エッセイですか、小説ですか。それとも。

 エッセイ、小説、詩歌、ビジネス書、エトセトラ。言葉を使い文章を練り、それをつらつらと並べていく作品の呼称は幾つもある。私たちはそれを無意識のうちに分類し、自分の目的や好みに合いそうな物を選択しているが、そこには一体どのような違いがあるのだろうか。
 小説とは、「自由な散文の形式で書かれた、虚構の物語」と一般的に定義される。エッセイとは、「筆者の体験や読書から得た知識を元に、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である」とある。また詩歌は、ビジネス書は、……。
 こうした形にあてはめていくと、いくらでもそれらの違いを書き出せそうだが、少し考えてみるとその定義と言う物は、いったい何処の誰が保証してくれているのだろう。

 例えば、とある小説を徹頭徹尾ノンフィクションで書いたとして、書き手が「この物語はフィクションです」と一言添えれば、それはフィクションである小説になる。だがもし、そこに登場する人物の一人がそれを読み、「いや、これは全部ノンフィクションで、そこには感想や思想が交えてあるからエッセイだ」と認識すれば、その小説はその瞬間その人にとってはエッセイになるんじゃないだろうか。
 また、ビジネス書と謳い書いた本の内容が、日常生活にはまるで役に立たない話を、これでもかというくらいドラマチックな話に仕立て上げられていたら、それはもう小説となる。
 本人の主張と受け手の印象次第で、その文章の持つ意味合いはいくらでも変わっていく。つまるところ、文章の定義と言う物はある種流動的な物で、書き手や読み手、場所や時代によっていくらでも変化しうる存在なのだ。

 だからと言って、その定義付けが全く無意味だと言いたいわけではない。むしろその逆で、その文章どういうものなのか定義することは自由であるのだから、書き手、読み手はもっとリラックスした気持ちで取り組めるのではないかと思っている。

 私もかつてはそうだったが、例えば読書感想文や作文は何を書けばいいかわからなかった。というのも、読書感想文とはこういうもの、作文とはそういうもの、と言った固定概念が心の奥底にいたからだ。こういう風に書かないと、そう思い始めたが最後ペンは止まったままだった。
 そうした固定概念は自由な発想を阻害させる。私たちは自由に文章を書いていいはずなのだ。それが、社会や一般的な常識を意識してしまい、本当に書きたいことが書けないままになってしまう。
 私たち書き手は自由に文章を書き、それを自由に自称していいと思っている。そして、それを読んだ読み手は、自由にそれを受け取り定義付けていい。そして読み手の意図と書き手の解釈とが一致したとき、その文章は何かしらの意味を持つことになる。ただそれだけの話なのだ。

 これはノンフィクションだから、文頭一時下げをしていないから、三点リーダを使え、エッセイなら嘘を書くな、ビジネス書なのにSFってどういうこと、こんなの詩じゃない。そういったクレームははっきり言ってナンセンス。社会と言う曖昧な存在によって作られた文章のルールを守ったところで、そこに筆者の心の中に持っている自由な発想や心情、本当に書きたい事を表現できるとは思わない。

 文章を書くときはもっと自由で好きなようにしていい、読む時は自分の受けた印象を素直に感じていい、それがマッチした時に文章は意味を持つ。そんな感じのスタンスでいいのではないだろうか。

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