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7月12日(金)生きる希望とは

朝4時に横の3号病室の叫び声で起きた。迷惑。あなたこそPICU(A)へ。 4号の人も、もちろん起こされてて、まじで話したいと思った。 寝なって言われたけど、寝れるかいな。私もドンドンしてやりたかった。 本も先生の許可ないから借りれない。時計もない。まさに地獄。


我に帰って、医保や課題について考えた。まだ希望は捨ててない。 母の存在がシビアだが、絶対に今日、退院する。バイトあるし。


昨日、🌲🌲さんが、寝てる私に、「母に健渡すよ」って持ってった。 ホテルに泊まれよ、とはさすがに言えなかった。見られたくないノート 置きっぱなしなのまずいねー。もう現実見たくないわ。


9時頃,主治医が来て面談。母と三人で。先生は言った。「一人で生活できる 状態じゃないと判断したので、後期から休学して大阪に帰ってもらいます」 理解して欲しいと願った結果がこれか。いくら嫌だと言っても、先生はキツイ言葉で 頑なだった。とりあえず、OTに行くことにした。


🌌さんは集団OTで、11時から話を聞いてくれた。私の心に寄りそってくれた。 私は泣いた。私は私の心に寄り添ってほしかった、それだけなんだ。


🌄さんと話して、また泣いた。二人とも気持ちを伝えなと言った。だから、主治医が 求めてきたように、説得するための文章を書いた。


でも、意味なかった。もはや最初から形だけで聞く気なんて1mmもなかったんじゃないかと 思った。「現に生活できてなくて、前からこうしようかと考えてた」と言われた。母も主治医も、 私の諦めたくないものを分かって、応援してくれていると思ってたからショックだった。世界中の 人が敵に思えた。私に味方なんていないと感じた。「翠さんの言うことを聞かなければ 敵というのは子どもですね」だんだん自分は我が慢を言ってて、先生が絶対的に正しい のだと感じはじめた。苦しむ私はおかど違い。


でも、母との生活だけは受け入れたくなかった。何を知ってて、そんなことを言うの? 母は安全基地でも愛情を求める対象でもない。無条件の愛を与えてくれる唯一の存在」 という言葉が、息がつまるほど苦しい。私の理解者だと思ってた母は敵になった。


みんな、死んでほしかった。最後に一言、私は母に「死んで」と言った。そこで面談は終わった。

どうしても明日の部活の打ちあげに行きたかった。でも、ムリだった。 “7月末まで母と暮らし、母が安心したら後期も大学に通える"。 面談でかなくなな主治医の態度で、面談後私もこれはどうしょうもなく 変えられないことなのだと受け入れた。それを主治医に伝えたが、「さっきまで 嫌だと言ってた人が急にそんなことを言っても信じられない。火曜日までここにいて、 お母さんと暮らす生活案を考えて下さい」と言われた。ごもっともであるが、 こんなにキツイ言葉で傷つけられるほど、私は誰かを傷つけたり、悪いことを しただろうか。周りを気遣ってる私は、なぜこんなに傷つけられなければいけないのだろうか。 これがODだというのであれば、返す言葉もないが、生きる過程として認めてもらえないのは辛い。


今後、私は主治医のもとで治療を受けられるだろうか?大好きなOT、心理士さんと 天秤にかける日は、そう遠くないかもしれない。


🌊先生と話した。嫌な言葉を言われなかった。的を射てて、痛いとは思ったけど。 「お母さんとしっかり話しなって。私ならできるっていう自信を持ってくれてるらしい。 私、先生の子どもに生まれたかったなー。先生の言う「大丈夫」が私にも大丈夫だった。


🌄さんがずっと寄り添ってくれた。ありがとう。今日、たまたま開放病棟の看護師さんが応援で 来てて運が良かった。


母と暮らす新しい計画案は、気持ちが追いつかなくてまだ書けていない。でも 火曜までに仕上げとかないと、木曜のスピーチテストに間に合わないので、それまで には仕合げよう。


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