ある晴れた日の事。

 北国石川県では、重苦しい雲が重なり合っていても、「今日は天気が良くてよかったですね」というような事を言う。その言葉を、石川県以外の、特に太平洋側の人が聞くと不思議な顔をする。こんな日のどこがいい天気なのだろうか、そんな疑問が実に見事に顔に浮かんでいる。
 私自身はその石川県の出身で、曇り空を晴れた日と形容する事には慣れているが、なるほど、確かに言われてみれば、今にも雨が降りそうな曇天を見上げ「いい天気ですね」というセリフは実に奇妙だ。
「弁当忘れても傘忘れるな」
 という言葉がある。一日の内で晴れたり曇ったり、雨が降ったりと変わりやすい天気のため、傘は肌身離さず持ち歩けという事である。これは石川県に昔からある言い伝えで、一年中天気が安定しない北陸地方ならではの発想だ。
 こうしてみると、衣食住のうちの弁当よりも天気を気にしていて、また曇り空であろうが雨が降っていなければいい天気という思考に至る石川県というのは、なんとまあ天気に恵まれない土地であろうか。
 昔を振り返ると、外で何かしらのスポーツをする時は雨に濡れた試合を思い出す。夜中に鳴り響く雷に起こされたり、雪がしんしんと降る暗い灰色の空はもはや冬の間中がそうだったかのような気もする。石川県を離れた今、郷愁の念に駆られるときは、いつも曇り空だ。
 春の少しの暖かさを感じては、すぐに梅雨時のじめじめした時期が続き、夏の暑さもつかの間、台風が通り過ぎ、そして荒れた冬が来る。
 うっすらとした雲が広がり、太陽が顔をのぞかせなくとも、今日は晴れとるなあ、と呟く。

 それだから、私は「ある晴れた日の事」などと言う書き出しや一文を見ると、どうしても曇り空を連想してしまう。どこまでも続く青空の下、緑の葉の陰に隠れるようにして見上げるのではなく、ぼんやりとした世界が浮かぶ。薄灰色の、刈り取られた稲の茎がまばらに田んぼから顔をのぞかせているような、そんな世界だ。
 だが、その後に続く言葉はだいたい、これからの展開がワクワクするような、明るい雰囲気に包まれている。そこでようやく私は、おっといけない、ここで言う晴れは青空の事を言うのだな、と気が付く。流石に刈り取られた稲を見て、心がウキウキ踊るような事は無い。

 生まれた環境、或いは育ちの過程によって、同じ日本語で描かれた情景にも微妙な差異が生まれる。文章とは実に難しい、映像や写真であるならば、視覚へ訴えかける事でイメージの共有がスムーズに行えるが、小説やエッセイともなると、読み手の想像力に頼るほか無い。文章の肌触りやリズム、或いは的確な言葉選びによって、私たち書き手は顔も知らない相手に、自分の頭の中に思い描いている世界を伝えようとする。そうして、読み手は書き手の描いた世界を、言葉という情報のみから類推し形成する。
 だが、この過程で生まれる差異は、決して悪い事ではないという事を強調しておこう。というのも、以前別のエッセイでも言及したかもしれないが、書き手と読み手はそれぞれ自由であるべきだと私は考えている。それはすなわち、書き手が描きたかった世界を、読み手が少し曲解したところで、それは一つの作品足りうるのだ。
 私は今はエッセイを書き、時々小説を書く。そのことについて、あとから何かしらの注釈を入れたり、説明や解説を付け足すような事はしない。あくまで、私の文章の解釈は読み手個々人に委ねている。例えば私が、幸せをテーマにした小説を書いたとして、そこに書かれた事が万人にとって幸せであるかと言われると、決してそんなことは無い。極端な話が、春の喜びを歌っても、花粉症の人からは恨み言を言われるだろう。
 それでいいのだ。その瞬間に、その作品は私の意図した物とは違う別の意味を持つ。読み手の数だけ作品としての可能性が広がる。それはそれで、とても興味深い事であり、もし可能であるならば、様々な人に私の文章を読んだ感想を聞いてみたい。
 明日の天気はいい天気だろうか、そんなことを考えながら、玄関に立てかけてあるボロい傘を思い出し、明日はちゃんと持って行こうと思った。

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