軌道旋風ギャブリエル 『楽園の地獄』 第一話 「地獄の王」
【前回】
「君は、なぜ……」
デミルは表情を変えずに、ただ呟いていた。
古いアパートメントの一室。
冬の乾いた空気。
クリスマスの朝。そして、血の匂い。
デミルはひざまずく。横たわる少女に触れる。
そこに、もはや温もりは存在しない。
「……セレン」
セレン。幼馴染の少女。床に横たわり、足を投げ出し、もう動くことはない。デミルは確かめるようにその頬に触れた。あの暖かさは、もう伝わってはこない。
冷たくなった手を握りしめる。時は刻々と過ぎていく。窓の外からはサイレンの音が聞こえる。情況はすでに動き出している。動かなければならない。すでに、作戦は始まっているのだから。デミルは顔をあげて立ち上がる。その盲た目は閉じられている。
カツン、カツン、とデミルの持つ白杖が刻むような音をあげ、横たわるセレンから遠ざかっていく。
デミルはただ呟いていた。
セレン。
君は、なぜ……。
軌道旋風ギャブリエル
『楽園の地獄』
第一話
「地獄の王」
エクサゴナル共和国の首都パリス。その中枢にはそびえている。神秘的な輝きを放つ威容。指導者マキシム・デュカンを讃える白亜の塔。
栄光塔。
その塔を中心にして、パリスを東西に貫くのはエスポワール大通りである。全幅約100メートルのその通りに、今、佇むのはたった三人の人影のみ。
大柄なドレッドヘアの男。老人。そして、小柄な少女。三人の体を冬の冷たい風が吹き抜けていく。遠くからは爆発音とサイレンの音が聞こえてくる。
「はあああ?」
ドレッドヘアの男ががなり立てた。まるで遠くからの音を拾うように、男は耳に手を添えている。男は言った。
「ユヌスの旦那。トラブル発生だ」
ユヌスと呼ばれた老人が応える。
「なんだ、スライマン」
「デミルからの報告……セレンが、殺された」
「……そうか」
老人は眉ひとつ動かさず、スライマンを促す。
「それで?」
「デミルは単独で作戦行動を開始。犯人は……わからんだってよ」
「ふむ……あのデミルでもわからんか」
ユヌスは顎に手をあてた。
「それで、デミルはなんと言っている」
「ハハ! 奴は……いつもと同じさ」
爆発音。同時に、冷たい風が再び三人の体を吹き抜けていった。
そこから五区画ほど離れた地区で。
デミルは人気のない路地を疾風のように駆け抜けていた。盲ているにも関わらず、その速度は超人的である。
デミルは呟くように口を動かす。
我ら〈屍衆〉、もとより死人も同じ
祖国アルドリアに報恩忠国し
一身をもって
悪辣なるエクサゴナルに鉄槌を下すのみ
スライマンはその声を拾い、復唱した。
「鉄槌を下すのみ……だってよ」
ユヌスの右の口角が吊り上がり、歪んだ笑みを浮かべる。
「重畳、重畳」
そして少女を見た。
「デミルは〈楽園の地獄〉のかなめぞ。奴を護るのだ……セレンの代わりに、お前がな。ルウルウ」
「りょーかい」
その言葉とともに、少女は一陣の風を残して消えた。
「さて」
ユヌスは上空を見上げる。
「我らはこのまま、陽動を続けよう」
「ハハッ、来たみたいだなあ、盛大に!」
スライマンもまた上空を見上げた。
『警告する! 首都は今、テロリストの脅威にさらされている! 戒厳令を破り出歩く者は、即刻射殺する!』
空を埋め尽くすように、戦闘ドローンの群れが集結しつつあった。
◆
人気のない裏路地を駆け抜けながら、デミルの鋭敏な知覚は捉えている。家屋やアパートメントの中で、怯えて過ごす人々の息づかいを。
嵐が過ぎ去るのを待つ彼らは、今、災厄の恐怖に震えながら耳を傾けている。
指導者マキシム・デュカンの演説に。
『……この祝祭の日に、私たちは、かつてない試練と遭遇している。卑劣にも敵はこの聖なる日を狙い、私たちに攻撃をしかけてきたのだ。多くの人々が……私たちの隣人が、父が、母が、娘が、息子が、友人たちが犠牲となった。そして今もなお、犠牲となりつつある』
マキシムは静かに、一人一人の国民に語りかけるように言葉を紡いでいく。
『しかし、私たちを恐怖によって屈服させようとする敵の試みは、失敗に終わるだろう。敵は愚かにも私たちの結束を、気高き意思を、甘く見ているからだ』
少しずつ、マキシムの声音は熱を帯びていく。
『私は私たちのエクサゴナル、その大地に暮らす同胞たちに伝えたい。怖れることはない。なぜなら、私たちはエクサゴナルだ。理想を掲げ、それに向かって歩んでいるエクサゴナルだ』
デミルは家屋の中の人々の呼吸、鼓動、体温、そしてその微かな生活音から理解する。パリス市民の感情が、少しずつ、落ち着きを取り戻しつつある。それがマキシムの持つ力、演説の力なのだ。
『この世紀に生まれ、戦争によって鍛えられ、困難で厳しい平和によって律せられながら、私たちは、我々の古い歴史と伝統を誇りとし、そして、この国は常にそのために尽力してきた……それは、真の世界平和という理想である』
世界平和……デミルは知っている。その言葉の空虚さ、無意味さを。一方的に蹂躙され、焼け落ちるアルドリアの街を、その臭いを、その叫びを、その絶望を……デミルは、はっきりと知っている。
『だから私たちは、私たちに恐怖を与えようとする敵に対して敢然と言わなければならない。私たちは真の世界平和を達成するためなら、いかなる代償をも払い、いかなる重荷をも背負い、いかなる苦難にも立ち向かい、いかなる敵にも対抗するのだということを! それこそが私たちエクサゴナル共和国の市民が担う尊い責務であり、果たさなければならない気高き使命なのである!』
パリス市民の嗚咽が聞こえる。人々は感極まっていた。
『エクサゴナルの市民よ、私たちの家族よ。今、この危機の時こそが目覚めの時だ。私たちは崇高なる理念とともに歩んでいる。私たちを襲う危機の最中において、この使命への目覚めこそが、私たちが得ようとしている新しい武器なのだ。恐れるな。使命を胸に抱け。誇りとともに前を向こう。いかな困難があろうとも、いかに敵が卑劣であろうとも、私たちは高らかに言おう。私たちの歩みを止めることなど、お前たちにはできはしないのだと!』
デミルの心は今、醒め、冷えて、研ぎ澄まされていた。マキシムの言葉を耳にしても、その言葉に酔いしれる嗚咽を耳にしても……デミルの心に怒りや憤り、憎しみが宿ることはない。その心に宿るのは鋭利な、刀のように冷たい、徹底した覚悟のみ。そのはずだ。
なぜならデミルは……〈屍衆〉だからだ。
デミルは立ち止まった。朝霧の中、遠くで響くサイレンの音だけが流れている路地裏で、デミルは誰もいない虚空へと向けて告げた。
「……バレていない、とでも思ったか?」
沈黙が流れる。
しかし、デミルは再び告げた。
「もう一度言う。バレていない、とでも思ったのか」
デミルは白杖で、足元の小石をカツンと弾いた。乾いた小さな音だった。
直後。
「バレたか」
舌を出し、背後から現れたのは少女だった。ルウルウ。〈屍衆〉の少女。しかし……。
「んん~?」
ルウルウは眉根を寄せた。デミルは前を向いたまま、身じろぎひとつしない。それどころか、ルウルウに反応する素振りすら見せなかった。
「なんなの……」不満げにそう漏らしたルウルウの耳が、まるで野生動物のようにピクピクと動いた。どこからともなく、カン、カン、カン、と甲高い音が連続して聞こえる。ルウルウは得心した。
「ああ……そういうこと」
野獣のような笑みを浮かべ、駆け出す。同時。弾けるような音とともに街灯が砕け、その破片が散弾のように散った。
「グッ……?」
何もない路上の傍らから、くぐもった声が漏れる。空中に鮮血のような赤が滲んだ。ルウルウは跳躍している。腕を振りかざし、空中で身を捻る。「アハハッ……」乾いた笑いとともに、その腕は振り下ろされる! 虚空が引き裂かれ、景色が歪んだ。景色……光学迷彩をまとった男の目は、驚愕で見開かれていた。
「見ぃつけたッ」
男は眼前に少女の爛々とした眼光を見た。拳銃を抜く。少女へと向ける。その腕が……肘から握り潰される。少女とは思えない力だった。ルウルウは獣のような唸りをあげながら、そのまま男を引き寄せ、首を掴んだ。すべては一瞬の出来事だった。男は呻いていた。
「グッ……何が……何が、起きた……」
「驚いた? デミルの〈魔法〉って、凄いよね」
男は知るはずもない。すべての起点はデミルが弾いた小石にあったということを。己の弾いた小石がどのように飛び、その運動エネルギーと質量が何をもたらすのか……デミルは、そのすべてを「見る」ことができる。
「ねえ……」
ルウルウは首を回し、デミルを見た。肉食獣の目をしていた。
「いいよね、殺っちゃって?」
「待て」
デミルは静かに近づく。
「確かめる必要がある」
ルウルウは不満げに顔を歪めた。男は身を捩り、逃れようとしている。しかし、ルウルウの膂力の前にそれは無意味だ。デミルは男に問うた。
「お前は……エクサゴナルの者か?」
男は答えない。デミルは頷き、静かに返す。
「そうか。違う、ということだな」
デミルの言葉に、男の身じろぎが……止まった。
「その体格、その身のこなし……お前は正規の訓練を受けていない。さしずめ、闇家業の傭兵といったところか」
男は沈黙を続ける。しかし……デミルは男の鼓動を聞いた。男のわずかな分泌を嗅いだ。
「……正解のようだな」
男は凍りついたようにデミルを見る。その表情は雄弁に語っている。なぜ、わかるのだ。ルウルウはにやにやと男の顔を見つめた。
「どうやって俺を知り、俺を尾けた? ……いや、お前は俺を知らない。そうだな?」
デミルは一方的に続ける。
「……そうか。ただ依頼を受けただけで、理由までは知らない。当然、雇い主も知らない。そうだな?」
男は喘いだ。「あ……悪魔……」ルウルウは茶化すように言った。「悪魔じゃないよ。デミルは魔法使いだよ~」デミルは……「最後に……」
声音を変えた。
「聞くことがある」
にやつき、男の表情を見ているルウルウは気がつかなかった……その背後で、デミルの盲た目が大きく見開かれていく。そして……重く……大地の奥底から響くような声で、デミルは男に告げた。
「セレンを……俺たちの仲間を殺ったのはお前か?」
男は震えていた。
デミルは息を吐き、目を閉じた。
「ルウルウ……もういい。好きにしろ」
「あいよー」
ルウルウは無造作に男の首を握り潰す。鈍い音とともに、男は呆気なく死んだ。死体を玩具のように放り投げ、ルウルウは振り返った。
「あれ。デミル?」
デミルはすでに歩き出している。ルウルウは慌ててその背を追いかける。
「待ってよ、ちょっと」
「……ルウルウ」
デミルは平坦な声音で言った。
「油断をするな。今の奴もそうだ。わかっただろう、エクサゴナルだけではないと。魑魅魍魎が俺たちを追っている……俺たちは死地の中にいる。油断したら、死ぬ」
「そんなことはわかってんだけどさ……そんなことよりもデミル、どこに行こうってのさ」
「……虫の駆除は終わった」
だから、とデミルは続けた。
「次の拠点に移動する」
「エッ、作戦はまだ終わって……」
そう言いかけたルウルウの背後で、突然、爆発音が轟いた。突風が髪を揺らし、ルウルウは振り返った。
「ワオ……」
その顔が赤く照らし出されていく。マンホールの蓋が吹き飛び、下水道から炎の柱が立ち昇っていた。
「もしかして……!」
「ああ」
デミルは首肯した。
「楽園の地獄、第一波はすでに完了している」
「すご……」
そして唸るように、大地は鳴動を始めた。鳴動は徐々に大きくなり、波紋のようにパリス中心街へと広がっていく。ルウルウは揺れる景色の中でそれを見ていた。エスポワール大通りに、巨大な炎。柱のような、巨大な炎が噴き上がっていく。
「すッごい。いつの間に」
「俺がやみくもに……路地を駆け回っていたとでも思ったか?」
デミルは再び歩き出す。
鳴動の中、人々の悲鳴が聞こえる。
家屋が崩れ、いくつもの鼓動が消えていく。
ルウルウは理解した。デミルはただ走っていたのではない。
「魔法を、使ったんだ……!」
デミルは首を振った。
「魔法、なんかじゃない……俺はただ、事象の連鎖を見る……起点を見いだし、それを押す。ただ、それだけだ」
デミルは呟いた。
「ドミノを倒すのと、何も変わりはしない」
子どもの泣き叫ぶ声が聞こえる。炎の中から、誰かの名を叫ぶ声が聞こえる。デミルは繰り返した。
ドミノを倒すのと、何も変わりはしない。
デミルの歩みに連動するように、ひとつ、またひとつとエスポワール大通りに炎の柱が立ち昇っていく。デミルは歩く。黒煙がパリスの空を覆い、赤が禍々しく黒の中に瞬く。歩きながら、デミルは呟く。その声は鳴動と爆発、人々の悲鳴の中にあって、かき消されていく。
ルウルウは恍惚とした表情で眺めていた。エスポワール大通りの炎は巨大化し、連鎖するようにパリス中央へと向かっていく。
ルウルウはデミルの「魔法」が好きだ。
火薬も使わず、ただ白杖を振るうだけで物理現象の連鎖を生み出し、都市をも壊滅させる。腕力を振るうだけの自分とは違う。「綺麗……」高ぶる気持ちに駆られて、ルウルウは走り出す。デミルを追い抜き、はしゃいだように振り返り、デミルを見る。
「やっぱり、デミルの魔法って凄いよ!」
炎が逆光をつくりだしていた。デミルの顔には影。その背後には黒煙拡がる空と、燃え盛る炎。暗く、揺らめき、歩くその姿はまるで……。
「デミル……?」
まるで、地獄の王だ。
ルウルウは呆然とその姿を見つめた。
デミルは歩く。デミルは呟く。
セレン。
デミルは思い出す。
デミルは繰り返し呟いている。
セレン。君は、なぜ……。
デミルは表情を変えずに、ただ呟いている。
「セレン。君は、なぜ……」
君は、なぜ死んだ
その背後で炎に包まれた栄光塔が……音もなく崩れ落ちていった。
【第二話に続く】
【次回予告】
楽園の地獄、第一波はパリス中枢に未曾有の被害をもたらした。屍衆は過酷なる第二波の準備を開始する。その最中、デミルは独りセレンの死の真相を追い求める……。
そして衛星軌道上では、ついにあの〈軌道旋風〉が動き出す。
軌道旋風ギャブリエル『楽園の地獄』
第二話「君は、なぜ」
あなたは目撃するだろう。
マキシム・デュカンの冷たい笑みを。
この続きは2021年6月10日発売の「無数の銃弾:VOL.3」で読めます。
VOL.4発売のタイミングでこちらの内容もnote上で公開予定です。
きっと励みになります。