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親という、子どもという生き物

ここ半年ほど、ありがたいことに年の離れた友人が何人かできて、自分の親について話す機会が増えてきている。

『わたし』を通してうっすら見える、親という存在に興味をもって下さる方(特にお子さんがいる方)はいるみたい。(わたしという【大学生】が形成されているのには他者から見るとやっぱり親ありきなんだなあ、面白い。その存在は年を取るごとにますます薄くなっていくのだろうけど。)

そんな中で、ふと口にして、これは現在築かれている親との関係性の核の部分をついているんじゃないかなあと思ったことがある。それを書く回。



かっこつけない。人間らしい。かっこいい。


2人は、わたしに人間らしい部分をよく見せてくれる。

頑張れないときには、抵抗せずに脱力したり。
自分の過去の失敗談を共有して、もしあなただったらどう対応してた?と相談してくれたり。

あかんと思ったことは、場に出して、話し合う。
自分が悪いときは、素直に謝る。
楽しむときは、全力で。(2人ともめっちゃ人生楽しそう)
自分の悪い癖共有会を、ご飯食べながらわいわい開催してたこともあった。

そんな時間を通して、2人を見てきて、
親も自分と同じ人間というカテゴリーに属していて、でも中身はみんなそれぞれなんだという感覚がいつの間にか身についていた。
そういえば「親のくせに」って口にしたことがないな。

向こうは向こうで、まあ、あなたはあなたという生き物だからね、こっちがコントロールできるもんじゃないよ、というほどよい諦めを持って接してくれるのがありがたい。

・・・

それと、個としての関係が成立している要素に、たぶんこれも入ってる。
我が家に、肩書が存在しないこと。

わたしと弟は両親のことをあだ名で呼び、両親はわたしたちを名前で呼ぶ。
もちろん弟も、わたしのことを姉とは呼ばない。

父が、ぜったいに母のことを「お母さん」と言いたくなかったそうで。
わたしが生まれてからも名前で呼び合い続けていた成果が、これである。
(余談だけど、日本は1番年下に合わせて家族間の呼び名が決まる。一方韓国は、長男長女に合わせるらしい。韓国ドラマ鑑賞の際に注目してみて。)

もちろん呼び方はご家庭それぞれだろうけど、わたしの場合は、役割にとらわれることなくのびのびできる気がして、我が家のこのスタイルをとても気に入っている。

家に何回か泊まりに来たことのある友達も2人のことをあだ名で呼ぶのだけど、その光景を見ていると、なんかいいなあ、人の輪だなあという気持ちになる。ちなみにわたしが実家を出てからも、友達は両親に会いに泊まりに行っては、写真を送ってくれる。もはやそこが友達。



そんな2人だけど、一時期めちゃくちゃ"親らしかった"ことがある。
そこの醤油取って、といったら、親に向かってなんて口をきくんだという風に「取ってください、でしょ」と怒られた。中学校1年生くらいの時かな。

「親」と「子」のロールプレイが始まったようで、戸惑うわたし。
急にどうしたの?と思いつつ、聞けず。

結局、いつの間にか敬語キャンペーンは終了。
後から、あれは実験やったんやけど、合わへんかったな、と一言。謎。

子育ては実験。わたしは人間。あなたも人間。
色々あるんだろうけど、楽しく生きる2人のことを、わたしはとーっても尊敬している。


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