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幸せに生きる方法㉒

永井博士が呼んだ

 長崎市には、中学校の修学旅行で行ったことがありましたが、それから40年近くになります。修学旅行以外で足を踏み入れた記憶がなく、縁遠い土地に思えました。
 長崎に入ったのは、新緑の頃、真っ先に長崎大学医学部に向かいます。
そこは、原爆投下地のすぐ近くでした。この位置関係では、原爆が投下された際に大学は一気に倒壊したものと思われます。
 鎖国していた江戸時代、長崎は西洋側に開かれた唯一の窓口でした。開明的な土地柄ゆえ、長崎大学医学部の前身長崎医科大学は早くに開設され、医者になるには東京か長崎まで行って学ばなければならない時代もあったといいます。
 その時代に、医者を目指し、島根県から長崎医科大学に進学された方がおられたのがわかりました。その方は、永井隆博士。
永井博士は、原爆投下時に自らも重症を負いながら多くの人の救護にあたり、命尽きるまで平和を訴え続けられました。
長崎市名誉市民として、長崎では知らぬ人はない存在です。
 
 長崎大学医学部から平和公園へ向かおうとした時、「如己堂」の看板が目に入り、そのまま引っ張られるようにそちらの方向へ向かいました。
「如己堂」は、博士が病室兼書斎として使っていた3畳一間の建物。
その建物を見た瞬間、永井博士に呼ばれてここに来たのではないかと思いました。
 永井博士のことは知ってはいても、今までさほど意識するような存在ではありませんでした。「如己堂」に隣接する永井隆資料館には、博士の生い立ちから残された業績まで詳しく紹介されていました。
 永井博士は、島根県雲南市で幼少期を過ごされたことは知っていましが、松江市の旧制松江高校(現:松江北高校)に通っておられたことは、ここで知りました。なんと息子が通っていた高校の大先輩だったのです。
 島根県とは縁が薄いと思っていた長崎大学医学部が急に身近に感じられてきました。永井博士が被爆したのも長崎大学医学部の構内。命がけで救護に当たられたのもこの周辺だったのでしょう。
 医者といえば、高学歴・高収入のイメージを持っていましたが、永井博士は誰に対しても本当に頭が低く謙虚な方だったようです。医師としてアフガニスタンに渡り、復興支援にも尽力された中村哲氏と同様、人として尊敬します。
 息子には、高校の大先輩永井隆博士のような医者を目指して欲しいと思いました。
かの地に呼んだのは、永井博士だったと思うのです。

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