デザインと文化
最近、「文化」という言葉が気になっている。どうやって文化はつくられるのか。文化と文明はどう違うのか。そして、文化をデザインすることは可能なのか。などなど。
辞書には、「文化は、民族・地域・社会の伝統・習慣・思考・価値観など人類が築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。」とある。
気になりはじめたのは昨年の2020年。つくし文具店がリニューアルして15年となり、その活動を考え直す中で、「文具=文化をつなぐ道具」と位置づけることを思いついたからだ。「文具」という言葉が手垢がついてイメージ が陳腐化していると感じていて、文具の意味を読み変えたいと考えた。
考えているうちに、「文化」を意識しはじめた時のことを思い出した。それは、1996年から2004年まで、「日本人とすまい」というシリーズの展覧会の企画の担当をしていた時だ。この時、研究者や編集者たちといっしょに、日本の住まいの歴史を振り返り、その生活様式の変遷と意味や現状を読み解こうとしていた。
最初のテーマが「靴脱ぎ」だった。なぜ、日本人は、住まいの中で、靴を脱いで暮らしているのか。そんな素朴な疑問だった。高温多湿な気候風土や清潔感など、もっともらしい理屈はあげられるものの、決定的な理屈にはならずに、「そうしたいからそうした」としか言いようのないことだった。
床座や、器を手に持ち箸でご飯を食べることなど、江戸時代から継承されている生活習慣もあれば、近代化、洋風化する中で、椅子や洋服が導入されて、社会や生活は、学校や会社という仕組みとともに、大きく変化してきた。
「ちゃぶ台」が、まだ床座だった近代的な家族がテーブルを囲むために大正時代に考案された道具だったことを知ったのも衝撃だった。座椅子や食器棚、応接セット、洋服ダンスといった家具も、都市化、核家族化の変化に対応したものだし、照明器具や家電製品は、電気の普及とともに住宅に普及し、生活文化を変えていった。
明治維新による近代化と洋風化、そして、戦争に負けたことによるアメリカ文化の浸透。それでも残る日本固有の文化と7世紀に導入された中国の文化。表面的には、外国からの文化をその時代に受け入れながら、日本独自の文化を育んできた。
日本という地域や民族の他にも、地域の文化、時代の文化、世代の文化、商業的な文化、会社の文化、家族の文化、様々な文化の違いが散見される一方で、文化が混じり合い新しい文化を生み出してきた。日本人、日本語、日本の地勢、地形、新しい技術、経済や政治によっても文化は影響され変化してきた。
果たして、自分たちの文化を自分たちでつくることは、可能なのだろうか。人工物の全ては、必ずいつの時代かに、誰かが意思をもって生み出し、継承し変化し、その都度デザインされたものだと考えているけど、伝統・習慣・思考・価値観といった文化は、デザインできるのものだろうか。
モノのデザインから、コトや仕組みのデザインが重要だとされてきた現在。文化もデザインの対象になるのだろうか。押し付けられた伝統、押し付けられた習慣、押し付けられた思考、押し付けられた価値観があり、いつのまにか誰かに文化を操作、洗脳されているとしたら、かなり危機感を覚える。
「こうしたい」というそれぞれの意思が重なって、いつのまにか「文化」になっている。誰かに捏造された文化ではなくて、自分たちが活動した結果としての文化。文化はつくるものではなく、そこに「ある」ものであり、いつのまにか「なる」ものなのだろう。
文化をデザインするのではなく、デザインした結果が文化になっていく。
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