空前の将棋ブームの今、あえて囲碁のすごいところを考える

将棋棋士の藤井聡太六段(執筆当時)や引退した加藤一二三さんのメディア露出や、『三月のライオン』『りゅうおうのおしごと!』といったアニメ作品などのお陰もあり、いま将棋は空前の社会現象になりつつある。

以前のブームは、羽生善治永世七冠が公文のテレビCMをしていた時代、将棋を指すことと頭が良くなることのイメージをうまく結びつけて子どもに将棋をさせる親が増えた時だろう。

比べて囲碁は、2001年ごろからのヒカルの碁ブームを除いて、常に日陰者のイメージがある。いくら井山裕太七冠が国内戦を無双し、世界戦の決勝の舞台に立っても、AIが人間をなぎ倒す歴史的瞬間があっても、囲碁はなんとなく将棋にイメージで負けている感が否めない。

そこで、あえてこの将棋ブームの時代に囲碁の将棋よりすごい(?)ところを考えてみようと思う。

私は、囲碁六段で将棋も嗜む程度ではあるが3級くらいは指せる。囲碁より先に将棋に手を出した。将棋を始めたのは3歳半くらい、囲碁を始めたのは5歳くらいだ。
この文章ではあくまで、囲碁界、将棋界の違いではなく、囲碁と将棋のゲームの違いにスポットをあててみようと思う。

囲碁のすごいところ

①五、六段になってもルールを完璧に理解している人はほとんどいない、なのにゲームは成立する

②ゲームの終了はお互いの同意で決まるので、いつ終わったか分からないし、逆転の手段が残っていても見逃してそのまま負けることがある

③ランダムな場所に打っても、自分の首をしめることはまずないといっていい

書いてみて益々囲碁は不思議なゲームだと感じる。プロの対局でも立会人などがルールを確認したケースもいくつかあるなど、奇妙としか言いようがない。

将棋のルールは盤と駒がなくとも説明できるが、囲碁のルールを説明するしようとしたら、盤と石と囲碁に明るい人が必要だ。

この①,②のようなルールが複雑になっている一因が囲碁の日本ルールにある。中国ルールなどは実践的解決をモットーにしているので、ルール的にわからなくなりそうなときは「最後まで石を置いてみて解決すればよい」となる。ところが、日本ルールの場合は

日本囲碁規約に「この規約は対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて運用されなければならない。」と宣言しているのを見ればわかるように、
実践的解決ではなく、ルール参照を求めている。

③ランダムな場所に打っても、自分の首をしめることはまずないといっていい
これは、囲碁の上達が他のボードゲームより難しい理由でもある。一手で戦況がガラッと変わっていることが目に見えてわかるのであれば反省がラクなのだが、囲碁(特に序盤)における"一手一手のイメージはジワジワ効いてくる"なので反省しづらい。上達も、あの人に勝てるようになった、のような相対的な感じ方がメインである。

囲碁のすごいところを書いたつもりが囲碁の特殊性みたいな書き方になってしまいましたが、いかに奥が深いか分かってくれたらと思います。

#コラム #囲碁 #将棋




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