僕の好きな漫画14「タイガーブックス」

第14回目となりました。今回ご紹介したいのは手塚治虫著「タイガーブックス」です。

手塚治虫さんというと、言わずと知れた「漫画の神様」。僕が今更何か書くこともないのですが、やっぱり好きな作家さんだし、一度は触れたいなぁと。

拙著「ブラックジャックによろしく」は、手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」を念頭に置いたタイトルとなっています。連載開始前、担当編集者に「タイトルのどこかに『ブラックジャック』という言葉を入れたい」と言われ、最初は「そりゃ無しでしょ〜」と引っ繰り返ったものの、思い直して「じゃあ、『ブラックジャックによろしく』か『ブラックジャックにおまかせ』なんてどうですか?」と提案し、「『おまかせ』よりは『よろしく』でしょう」ということで、「ブラックジャックによろしく」というタイトルに決まりました。他人の漫画のタイトルを、しかも手塚治虫さんのタイトルを拝借していいものかと逡巡しましたが、どうせやるならより下品にダサイタイトルにしようと思いました。そのくらいやらないとロックじゃないよなと。

担当編集者からは「タイトルに著作権はないので使用に問題はないが、一応、手塚プロに通告だけはした。使用の許諾を求めたり、お伺いを立てると話がややこしくなるので、それ以上はしないほうがよい」と言われ、そういうものかと納得していたのですが、その後、版元の秋田書店の編集者に嫌みを言われたり、人づてに「手塚プロが怒っている」という話を聞いたり、当時、編集者任せにして、自分で足を運ばなかったことを後悔しております。「ブラックジャックによろしく」の二次利用フリー化に際しては、「お前こそ二次利用だろう」とか「手塚先生に謝れ」などと各所で言われましたが、ニセモノの僕は下げる頭すら持っていないのです。手塚治虫文化賞を辞退した時も散々批判されましたねー…。生意気なんですって。

で、僕は手塚治虫さんの漫画が大好きです。20代の頃の本棚には手塚さんの著作単行本が200冊以上並んでおり、批評本や研究本も何冊か持っているくらいには好きでした。(その後、捕われ過ぎてはダメだと思い全部、友人にあげるか売り払ってしまいましたが…)「火の鳥」は繰り返し読みましたし、「ブッダ」は初めて読んだのが風邪を引いている時で、熱にうなされながら何度も夢に見ました。「アドルフに告ぐ」は高校の図書室で読破し、「奇子」や「きりひと讃歌」も大好きです。短編で「うろこが崎」というのも面白かったなぁ。「陽だまりの樹」「ばるぼら」「MW」「三つ目が通る」「ザ・クレーター」などなど、延々と好きな作品のタイトルを上げ続けることもできますが、実のところ、手塚治虫=神という世代ではありません。

戦後の漫画史の中で非常に重要な存在であることは理解していますし、トキワ荘グループがあって、それに対抗して劇画があって、大友世代がそれらを塗り替えて、それも古くなり、その延長線上に自分がいることは何となく理解しています。僕はオリジナルではなく、時代の流れの中で登場した一作家です。そうした漫画史の流れとは別に、単に作家として手塚治虫さんを他の作家と一緒に並べた時、僕にとっては手塚さんは影響を受けた偉大な漫画家の1人ではありますが、それ以上ではありません。

作家の仕事は創造することです。それは破壊することとよく似ています。何かを完成させる時に必要なものは「未完成なもの」です。未完成だから完成させられるのであって、すでに完成しているものがある場合、それを一破壊するしかありません。戦後の漫画というスタイルができあがっているなら、それを壊さないと新しいものは作れません。つまり、手塚治虫さんは乗り越えるべき対象であって、神と崇めてしまっては新しいものが作れなくなる気がしてしまうと言うか。だから、十分に敬意を払いつつも、神格化はしたくないのです。

下記は手塚治虫さんのオフィシャルページからの引用です。

「手塚治虫は、1928年11月3日、大阪府豊中市に3人兄弟の長男として生まれた。開放的な家庭に育ち、漫画とアニメーションに親しみ、機智に富んだ想像力豊かな少年であった。また昆虫をこよなく愛し、ファーブルを思わせる少年でもあった。自身のペンネームに「虫」という字を当てたことでも、その興味の程がわかる。戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して後年医学博士になるが結局彼自身が一番望んだ職業を選んだ。すなわち漫画家、アニメーション作家である。手塚治虫が創作した漫画とアニメーションが、第2次世界大戦後の日本の青少年の精神形成の過程で果たした役割は計り知れない。

手塚は、それまでの我が国の漫画の概念を変え、数々の新しい表現方法でストーリー漫画を確立し、漫画を魅力的な芸術にした。また、彼の作品は、文学や映画をはじめ、あらゆるジャンルに影響を与えた。同時にアニメーションにおいても、漫画におけるそれに勝るとも劣らない大きな足跡を残した。

我が国初の連続TVアニメーション「鉄腕アトム」や、連続TVカラーアニメーション「ジャングル大帝」、2時間TVアニメの「バンダーブック」など、これらの作品の愛すべきキャラクター達は、TVを通じて日本中を席巻し、アニメーションを大衆に深く浸透させることになった。また手塚の作品は、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国にも輸出され、世界の子供達の夢を育んだ。加えて大人向け長編アニメの制作など、アニメのあらゆる可能性にチャレンジした。これらのTVアニメ、商業アニメにおける業績に加え、晩年は、実験アニメにおいても国際的に大きな評価を得た。それらのすべての作品には、手塚の永遠のテーマである生命の尊さが貫かれている。

偉大な文化の創造者である手塚は、立ち止ることを知らず、常に大いなる開拓精神と飽くなき情熱と未来を見つめる確かな眼差しを持って、その生涯を走り抜けた。1989年2月9日、その60年の生涯を閉じた。」


その仕事法に関しては、Wikiにこんなことも書いてあります。

「ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった。

手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったとも言われている。

上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。
漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。
速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。

漫画の製作に取り掛かりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。また手塚は極度の激務家だったことで知られる。手塚自身、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったと言われる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。」


月に数日しか眠らないというとカッコイイですが、スタッフや周囲にも厳しい方だったという話をお聞きします。その仕事スタイルに付き合わせてしまうというか。

手塚治虫さんに大きな影響を受けた作家さんとしては次の人たちが挙げられています。


藤子不二雄

藤子不二雄の二人は手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志した。
その後藤子不二雄としてデビューし手塚の住んでいたトキワ荘14号室に入れ替わりで入居して暮らす。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。そのため、藤子不二雄の初期作品は手塚の机で描かれたものである。

その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚の仕事を手伝っていた。藤子・F・不二雄は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Aも同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「まんが道」では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。 現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響が大きい。


石ノ森章太郎


石ノ森(旧:石森章太郎)も手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受けた。中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという。


赤塚不二夫


赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新寶島」「ロストワールド」に出会ったことで漫画家になることを決意した。彼が18歳の時は長谷邦夫、石ノ森章太郎と一緒に『墨汁一滴』を描く仲間として手塚の家を訪問した。その時、手塚は締め切りに追われ忙しいにもかかわらず赤塚達の似顔絵を描いたり、ピアノを披露したりして彼らは感銘を受ける。赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」と助言した。


水野英子


水野英子も小学3年の時に手塚治虫の漫画に衝撃を受けて漫画家を志す。水野は16歳の頃に手塚に会いたいと伝えて東京に行き手塚と出会った。数年後、水野は上京して手塚が住んでいたトキワ荘の住人となる。水野は女性少女漫画家の草分け的先駆けになった。


横山光輝

横山光輝も手塚治虫の「メトロポリス」に感銘を受け漫画家を志す。


松本零士

松本零士も小学二・三年の頃に学級文庫で手塚治虫の描いた本を読んで漫画家を志した。それは手塚の「新宝島」「キングコング」「火星博士」「月世界紳士」であった。


永井豪

永井豪も手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る。「僕の人生は手塚先生の作品から始まった。」とも言い彼は子供の頃に手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。永井は初め手塚治虫のアシスタントになるために手塚プロダクションに出向いたが、あいにく手塚と連絡が付かず、代わりに知人に紹介された石ノ森章太郎の下で仕事を手伝うことになった。


古谷三敏

古谷も手塚の漫画『新宝島』を読んで漫画家を志した。彼はその時の様子を次のように語っている「ぼくも子供の頃に手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃を受けたひとりです。それまでの漫画と比べてスピード感があって、ストーリーも絵も、今までの日本にない。ディズニー映画のようなアメリカナイズされた文化を垣間見た感じがしました。何百回読んだかわかりませんし、『新宝島』を読んで漫画家になろうと決めたんです。ぼくのデビュー作『みかんの花咲く丘』も手塚先生の漫画をずいぶんと参考にしています。」


さいとう・たかを

さいとう・たかをも手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。手塚治虫の「新宝島」を読み、「紙で映画が作れる!」と興奮したという。昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅を尋ねた。しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたためにさいとうは手塚に会うことはできず、手塚の母と二・三言話しただけで帰ることになった。この初期の頃のさいとうの漫画は手塚のような絵柄を描く漫画家であった。



つげ義春

小学校4年生のころに手塚治虫のマンガに熱中しはじめる。新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3ヶ月に一度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわび、買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。16歳の時に一人で部屋で空想したり好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す。当時、トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める。


白土三平

白土は貸本時代は手塚に似た絵の漫画を描いていた。白土の初期作品「嵐の忍者」では手塚のスターシステムのキャラクターが登場するなどその影響を見ることができる[213]。手塚もそのことに言及しており「たとえば白土三平氏やつげ義春氏のかつての作品が、円熟した時代のものにくらべて、きわめて手塚的であるのは、おそらくはぼくの漫画を教科書として使ったのであった。イミテーションを望んていたわけではないはずだ」と語っている。白土は徐々に手塚的な作風を止め、劇画作家へと転向し手塚の最大のライバルとして立ちはだかった。劇画ブームが起きると白土が率いる「ガロ」に対抗して手塚は「COM」を立ち上げた。手塚は「白土三平氏が登場してから子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになった」と語っている。


大友克洋

幼い頃から手塚作品を読んで育った大友は手塚に高い敬意を払っており、自身の代表作「AKIRA」を手塚に捧げるとし、同作品の末尾部分に「手塚治虫先生、ありがとう」という感慨深いメッセージを織り込んでいる。


萩尾望都

萩尾は高校二年の頃に手塚の漫画「新撰組」に出会い、強い衝撃を受け漫画家を志した。


里中満智子

里中は小学校入学直後に創刊されたばかりの『なかよし』で手塚作品に夢中になり愛読していた。しかし、彼女はそれだけでは物足りず、貸本屋に通い詰め手塚作品をむさぼるように読んでいたという。


こうしてその仕事ぶりや影響を受けた作家さんを見てくると、本当に偉大な方だったんだなぁ、と思います。一方、漫画業界の末席で仕事をしていると、手塚伝説のようなものはいろいろな方面から聞くものです。新人に対してさえライバル心をむき出しにする嫉妬深い人だったとか、審査員を務めている賞の応募作をパクっただとか、仕事が無くなるのを恐れて原稿料のダンピングをしたとか、アシスタントをなかなか独立させず、安い賃金で使い倒したため、手塚直属のスタッフで独立した作家が異常に少ないだとか、スタッフを酷使する業界慣習ができただとかはよく聞く話です。

僕も編集者に「手塚治虫が(原稿料が)◯万円だったのに、佐藤くんにそれ以上出せる訳がないだろう?」と言われたことがあるし、「あれだけキャリアのある人なのに、そこから羽ばたいた漫画家がいないのはこれこれこういう訳だから、佐藤くんはスタッフが独立できそうな時は、それを応援できる作家になってね」と言われたことがあります。功罪があった方なんだなと。漫画史的には非常に重要な人物であり、漫画家としては尊敬すべき人物であり、仕事スタイルは必ずしも尊敬できない人物だと思っています。


そろそろ「タイガーブックス」のお話を。こちらは少年ジャンプに掲載された読み切りを中心にまとめた短編集となっており、動物が登場する作品や、民話っぽい作品が多く収録されています。「雨ふり小僧」(第3巻)「はなたれ浄土」(第8巻)「てんてけマーチ」(第5巻)「いないいないばあ」(第7巻)は、柳田国男さんや、そのほかの著者の民話から変形させた作品なんですって。

僕が初めてこれらの短編を読んだのは高校生の頃で、よく一緒に麻雀をしていた友人の家の本棚に並んでいたのを手に取ったのが始まりです。麻雀のメンバーが5人集まってしまった時などに、1人余るので交代制で遊んでおり、交代休みの時によく読んでいました。起承転結が異常にしっかりしており、短編のお手本のような見事な構成に、何で言うのでしょう…?構成美のようなものを感じていました。
中でも感動したのが「雨降り小僧」という短編です。こちらもオフィシャルサイトに説明がありましたので引用します。


「『雨ふり小僧』は、『月刊少年ジャンプ』の昭和50年9月号に掲載された、民話調の短編作品です。山奥の分教場の少年と、小さな妖怪との心の交流をノスタルジックにえがき、数ある短編の中でも、特に人気の高い作品となっています。

 分教場に通う主人公のモウ太には、同級生がいません。そのモウ太の前に突然、ボロボロの傘をかぶった小さな妖怪があらわれます。『雨ふり小僧』と名乗るその妖怪は、モウ太のゴムのブーツとひきかえに、3つの願いをかなえると言います。モウ太は雨ふり小僧にブーツをあげる事を約束して、3つの願いをかなえてもらうのですが…。

 この作品の人気の高さを語る上で、ノスタルジックな雰囲気や、キャラクターの魅力に加え、読者の胸を打つ感動的なクライマックスを外すことはできません。ずっしりと心に残るその読後感は、あの「ブラック・ジャック」の傑作エピソードを読み終えた感覚に似ています。「約束を守ることの大切さ」というシンプルなテーマが、シンプルであるがゆえに力強く、読者の心を揺さぶるのです。」

しっかりと心を揺さぶられました。物語とは変化を描いたものです。弱いヤツが強くなったり、勇気のないヤツが勇気を持ったり、彼女のいないヤツに彼女ができたり、状況は何も変わらなくても、登場人物が変わらないことに自覚的になれば、それも変化です。手塚治虫さんの短編はどれもAがBになるまでの変化の過程がしっかりしており、名人芸を感じます。

この短編はその極み。漫画家志望者が読んだら降参したくなること間違い無しです。僕の記憶では、「ついでにとんちんかん」の著者のえんどコイチさんが、これにそっくりな短編を少年ジャンプで発表していた気がします。多分20数年前くらいの出来事で、手元に本がないので時期やページ数がどのくらいだったかまでは確信は持てないのですが、当時、「こんなに堂々とパクって大丈夫か?」と思ったのを覚えています。でも、それはパクリではなく、リスペクトだったのかなぁ?と今となっては思います。「こんなに素晴らしい物語があるんだよ」ということを、手塚さんの短編にたどり着けない子供達に、その時代の前線に立っていた作家が教えてあげたのかな?と。僕も「もしよかったら、この短編を読んでよ」と願いつつ、こんな文章を書いていますしね。

手塚治虫さんが偉大な作家であることは疑いの余地がないことですが、残念ながら今の十代は手塚作品を知らない人がたくさんいます。漫画家志望者でさえ、手塚作品を読んだことがないという人が増えています。ウチのスタッフのNくんもね…。

僕ら漫画家はその功罪を語り続け、乗り越えていかなくてはいけないよなぁ、と思うのです。 神様は信じた瞬間に思考が停止しますので。


つづく

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