見るということを考えた(1)

私はずいぶん幼い頃から絵を描く習慣があります。絵といってもフィンアートとかイラストレーションとかいういうのではなく、単に紙と鉛筆や筆などの筆記具で思いついた時に描くくらいですが。

絵を描く時は何か対象を見て描くこともありますし、頭の中で記憶を辿ったり、その記憶を再構築して描くこともあります。いずれにしても、それまでに「見た」ことがベースになって描いています。

この「見る」「見た」ということを、コンピュータを使っていろいろ考えたいと思いました。

実際に書いてみよう

目の前にコーヒーカップがります。

画像1

このカップの絵を紙に描きたいと思います。描き方は人によって千差万別。これといった決まったやり方はありません。ただ私なら次のように始めます。

1.紙にコップを描く位置や紙の方向(横向きとか縦向き)を決めます。

2.コップの大まかな位置や大きさを決めるためにアタリを取っていきます。

3.アタリの位置をいろいろ変えながら輪郭線をとっていきます。

さて、ここまでの手順をコンピュータで再現しようと思います。

最初にカメラのアングルを決めます。これは私がカメラの位置などを調整して決めます。言い換えればコンピュータは構図を決めることができていません。

次にコーヒーカップの形や大きさを紙の上で決めてアタリを取っていきます。こんな感じでしょうか。

下書き01

さて、ここで考えることがあります。

描きたいものとそうでないものの区別

写真のデータはコンピュータが見たものとしましょう。そのデータには机やそのほか周りにあるものが写っています。

さて、私は、コーヒーカップを描くためにコーヒーカップを見ています。カップが乗っている机は見ますが後ろにある小物は見ていません。いえ、おそらく見ているのですがそれを認識していないのです。もちろん必要なときは見るのですが、意識を集中する、しないで認識する対象が変わっているのです。

コーヒーカップに意識が集中した場合、頭の中でこんな風に見ていると言えるでしょう。

画像3

もちろんこれはイメージで、実際にはいろいろ見えているわけですが、何かしらの認識のスイッチを切り替えて、ここはコーヒーカップである、ここはコーヒーカップではない、と判別をしています。この判別の境目が輪郭線になるのかと思います。

コンピュータに入ってきた画像情報は、簡単に行ってしまえば点の集まりの情報です。CCDやCMOSといった画像素子で検知したデータでしかありません。コンピュータ自体が「これはカップだ」「これは小物だ」と認識しているわけではありません。AI技術を使えば学習したデータのリファレンスと照合して「写っているものはカップだ」「いや陶器だ」といったことを判断してくれるかもしれませんが、何であるかを判断して絵を描いてくれることは今のところありません。

AI技術を利用するのは申し越し先にして、もう少し絵を描くための人間の判断について考えていきたいと思います。

(つづく)

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