街に吹く風に抱かれて。

 最近、日の出の時間が早いせいか、やたらと早く目が覚めてしまう。
 今朝も、夜中の1時ごろに寝たはずなのに、目を覚まし時計を見れば5時を指していた。この1週間はそんな日が続き、今朝は流石に2度寝をしてしまったが、またすぐに目を覚ましてしまった。
 早起きは3文の得というのだから、私は今週すでに10文近く得をしている事になる。現代貨幣の価値にしていくらかは、わからない。

 一人布団の上で座り、ぼーっとする時間程幸せな事は無い。カーテンの隙間から差し込む光の筋や、部屋を漂う埃の小さな白い点を眺めながら、ああ今日はどうしようかとぼんやり考える。
 曖昧な一日の始まり。
 ゆっくりと立ち上がり、インスタントのコーヒーにお湯を注ぐ。
 コーヒーを飲んでシャキっとするほど、私の体は単純ではなく、それはあくまで曖昧な一日の中のわずかな時間に過ぎない。
 仕事の支度をして、ぼんやりとした頭でドアのカギを閉め、駅までの坂道を歩き始める。
 道中には何人もの人を見かける。駅に向かう人、或いは駅から出てくる人、別の坂道を上り、いくつもの車が通り過ぎていく。彼らの一日は、私の様に曖昧なのだろうか、それとも、100円の缶コーヒーを飲みシャキっとした朝を迎えているのだろうか。
 それはきっと本人にしかわからない。わからないのだろうけれども、ふとそんな想像をしてしまう。急ぐ人も、のんびりとした人も、同じように朝の空気の中で過ごしている。
 私は改札をICカードでくぐり抜け、8号車の空いている席に腰を下ろす。
 こうして人に囲まれて、移動しているうちに、徐々に頭が働き始めて、読みかけの小説本を開く。電車に乗っている時間はそれほど長くないので、読めるページは十数ページでしかないが、朝のこの読書の時間が私は好きだ。
 がたんごとん。私の体は電車に揺られて、スピードを出して進む。一つ一つの駅に停まって、誰かが降りては誰かが乗ってきて、私は本を読みながらも、今日もしっかりと街は動いているんだなあと感じる。
 そしてそんな時、私は生きている実感を得るのだ。
 当たり前のように皆活動をしているけれど、それは生きているからできる事で、同じようにぼんやりとしながら動いている私も、やっぱり生きている、なんて、そんな事を思ったりする。
 終点のアナウンスに顔を上げ、周囲の人々に続くようにして私も本を閉じ腰を上げる。電車から降りて階段を降ると、慌てたように若い女性が一人階段を駆け上がってくる。私はその後姿を振り返って見送りながら、転ばないようにね、と心の中で呟く。

 朝は人の流れが作る風が街中を吹き抜ける。
 それはごく当たり前のようにして私たちを包み込む。でも、その風は目に見えない物だから、意識しないとつい見落としてしまう。
 その風は生命の息吹だ。街が、人が、社会全体がしっかりと呼吸をしている証。
 朝の澄んだ空気の中で、私はその風をそっと感じて、ああ今日も生きているなあと思いながら、ぼんやりと歩き出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?