僕の好きな漫画6「ICHIGO 二都物語」

佐藤秀峰が影響を受けた漫画、好きな漫画をご紹介する「僕の好きな漫画」第6回目です。

今回ご紹介したいのは六田登さんの「ICHIGO 二都物語」という作品です。六田登さんというと「F」が有名かと思うのですが、同じ時期にヤングサンデーで連載していたこちらの作品も魅力的です。確か僕が高校生〜大学生の頃に連載していました。

「F」は、「何人たりとも俺の前を走らせねぇ!」でおなじみの主人公・赤木軍馬がF1ドライバーを目指して奮闘する物語。僕の中では「おなじみ」ですが、今の若い世代にはご存じない方もいるのでしょうか。僕の職場にも手塚治虫さんや大友克洋さんを読んだことがない世代が混ざり始め、小学生の頃に流行った漫画がワンピースなどと言われると、自分の常識に自信がなくなってきまして…。

レース漫画としての主人公の成長物語がベースにありつつも、財閥の長である父 赤木総一郎とその妾の子供である主人公と兄、弟が織りなす戦後昭和史という側面もあり、複雑な親子の愛憎劇でもあります。笑いあり涙ありエロもちょっとありのエンターテイメント作品ですね。アニメ化もされており、僕は中学生の時にアニメでこの作品を知りました。友人に単行本を借り、そこから自分でも単行本を集めるようになりました。

アニメ版では親子の物語は大幅にカットされていて、レース物として楽しめるのですが、それを期待して漫画を読んだ時は驚きました。青年漫画ということもあり性描写が結構あったのと、親子関係や人間ドラマの描写が非常に深かったからです。

妾の子として生まれ一族から差別される主人公が、憎悪しつつも乗り越えられない父親へのコンプレックスを抱いたまま、彼を妬む兄弟間の確執に悩み、次々と降りかかる不幸や困難に立ち向かいます。その間に生活もレースもあるので大忙しです。主人公を取り巻く仲間や女性キャラクター達も魅力的でそれぞれにキャラが立っており、すべての困難を引き離すようにスピードを求め、エネルギッシュに前へ前へと突き進む軍馬の姿に胸が熱くなりました。それまで読んだどの漫画よりも複雑で奥が深くて、単にエンターテイメントの枠に収まり切らないスケールの大きさに感動しました。

作中、赤木家の使用人で「ユキ」という女性が登場するのですが、彼女は主人公の軍馬を慕っていて、それが気に食わない兄は自分のほうが優秀であることを証明したいがために彼女を自分に従わせようとし、それが叶わないと力づくで彼女を自分のものにします。歪んだコンプレックスのオモチャにされる女性と、それを逆手に取り男を利用しつつも不幸にはまり込んでいく彼女の姿は、読んでいて痛々しく、鮮烈に美しかったです。こんな姿に美しさを感じるのはいけないことなんじゃないかと背徳感を覚えました。後に彼女は兄のお金でブティックを経営することになるのですが、そのお店に不審な男が現れるシーンがあって、そのシーンがカッコ良かったのを覚えています。

夜、その日の営業が終わってユキがお店の電気を消した瞬間に、ガラスの向こう側でライターの火が着きます。その灯りに照れされて男の顔が浮かび上がり、タバコに火が着くと男の顔は闇に消えます。それが男の登場シーン。「これが演出ということか」と思いました。漫画でそんな細かいことが出来るってそれまで知らなかったので。

ネタバレになってしまいますが、彼女がビルから飛び降りるシーンの見開きでは、読んでいて「あっ!」て声が出てしまいました。漫画の絵であんなにびっくりすることがあるとは思わなかったです。見開きの使い方が最高にクールでした。そして、それまで単にヒロインとして存在していた純子という女性キャラクターが、ユキの不幸によって過去の自身の不幸を乗り越え、そのことに自己嫌悪しながらもヒロインという安全な立ち位置から脱して、1人の女性になっていく姿にやっぱり美しさを感じました。多分、「作品の読者だった人は派手なレース漫画として記憶している人が多いと思うのですが、個人的には赤木一族とそれに巻き込まれた男女の人間ドラマとして記憶に残っています。

で、今回は「IGHIGO 二都物語」です。
前置きが長くてすいません。

「IGHIGO 二都物語」」は戦後の日本を舞台に土建屋としてのし上がっていく父親とその息子の梅川一期、弟の利行の物語です。主人公の一期は生後間もなく病気で片方の肺を摘出しており、そのことによって「自分は不完全な人間である」というコンプレックスを抱えたまま人格を形成していきます。そして、小学生になり東京オリンピックが開催される頃、一期は初めての殺人を犯します。連続殺人鬼・梅川一期の生涯を描く壮大な物語です。

こう書くと、「F」と時代設定や親子の愛憎劇という点が似ていますね。
殺人鬼を主人公にした点が「F」とは大きく違いますが。「F」から派手な部分を取り除いて、よりソリッドにした感じとでも言いましょうか、赤木軍馬にとっては人生を表現する方法がレースであり、この物語の主人公の一期にとっては殺人が自分の表現手段だったという違いはあれ、どちらも表現のお話なのだと思います。こちらの「ICHIGO」はより重々しくて、エンタメを通過した後の作家の覚悟みたいなものが見え隠れしていて大好きです。

考えてみると、最近は殺人者を主人公に据えた漫画が少ないですね。健全な主人公が仲間と一緒に正義を振りかざしてモンスターを殺しまくる漫画は多いのですが、殺人をきちんと掘り下げて描いた作品って、意外と少ないんですよね。「殺すこと」を考え尽くし、そこにしか行き着けなかった人生を、能天気にモンスターを殺しまくってる主人公たちに見せつけてやりたいものです。初めての殺人を犯すシーンがすごく上手く描けているのです。

そこまでの殺人という表現に集約されていく主人公の心情がすごく丁寧に説得力を持って描かれていることはもちろんですが、殺人のシーンでは、2つのシーンが並行して描かれていました。

そのシーンとは東京オリンピックの開催式と旅の役者一座の公演シーン。開会式は主人公の家の使用人たちがテレビで観ているという状況で、同じ頃、主人公は転校生で旅役者の座長一家の子供と親しくなり、子役として端役にかり出され公演の舞台に上がっています。そして、座長一家の子供こそが、主人公の殺意の対象です。対象となる子は舞台の上でセリフをしゃべっています。主人公は間もなく訪れる自分の登場シーンを待ちながら舞台袖に待機している。

同じ街の2つの場所が描かれ、オリンピックの開会式を観ている人たちは新しい時代の幕開けを感じてながら浮き足立っており、一方の舞台の上では主人公が抑え切れない衝動と葛藤している。そこで町に停電が起こる。テレビを観ている人たちは肝心のシーンが観られず、文句を言いながらテレビをいじっている。舞台は暗転し、観客はざわざわとし始める。停電が終わり電気が付く。舞台の上には血まみれで倒れている座長一家の子供。その奥に震えている主人公。テレビも付く。最終ページでテレビが叫ぶ。

「開会宣言です!!」

「正義のため」という殺人を正当化するような小細工は無しで、罪を罪と意識させたまま、一線を越えてしまう瞬間の恐ろしさがものすごくリアルに迫ってくるのです。見てはいけないもんを見てしまったような、知ってはいけない感情を知ってしまったような、すごく怖いシーンでした。怖いシーンの前には美しいシーンがちゃんと用意されていて、コントラストも鮮やか。蝉が脱皮するシーンの見開きとかすごくキレイでした。脱皮しようとする少年を暗喩されていて、いちいち演出が決まっていました。

宮本輝さんの「泥の河」という小説があって、小栗康平監督で映画化もされていますが、あの雰囲気に似ているような。って、読んでいない人、観ていない人が多いかな…。まだ頼りない子供の世界の中で、友情が主従関係に発展したり憎しみに変わっていく感じとか、売春をしている母親が出てきたり、馬に踏まれて死ぬ人がいたり、世界が突然牙を剥いてくる感じとか、「人命は地球より重い」なんてことが全然なかった頃のおおらかや野蛮さや美しさや。

今村昌平監督の「復讐するは我にあり」という映画が好きなのですが、自分の中ではあれともかぶるかなぁ…。連続殺人鬼の殺伐とした心情が丁寧に描かれていて。殺人の原因を生まれや家族に持ってくる所もテーマが似てるかも。

少年時代がピークで主人公が大人になってからは意外とグダグダだったりもするのですが…、オススメです。今は手に入りにくいかも。六田登さんの頭の中のイメージと技術が最も噛み合っていた時期の傑作だと思います。
僕がすごく大きな影響を受けた作家さんです。

そう言えば、スピリッツで連載してた頃、担当編集者に「六田さんが好きだ」という話をしたら、「かつて六田さんの担当だったんですよ」って言われて驚いたことがありました。よくあることと言えば、よくあることなのですが。新井英樹さんの「ワールド・イズ・マイン」も山本英夫さんの「殺し屋1」も松永豊和さんの「バクネヤング」もその方が担当で、ヤングサンデーで僕が好きな作家さんはその方が担当のことが多かったです。ヤンサン編集部は王道的青年誌路線を目指す健全派編集長が就任して以来、それらの作品が排除され、毒にも薬にもならない作品ばかりが増えてしまい、雑誌ごと潰れてしまいましたが。

ではでは、また次回。

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