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『夜のミッキーマウス / 谷川俊太郎』(本めぐり②)

久しぶりに会った友人に、「谷川俊太郎が好き」と言ったら勧められた一冊。
とてもよかった。

たまに、無性に詩が読みたくなる。
ここではないどこかに無理やり連れ出されて、放り出されて、呆然としてるんだけど、心のどこかが共鳴して、通り過ぎようにも通り過ぎれないひっかかり。
同じものが違って見え、見えていなかったことが目に飛び込み、言葉の定義や世界の解釈が少しひっくり返る感覚。
その気持ち悪さと心地よさが味わいたくて、たまに詩を読む。不思議なもので、これは小説でも、漫画でも、映画でも、音楽でも得られない感覚だと感じる。

ご本人のあとがきと、しりあがり寿の解説も印象的だった。

「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。
(あとがきより)
詩はそれを読んだ人をほんの少しかもしれないが確実にちょっとだけ変える。
そして詩はそれを強制しない。大声で繰り返される陳腐でわかりやすいメッセージや、ご親切な人生の指南書や、嘘くさい甘い言葉ではなく、大抵の詩は謙虚にひっそりと読み手との出会いを待っている。わかりやすくもなく、シンプルでもない、ただおずおずとした言葉の列から人は、ひとりずつ違った贈り物を受け取る。
(しりあがり寿の解説より)

やっぱり、谷川俊太郎と最果タヒの詩が好きです。手の届く言葉で、遥か彼方まで連れて行ってくれる。どこからでもすぐに読めて、それでいて読む度に違う出会いがあるのがいいよなぁ。

特に印象に残った言葉を引用して終わります。

棚の片隅に飾られたブリキの骸骨と石のペニス
もう決して生きることのない何年も前のカレンダー
そんな室内で過ごす時間を人生と呼んできた
(『愛をおろそかにしてきた会計士』より)
話の種は尽きないけれど人前では無口
昼は多分そこらの街角でかけうどん一杯
どうしてどうしてと問いかける子どもは大の苦手
匂いと味とかすかな物音と手触りから成る世界に生きて
意味はどうすりゃいいんだいと困ったふり
(『無口』より)
だがどうして忘れてしまってはいけないのか
倦きることと忘れることのあのあえかな快楽が
朝の光をこんなにもいきいきとさせているのではないか
(『忘れること』より)
生々しい感情はときに互いに殺しあうしかないが
詩へと昇華した悲しみは喜びに似て
怒りは水の中でのように声を失う
そして嫉妬があまりにもたやすく愛と和解するとき
詩は人々の怨嗟さえ音楽に変えてしまう

昨日を忘れることが今日を新しくするとしても
忘れられた昨日は記憶に刻まれた生傷
私には癒しであるものが誰かには絶えない鈍痛
だがその誰かも私に思い出させてくれない
私の犯したのがどんな罪かを
(『五行』より)
きはきられるだろう
くさはかられるだろう
むしはおわれ
けものはほふられ
うみはうめたてられ
まちはあてどなくひろがり
こどもらはてなずけられるだろう

そらはけがされるだろう
つちはけずられるだろう
やまはくずれ
かわはかくされ
みちはからみあい
ひはいよいよもえさかり
とりははねをむしられるだろう

そしてなおひとはいきるだろう
かたりつづけることばにまどわされ
いろあざやかなまぼろしにめをくらまされ
たがいにくちまねをしながら
あいをささやくだろう
はだかのからだで
はだかのこころをかくしながら
(『よげん』)



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