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ワニは100日後に殺された

 桜の花びらが、美しく舞っている。

 交通捜査課巡査部長である犬山は、道路に横たわる遺体に手を合わせていた。綺麗な遺体だった。純朴そうなワニの若者。どこか、満ち足りた表情をしている。

「ひき逃げ……なのか?」
「そうだと思います……近くで花見をしていた複数の男女が、どすんという鈍い音を聞いています。ただ……」
「妙だな」
「ええ……」

 犬山と、部下の雉沼は首を捻った。

「タイヤ痕が……ない?」
「はい。赤外でも確認しました。それに繊維も、塗膜片も、ガラス片も何もないんです……って、ちょっとちょっと、あなた誰! 勝手に近づかないで!」

 雉沼は慌てて手を振り、制止しようとする。その振る手の先では、壮年の猿がふらりと現場に立ち入ろうとしている。それどころか、犬山たちに近づいてこようとさえしていた。犬山が唸った。

「……猿田」
「え? 猿田って捜査一課の『墓掘り猿田』?」

 雉沼は驚き、犬山の顔を見る。男は……猿田は淡々と二人に告げた。

「悪いな。ちょっと見させてもらう」
「おい……」

 犬山は言いかけ、無駄だと悟って黙った。墓掘り猿田。まるで墓を掘り返すように、終わった事案を掘り返しては事件化する男。犬山の同期だった。

「……ほどほどにしてくれ。俺にも立場がある」

 猿田は手をひらひらと振った。

「わかっている」

 猿田は遺体を見る。猿としては美形の部類に入るその顔がやや曇った。遺体に手を合わせ目をつむる。

(ワニ……やはりワニだ)

 猿田は記憶を辿っていく。

 100日前。捜査一課に届いた匿名の封書。その中には、この現場の地図と

100日後、彼が殺される

 そう一言だけ書かれた便箋が入っていた。どこか、女性らしさを感じさせる文字。便箋の隅には可愛らしいワニの絵が描かれている。そのワニは「6000」と書かれた看板を咥えている。

 封書はいたずらとして処理され、廃棄されるところだった。しかし、猿田には引っ掛かるものがあった。地図も便箋も丁寧に折り畳まれ、封筒に入れられている。その丁寧さには、まるで差出人の祈るような想いが込められている、そんなふうに猿田には感じられた。そしてなによりも重要なのは、ワニの絵だ。

 猿田は手を合わせながら、さらに記憶を遡っていく。16年前。まだ新人だった猿田にとって、もっとも記憶に残る事件があった年だ。

 それはバイク修理工場への立てこもり事件だった。犯人のワニは「友だちを救うんだ」と叫び、そして、機動隊突入直後、忽然とその姿を消した。奇妙な事件だった。

 その事件から、今日でちょうど6000日目。

 猿田は目を開け、ホトケの顔を見つめた。なにかをやりきったような、そんな笑顔を浮かべていた。

 猿田は顔をあげた。桜の花びらが一枚、目の前をひらひらと舞いながら落ちていく。その花びらの向こうでは、ちち、と笑うようにさえずる黄色い雛鳥が、楽しげなステップを踏んで茂みの中へと消えていった。

【続かない】

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