【シュウヘンカ7年の振り返り】

2021年4月4日、あと8日で、株式会社シュウヘンカ7周年。いったいこの7年間何をしてきたのか、8回にわけて、振り返ってみたいと思います。

●01 設立
まずは、設立の経緯。

2004年6月末でサラリーマンを辞めて42歳で、独立した萩原修。

個人でできることを、頼まれたら断らないスタンスで、なんとか10年間やってきて、そろそろ次の展開を考えていました。

そのタイミングで、話があったのが、明星大学デザイン学部の教員のお誘い。地域の連携や、企画からデザインを考える構想に惹かれて引き受けることにしました。

大学に時間がさかれる中で、これまで手がけてきた仕事をひとりでこなしていくのは、無理なので、チームで取り組むことを考えました。すでに、つくし文具店を手伝ってもらっていた吉川友紀子さんに相談。

そうこうしているうちに、国分寺の南町の屋上のある建物の2階にある20坪ほどのスペースに出会います。この場所で、何をやろうかと検討して、たどりついたのがシェアオフィスでした。

改装費などで、かなりお金がかかることがわかり、創業補助金を活用することになり、そのために株式会社にしようと話が進んでいきました。

会社の設立は、2014年4月4日。 

ちょうど、明星大学デザイン学部のはじめての入学式の日でした。あれから7年。株式会社シュウヘンカに、どんな変化があったのか、思い出しながら書いてみます。だれも、興味ないとおもいますが。

●02 共同
2回目は、共同代表の2人の話。

萩原修と吉川友紀子。

出会いは、八王子駅。たぶん20年くらい前。当時、多摩美術大学で教えていた小泉誠さんの授業に、潜入した時のことでした。

それから、共通のデザイナーの知り合いが増えていき、住宅、家具、日用品などのデザインの話をすることが多くなりました。
吉川さんは、武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科卒→住宅メーカー→インテリアデザイン事務所→インテリアショップ→独立という経歴。

萩原は、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒→印刷会社→住まいの情報センター→独立という経歴。
ふたりの経歴をあわせると、どんなことができるのか、いろいろと話し合いながら、会社の定款をつくっていきました。

2人ともデザイナーではなくて、デザイナーといっしょにプロジェクトを立ち上げて、企画して制作して販売して運営する、プロデュサー、ディレクター、コーディネート、マネジメントの役割。

できることは、グラフィック、プロダクト、インテリアなどのデザインを活用した、店舗、住宅、展覧会、展示、イベント、日用品、雑誌、書籍、ウェブなどの企画、編集、制作、運営など。

2人は、対等な立場で、共同代表。

外からは何をやってる会社かよくわからないし、2人が何を考え、何をやってるのかも見えにくいと思います。というのも、吉川さんは、ててて協働組合という活動を10年くらいやっていたり、ぼくも大学をはじめ、地域の活動をたくさんやっていたりするから。

2人が活用してるのは、「デザイン」。デザインを使って暮らしを良くしていくこと。様々なデザイナーといっしょに、地域や暮らしを楽しむためのプロジェクトを日々考え、実行していきます。

クライアントよりも、パートナーを求めいて、志と目指す方向が同じ、仲間と呼べる様々な力を持ってる人たちといっしょに、共に歩んでいきたいと考えています。

共同、共感、共創。

いっしょに感じて、いっしょにつくる。
シュウヘンカは、共を大事しています。


●03 名前
3回目は、名前について。

名前についてこだわるようになったのは、展覧会の企画をするようになって、その展覧会のタイトルを考えるようになってから。

1994年から2004年までの約10年間、300ぐらいの展覧会に関わる中で、短い言葉で、どれだけ内容を伝えるかを工夫するようになりました。

そのクセは、独立して、プロジェクトやブランドの名前を考えるようになってからも続いていて、まずは、名前を考えて、決めることからはじまります。

本当は、名前なんて、どうでもいいと考えていて、それよりも中身や実態をきちんと捉えることを大切にしています。なので、名前と中身の関係を、常に意識しています。

さて、会社の名前。とっても悩みました。吉川さんと、ああでもないこうでもないと考えて、この名前にたどりつきました。

とってもわかりにくいし、ぼくの名前が入っていることで、誤解も生まれそうで、この名前でよかったのか、いまだにモヤモヤしています。

2010年に、名古屋芸術大学で、客員教授を1年間やらせてもらって、その最後に、展覧会をやった時のタイトルが、「デザインのしゅうへん展」でした。
http://www.codomonocoto.jp/event/2010/11/post-11.html

大学の時に、デザイナーになるのをやめて、それでもデザインの周辺で仕事をしてきて、そのことを伝えるためにつけた名前でした。

白状すれば、あこがれの田中一光さんの本「デザインの周辺」や、少し手伝った深澤直人さんの本「デザインの輪郭」のことも意識しなかったわけでは、ありません。

シュウヘンカという会社は、デザインをする会社というよりも、デザインの周辺の仕事をする会社。デザインしやすい状況を整え、より良いデザインにするための道筋をつくる。

デザインは、より良い未来のためにあり、現状を少しでも良く変えていく。変化させるための道具だと考えています。変えるのは、暮らしであり、地域であり、社会です。

そうした意味もこめて、変化=ヘンカという言葉をつけました。「カ」という字は、チカラという漢字にも見えて、シュウヘンリョクというニュアンスも気に入っています。

さらに、シュウヘンを逆さにすれば、ヘンシュウにもなり、編集することは、より良いデザインのための大事な仕事だと考えていて、それも含めています。

いろんなことを盛り込みすぎの「シュウヘンカ」という名前。

「デザインの力を使って、暮らしの周辺を、編集して、より良く変化させる」
という意味なんです。わかってもらえると嬉しいです。

●04ロゴ
4回目は、ロゴについて

名前が決まったら、やっぱりロゴをつくりたくなります。

デザインは、色やカタチだけじゃないと言うけれど、それでも、色やカタチがいい加減なものをデザインと呼びたくない自分がいます。

ロゴは、その名前を、どんなイメージで、視覚化するかであり、会社であれば、どんな会社なのかを表す象徴です。

共感できる印象なのか、期待できる感じなのか、個性的なカタチなのか、気持ちを良くしてくれる色なのか。などなど、どんな方向のロゴだったらいいのか、試行錯誤を繰り返します。

そして、自分たちの会社のロゴを誰に頼んだらいいのか、悩みに悩みました。

信頼できるグラフィックデザイナーは、数人いて、それまで、様々なプロジェクトやブランドのロゴをデザインしてもらってきました。

ロゴをつくるのがうまいデザイナーは、最小の要素の中で工夫を盛り込み、イメージを伝えることができる造形力のあるすごい人たちです。

信頼できる建築家に相談したところ、野老朝雄さんがいいのではないかと推薦されました。そう、あの東京オリンピックのエンブレムをデザインした人です。

今では、誰もが知っている人ですが、当時は、今みたいに有名ではなくて、デザイン周辺の仲間うちで、その独自の表現が評価されている天才的な印象のアーティストでした。

共通の知り合いも多く、本人とも何度も話をしたことはありましたが、具体的に仕事をお願いしたことは、ありませんでした。

それでも、思い切って、デザインしてもらうことにしたのは、自分たちでさえ気づいていないイメージを、つくり出してもらえる可能性にかけたからでした。

結果的には、素晴らしいロゴとなりました。縦長の1対2の藍色の長方形の中に、13個の白抜きの丸い点で、SHUHENKAのSが描かれています。

上下左右の6つの丸い点は、長方形から半分はみ出していて、長方形をつなげると、半円の丸がひとつになるという構造です。

イギリスの建築の大学で学んだ野老さんならではの計算された文様のような考え抜かれたものです。

つなぐことで、ひとつになって、広がっていくというシュウヘンカの目指す方向が、しっかりと意味ずけされた知的で奥深いロゴマークとなりました。

そして、名刺は、2対1の縦型サイズ。裏面は、このロゴのカタチになっていて、つなげると白抜きのちいさな丸が現れて、つなげ方によって

様々なカタチに変化していきます。

このロゴマークにはじないような仕事をしていく会社になるために、今後も試行錯誤を繰り返し、会社も変化していきたいと考えています。

●05 拠点
5回目は、拠点について

7年前に、会社の設立とともに産まれた
「国分寺さんち」という拠点。

この拠点をつくるために、会社をつくったとも言えます。会社の設立と、拠点の立ち上げを同時に進めていきました。

2006年につくった「国立本店」
2011年につくった「西荻紙店」
そして、
2014年につくった「国分寺さんち」

中央線デザインネットワークの3番目の拠点として、立ち上げました。

そして、「国分寺さんち」は、株式会社シュウヘンカのオフィスであり、会社の事業である「つくし文具店」在庫、発送の場所。そして、6ブースあるシェアオフィス。さらに「しごととデザイン研究室」という学びの場にも使っています。

20坪の空間と家具のデザイン製作は、フルスイングという2人組にお願いし、ロゴは、宮内賢治さんに依頼しました。

株式会社シュウヘンカでは、拠点をつくる仕事もやっていきたくて、その後、自分たちで、国立五天、マルヒノを立ち上げ、ハタラボ、KO-TO、note cafe、ベースクールなどにも関わりました。

共同代表の吉川さんは、武蔵美のインテリア出身で、住宅メーカーやインテリア事務所での設計経験があり、実は、2級建築士の資格をもっています。ぼくも、展覧会の企画を手がける中で、様々な建築家やデザイナーと知り合い、空間のつくり方を学んできました。

シュウヘンカが空間のデザインもできるという認識は、あまりないのかもしれませんが、地域を面白くする拠点、店舗、住宅、施設などであれば、自分たちの拠点はもちろん、プロデュース、デジレクション、マネジメント、コーディネートという立場で、関わっていきたいと考えています。
地域に魅力的な拠点がたくさんできると、まちは、もっと面白くなるはず。そう信じて、進んでいきたいと思います。

●06 上場
6回目は、上場ついて(2021年4月1日に発信しました)

あまり知られていないのですが、会社を設立して3年目。2017年7月7日、株式会社シュウヘンカは、タマ2部に、上場しました。

会社を設立したからには、いつかは、上場したいと考えていましたが、こんなに早く上場できるとは、思っていませんでした。

上場した時点での年間売上高は、7億7777ぶんじ。地域通貨総額で、過去最高の収益となり、社員数も777人。フィーバーして、出玉があふれてとまらなくなりました。

彦星と織姫もお祝いにかけつけた上場初日には、シュウヘンカの株を買いたいタマエリアの個人投資家が殺到して、一時は、信じられないような株価となり、ブラックホールが出現する騒ぎでした。
現在の株価は、落ち着きを取り戻し、タマの優良株として、多くの人が株分けして、庭やテラスで、大事に育ててくれています。

3年で上場を達成したことで、タマ30市町村のすべての自治体と、デザインコンサル契約をさせていただき、タマの企業300社からブランディングの仕事の依頼がありました。

スタートアップという言葉さえ知らなかった代表2人でしたが、上場を機に、経営者を雇うことを決断。某大手鉄道会社から地域連携の敏腕経営者を引き抜くことに成功。

さらには、外部取締役に、タマちんきんのキレキレの地域活性化部長に就任してもらうことで、タマのドンと呼ばれる政治家とのパイプもでき、タマの政策にも影響をあたえるまでになりました。

上場後に手がけたのは、メディア事業。タマチャンというローカルテレビ局、タマニュースという老舗の新聞社、けなき出版の3社の筆頭株主となったことで、独占禁止法にひっかかり、2年の実刑判決をいいわたされ、ふちゅうい刑務所で、清掃業務をいそしむことになりました。

このくさい飯期間の間に、「シュウヘンカの真実」という暴露本を、幻夏社から出版。100万部をこえるベストセラーとなり、映画化されました。

すべてが順風満帆とは、行きませんでしたが、海のないタマエリアでの航海では、土こそが推進力となることを実感し、泥だんごをたくさんつくって、こどもたちに贈るなど、慈善事業にも邁進して、多くの人が目をそむける企業に成長したと自負しています。

これからのシュウヘンカは、いよいよ念願の宗教法人「シュウキョウ」を立ち上げ、みなさまの教祖として、デザインの布教活動を進め、タマ420万人に、カタチメとイロゴトを伝授していく所存でございます。ニャーワン。(⌒▽⌒)

●07 地域
7回目は、地域について

2004年に、20年間のサラリーマン生活にピリオドを打って、自分が育った地域で、活動したいとあがいてきました。

それでも、最初は、都心の仕事がほとんどでした。新宿のOZONE、銀座のミキモト、六本木のミッドタウン、神楽坂のお寺や神社など。恵比寿、渋谷などにも三鷹の自宅から定期的に通っていました。

そして、地方の仕事も多くて、旭川、美濃、富山などにあるものづくりの会社との取り組みが続いていました。弘前にも拠点ができ、青森に行く機会も増えました。

全国の自治体などから講演の依頼があったり、名古屋のふたつの大学から客員教授を頼まれ、多い時は、週の半分くらいが地方でした。47都道府県のすべてに行きました。

日本のプロダクトを、世界に紹介する展覧会のキュレーターをやることになり、パリに10日滞在したのをはじめ、イギリス、エッセン、ケルン、ワルシャワ、モスクワ、ミルウォーキー、ソウル、青島、タイなどにも出向き、講演会もやりました。

地方や海外を飛び回る中で、いつも考えていたのは、自分の地域についてでした。他の地域と比較することで、たくさんのことが見えてきました。

自分の育った地域での仕事は、なかなか増えなくて、転機は、独立して、5年目にありました。シブヤ大学の姉妹校として、東京にしがわ大学(にわ大)を設立することになり、多摩30市町村のすべてにつながり、たくさんの人と知り合いになりました。

それまで、知り合いは、デザイン関係者ばかりでしたが、地域の知り合いがどんどん増えて、会社を設立する頃には、半々くらいになっていたと思います。

にわ大のつながりから、たまら・び、ののわなどの地域情報誌に関わるようになり、明星大学という日野にある大学の教授になったのも、知り合いのデザイナーと、地域の活動の両方とつながっていたからでした。

国分寺で会社を設立して、日野の大学に通うようになったことで、多摩の自治体とのつながりが増えて、国分寺市、日野市はもちろん、八王子市、青梅市、多摩市、東大和市、小平市、府中市、小金井市、三鷹市、武蔵野市などからも声がかかることが多くなりました。

「まちづくり」や「コミュニティ」という言葉は、苦手でしたが、いつのまにか、自分のまちや、コミュニティを強く意識するようになり、「地域とデザイン」が自分のテーマになっていきました。

自分がフィールドとする多摩の30市町村は、約420万人が住むエリアであり、戦後に都心に通うサラリーマンが爆発的に増えて、郊外住宅地として発展してきました。

もちろん、西側には山があり、林業や農業、そして、工場や研究所、大学などもたくさんあり、多摩で、働いている人もたくさんいます。

多摩には、デザインが足りないとずっと思っていて、多摩にデザインを根付かせるのが、シュウヘンカのミッションだとさえ考えています。

多摩で活動するデザイナーを増やすためには、多摩にデザインの仕事を増やす必要があり、そのために何をやったらいいのかを考えて実践してきたシュウヘンカ。

この7年で、確実に地域でデザインする仲間は、増えています。それでも、まだまだ、足りません。多摩をクリエイティブな地域のするために、これからも活動を続けていきます。

●08 変化
最後8回目は、変化について

言葉にするのは不思議です。当初、書こうと思っていたこととは、だいぶ違う内容になりました。
当初は、この7年間で、シュウヘンカで、何をやったのかを振り返るつもりでしたが、結果的には、シュウヘンカとは何かを考えることになりました。

そもそも、この文章は、誰かに向けて書いているというよりも、自分の考えを整理するために、書いているつもりだったのですが、整理するよりも、新しい思考をつくってるような気がしています。

こうして、書いているうちにも、書きたいことが変わってきて、いつのまにか、当初は、考えてもいなかったことがあふれてきます。
考えていることをかたちにするのではなくて、書いているうちに、かたちが見えてくる感じなんです。いや、かたちなんて、本当は幻想で、確かなものなんて何もなくて、人も、暮らしも、社会も、変化し続けるものなのかもしれません。

どんなに同じような毎日に見えていたとしても、常に変化する自分、常に変化する暮らし、常に変化するまち、常に変化する社会なんだと思います。

どうせ変化しているのだとしたら、それを、より良く変化させたい。そのためには、自分の意識を変えて、自分の行動を変えて、自分の身の回りを変えていくしかないと考えています。

自分は、自分で変えられるけど、人を変えることはできない。あるいは、してはいけないと思っていて、人のことをとやかく言うことは嫌いです。

それでも、自分だけじゃなくて、自分たちと呼べる人が、ひとりでも、ふたりでも、少しでも増えて欲しいと思っていて、特定多数の仲間たちといっしょに、より良い日常に変えていきたいと考えているのです。

シュウヘンカという会社を、7年間やってみて、難しいのは、2人だけの会社なのに、1人とは違っていて、変えることが大変なこと。

あれ?大変という言葉にも、変の字が含まれていますね。大きく変わることは、たいへんなことなんですね。違うかな。

自分から、自分たちになることは、きっと、すごく大変なことなんですね。それでもあきらめないで、より良く変えていきたい。

それは、おわることのない営みなんだと思います。とはいえ、人は、いつかは死にます。遺伝子は、続いていくとか、想いや習慣やしくみや文化は、残っていくというけど、それだって、時代にあわせて、変わっていくものだと思います。

こうやって、文字とか言葉も、時代によって、意味も、使い方も、変化し続けていて、残していても、それを受けとる人によって、変わっていくのだと思うのです。

暮らしのための道具にしても、その時代には便利で、誰もが使っていたものが、もはや、誰が、どんな時に使っていたのかさえ、わからない道具もたくさんあり、時代の変化で、道具も変化していきます。

こうやって、携帯で、文章を書く時代がくるなんて、30年前には、思いもしなかった変化で、それが良いことかどうかなんて良くわからなくても、変わっていってしまいます。

いったん立ち止まって、振り返って、確認して、次に進む。より良い変化の道を探しながら、やっていくしかないのかもしれません。

過ぎ去った過去は、変えられないと言うけれど、記憶は書き換えることができるし、未来がかわれば、過去の意味が変わることもあります。あるいは、意図的に、歴史を書き換えることだってできます。

株式会社シュウヘンカの設立から明日で、7年。同じような繰り返しもしたし、あまり変わらないこともあるけど、ひいてみると、かなり変化してきました。良くも悪くも。

変わらないことと、変わっていくこと。このふたつのバランスを考えながら、何を変えずに、何を変えるかで、どうやって、より良い暮らしに近づけることができるのか。

人も暮らしも社会も、正解なんてなくて、正解らしきものを見出しながら、常に変化を続けていく。常識という呪縛にとらわれず、常識を疑って、既成概念を打ち破った先にある未来を夢みていく。

これからも、しばらくは、株式会社シュウヘンカは、みなさんといっしょにに、自分たちの暮らしの周辺を、より良く変化させていきたいと考えています。いっしょに変化に取り組んでくれる仲間を探しながら。


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