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お尻が足になったら、顔が気になりはじめたのよ

「腰の位置高っ!」
大学で自転車を停めていたら、前から歩いてきた人がそう呟いた。
バッグもオシャレだな、と横の人に言っている。

ふふふん。何を隠そうわたしのことだ。
違ったらだいぶ恥ずかしいやつだけど、間違いない。その後目があってその人とちょっとお話ししたから。

ちなみに、鞄はこちら。かわいいでしょ。


夏頃から、足長いねって言われることが増えている。快挙。

足が伸びたわけではない(たまに成長痛っぽい何かが膝を襲っているけど、たぶん、ただの歩き疲れ)。
もともとお尻だったところが、筋トレと筋膜ローラーによって削れて足の一部になったのだ。そんで、太ももに隙間ができたことで、わたしには足が2本生えていることがより強調されるようになった。と思っている。

最初は履いているズボンのおかげで〜とか、今日はむくみがないから〜とか照れ照れしていたけれど、あまりにも言ってもらえるから、堂々とサンキューと返せるようになった。こんなこと書いて、これを読んでいるあなたと次に会うのなんだか緊張しちゃうな。

嬉しい嬉しい。
でも、”見られること”は、時々ひとをおかしくしてしまう。
わたしもおかしくなってきている。

たとえば、うつむいてカバンの中をゴソゴソしているときに足長いなってどこかから言われたとして。そこで顔をあげたときに、ああ、顔は大したことないな、とか思われているんじゃないかと不安になってしまうのだ。

広がる被害妄想。検索しちゃうよメイク術。ありすぎてわかんないよ。

自分の顔面を急に意識しだしたのは、足への視線だけがきっかけじゃない。最近、高校生の時の痴漢体験を人に話してから、グラグラしている。

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片道2時間の通学中、いろんな人に会った。いろんな痴漢に遭った。
電車が人身事故や悪天候で止まって振替輸送になると、いつも混んでいる車両がますます混む。そういうときは、とくに遭遇率が高い。

持っていた傘を、向かいに立っているこちらの膝と膝の間に差し込んできたヤツもいた。めっちゃニヤニヤしてた。服装が自由な高校だったので、制服っぽい格好はその日以降ますますしなくなった。

そういうあからさまなやつは、ネタにして処理できる。
1番まとわりついてくるのは、自分だけが感じる、複数の視線。
たぶん相手はバレてないと思ってるだろうけど、その人からの視線がいま自分のどこに向かっているのかって、意外とわかってしまうものだ。

猫背で歩きながら、カバンを前に抱きかかえながら。
こんな脂肪の塊なんか、いつかぜったい除去してやるって考えてた。
他人の視線を理由に自分のからだを変えるのは、しかももう元に戻せないのは、後悔しそうだからやめようって落ち着いたけれど。

そんな話をかいつまんで、このあいだ友人にぶちまけた。きっかけは忘れた。

そしたらその後、家に帰ってからモヤが広がり始めた。
「でもそんなに狙われるほど顔かわいくないよな〜」って思われていないだろうか。モヤモヤ。
彼がそんなふうに考えそうな人だとは、決して思ってない。
ただ自分の中で、痴漢=可愛い自慢・モテ自慢に思われてしまう、というのが染みついてしまっている。こすってもこすっても、とれない染み。

高校生の時、あの子〇〇線で何度も痴漢にあってるらしいよ、と誰かが言って、誰かが『あの子可愛いもんね』と返した。

何線のどこ行きのこの時間帯は危ないとか、この高校の制服を着ている子は狙われやすいとか、情報が常に行き交っていた。
セーラー服の高校生に痴漢をしている人を離れた場所から撮影した動画がTwitter上にあがっていて、帰り道に友達と見た。
動画に登場したのは、そのとき乗っていた路線と同じものだった。

性的な視線を向けられたり、からだを触られたりすることは、女として価値があるという証拠。絶対に絶対にありえないそんな考えが、高校生の私たちの間に、確かに横たわっていた。
モテ自慢かよって思われないように、自虐を混ぜたり、笑いでコーティングしたりした。

痴漢は犯罪。わかっているのに、痴漢をされたことを、犯罪に遭ったことを、犯罪に遭った気持ちで人に共有できなかった。
怖い、気持ち悪い。人間としての感情を口に出すときに、いつも女であることがまとわりついてくる。集団にナンパをされたと話す友人に、さすがモテるねって言ってしまったこと、ずっと忘れない。

満員電車に乗ったり夜道を歩いたりしている中でひどい体験をした、という事実。そこに、どんな服を着ていたか、顔は可愛いのか、痩せているのか胸は大きいのか、色々ついてきてしまう。
ああ、だからだよねってつなげてしまう。

痴漢は、する側が100000%悪い。わたしは着たいものを着る。
買ったばかりの背中の空いたワンピースをお披露目したら、それは危ないから着ていくのはやめとき、とおばあちゃんに言われた。
なんでわたしが諦めなきゃいけないんだ、とムッとなった。

だけど、もし、もしその服を着て電車に乗った日に、痴漢に遭ったら。おばあちゃんの言う通りにすればよかった、もっと痴漢されない努力をするべきだったって、思ってしまうんだろう。
思いたくないよ〜。思わなくていいんだよ、本当に。

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”見られること”、外見に対する”いいね”は、女としての価値判断と簡単に結びつく。

そりゃあ、誰かによく見られたら、褒められたら嬉しいよ。
ところが褒めとジャッジがごっちゃになっているもんだから、女として見られることを気にして、他の誰かにとっての価値を自ら上げようとしてしまう。審査員にできるだけ大きな数字の札を上げてもらうために、外見を磨く感じ。それはわたしはしんどい。

ただ、外見を整えて受け取りたいものとして、褒めと価値判断の境界線はとても曖昧だなあとも思う。くっついて、重なっていることが多い。
たとえば、好きな人にかわいいって思われたくていわゆる”男ウケがいいメイク”をしたとして。それはただ顔の造形として整っていると認識されたいだけじゃなく、”相手に女という生き物として見られたい”って気持ちもきっと混じっている。

ちょっと話は変わるけど、その気持ちが嘲笑される場面って、あるのではないでしょうか。特に、同性(と思われる人々)から。異性ウケとかあざと可愛いとか、「ああ、あれね(フッ)」「必死でウケるよね(クスクス)」って。白状すると、わたしもそう思ってたときがあった。

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男を巡って、女性同士がトーナメント戦を繰り広げるのが当然な中で生きているわたしたち。”モテる子”は同性から嫌われる、という少女漫画のあるあるに疑問を抱かないわたしたち。

自分はそんなつもりはなくても、女であるというだけで、周囲から勝手にトーナメント戦にエントリーされてしまう。着飾ることは芸術点として、言葉遣いや振る舞いは技術点としてカウントされる。
『今日のメイク気合い入ってるね、誰か狙ってるの?』
『あの子とあの子だったら、どっちにする?』
こういう言葉は、自分のことを選ぶ側だと思ってないと出てこない。

わたしがあざとさに対してケッてなっていたのは、リングに立たされていることにも気づかず、そこから降りる方法もわからずにいたとき。
女として価値づけられて比較される目からは逃れられなくて、そうされることはすごく嫌なのに、選ばれなかったらそれはそれで劣等感が湧いてきて。そのモヤモヤを、選ばれることに積極的な(ように見える)人への妬みや見下しに変えてしまった。

頼まれてもないのに、審査しないこと。
それだけで、この世にどれだけ笑顔が増えるだろうか。

そしてもし、不特定多数の審査員に点数をもらうことを心の底から楽しんでいる人がいたら。ジャッジの視線を浴び続けるのは、もはやモテとかあざとさとかそんなキャピっとしたものではない。戦いだ。その人はなぜ戦い続けるのか、戦いで得られるものってなんなのか、聞いてみたい。

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長々とあれこれ書いてしまったけど、何を言いたいかというと。
めんどくさいけど、人間でいることと女でいることは、切り離せない。

褒めは、褒めとして受け取って。
自分に必要なものを見極めて。
欲しいものがあれば戦略的になって。
そうやって生きていくのかしらね。

さ、もっと足(の部分)を増やすぞ〜!
メイクが楽しいなって思える瞬間も、純粋に噛みしめたいものです。




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