デパートの屋上とドット文字のデザイン

最近デパートに行く機会がめっきり減ってしまい、デパートの屋上ってどうなっているか全くわからないのですが、私の経験ですが、具体的に言うと1970年代のデパートの屋上は子供にとって天国! ミニ遊園地でした。

ちいさなメリーゴーランドがあったり、射撃場があったり。ステージがあってヒーローが戦い、お祭りの屋台みたいな食べ物やがあって、それはもう楽しいことがいっぱいの場所です。大抵、一角には、パチンコの台やピンボールマシン、クレーンゲームや、コンピュータを使ったピンポンゲームといったアーケードゲーム機があり、硬貨を握った子供たちが列を作っていました。

ずいぶん大人になってからその名前を知ったのですが、ピンボールマシンやクレーンゲームを扱っていたのが大東洋行、アーケードゲームなどのメンテナンスをしていたのが中村製作所という会社です。それぞれ、タイトーやナムコ(現バンダイ・ナムコ)の前身です。中村製作所は横浜のデーパートの屋上に会社があったと聞きました。ジュークボックスの販売やメンテナンスをしていたのが日本娯楽物産でセガの前身です。こうしてみると、遊園地の屋上から、娯楽産業が育っていったといってもいいのではないでしょうか。

タイトーからは1978年にスペースインベーダが、ナムコからは1980年にパックマンという大ヒットアーケードゲームが生まれます。ピンポンゲームはセガやタイトーがATARIのゲームを参考(コピー?)したものだそうです。70年代後半から80年初期あたりがコンピュータゲームの黎明期といえるのでしょう。ちなみにスティーブン・ジョブスがApple Iを作ったのが1976年、Apple IIは翌年の1977年です。パソコンの誕生もこの頃です。

初期のアーケードゲームCRTに出力されるものは線でも、面でも、弾丸でも、キャラクタでも、すべてドットを組み合わせて作るしかないのですね。もしかしたらグラフィックエディタもなく、あらゆるグラフィックは0と1の組み合わせを直接プログラムに打ち込んで表現したのではないでしょうか?特に文字に関して、当時のゲーム機に日本語のフォントがあるわけもなく日本語の表記を扱うのはとても大変だったと想像されます。

1980年前半にはすでにPC-88シリーズや日本語ワードプロセッサが販売されています。JISの漢字コードも制定されています。ですから、日本語漢字ROMを使ってコンピュータで日本語表記はできました。しかし、ゲーム機にこうしたROMを使うことは予算的に難しかったと思われます。資料を見ていても、例えば1983年に出たMSXには漢字ROMが搭載されていますが、ほぼ同時期に発売されたファミリーコンピュータにはこうしたハードウェアはありません。もちろん、製品の目的が汎用的なパソコンとゲーム専用機(といった違いがあります。ファミコンにワープロソフトはありませんから漢字ROMは不要で、逆にパソコンにはできないグラフィック機能が充実していました。ファミコンでは横スクロールしてガンガンビームが撃てました。一方、MSXのゲームはスクロールができなかったと記憶しています。。

ということで、初期のアーケードゲームやゲーム専用機では、他のゲームのグラフィックと同じく、CRTに出力する文字はゲームごと(もしくはメーカーごと)に作るしかなかったんですね。それも、16とか24とか32ドット四方という制約のなかで。ゲームのグラフィックと文字のデザインが同じチームでできたので、その世界観は統一できたのでしょうが、フォントのデザイナーは相当大変だったと思います。なにせ、何もないところからデザインし、文字を並べてきちんと読めなかればなりません。注意深く見ていくと、同じタイトルのゲームソフトでも、プレーするマシンが異なるとでは、濁点、文字の上だったり、次だったりと違いがあります。

いえ、なんでこんな話になったかというと、最近見た学生のゲーム作品なのですが、UIの部分に気を遣っていないものが多く憤慨しているからです。直接ゲームの面白さに関わる部分ではないかもしれませんが、文字表現はUIの重要な要素です。制約が多いと、相当気を使って制作を行いますが、逆に自由に何でも選べるようになると、扱いが雑になったりすることがあります。きっちり四隅まで丁寧な仕事しなくてはと自分の自戒も含めて文章を残しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?