょうか。先日参加してきた「架空のプレ稽古」でやった『無産市民のお茶会』という演目では、僕は架空のコーヒーショップの店長の役をやりました。それは紛れもなく、「店長の日常」を演技したものでした。でも演技自体は僕にとっては「非日常=ハレ」だったわけで、「日常の演技」が「非日常=ハレ」に感じられるというのはなかなか面白いですね。今思い返すと、その「非日常=ハレ」の感覚もだんだんと「日常=ケ」に感じられるようになっていったように思いますが……「架空のプレ稽古」の恐ろしくも面白いところです。

 この「面白い」という感覚は、僕はいつから持つようになったんだっけと思うと、よくわかりません。生まれつき持った感覚ではなかっただろうことは想像がつきます。親の影響なのか、テレビの影響なのか、本の影響なのか……「面白い」の代表格であろう「お笑い」は、基本は「期待ハズシ」の技術だと思っています。「期待ハズレ」ではなく。なんで期待をハズれると面白いんでしょうね。不思議です。期待を上回ると面白いのかな。「その発想は無かった!」「やられた!」「すごい!」という感覚が、「面白い」ということでしょうか。「面白い」とは、「称賛」の一形態なのかもしれませんね。そういう面では、最近見たテレビアニメであり、最近読んだマンガの『彼方のアストラ』は、まさに期待を上回った、称賛の意味での「面白い」作品でした。

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