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太郎の居る世界

 壁がある。
 その向こうからは声が聞こえてくる。

『あいつらが悪い』『こんなことになったのも……』

 別の壁からも声だ。

『批判はもうたくさん』

 どこか、もがくようなそれらの声は、刺すような刺激とともに木霊している。やれやれと息を吐き出して、太郎は前を向いて歩きだした。

 壁に囲われた回廊のような世界だった。白い壁、白い天井、そして静寂。太郎が歩く世界の中に、人の影は存在しない。誰もいない空漠の中を、ただ一人で太郎は歩き続けていた。

 その足取りはゆっくりと、しかし、確信に満ちていて力強い。

 太郎は顔を上げた。そそり立つ壁。行き止まりだ。その向こうから再び声が聞こえてくる。

『頑張ろう』『もう少しの辛抱だ』

 その言葉はきぃきぃとガラスを滑るような音を伴いながら、白い天井へと吸い込まれて、虚しく消えていった。

 壁、壁、壁。壁の向こうの人々は、見ることも触れることもできない。太郎は壁にそっと手を添える。まるで血のような湿り気を感じながら、首を振り「違う」と呟く。再び歩き出す。

 コチリ、コチリ……

 左腕に巻かれた腕時計が、コチリ、コチリ、時を刻んでいる。

「あと10分」

 太郎は前を向いた。

「急ごう」

 笑い、泣き、喚き。壁の向こうからはいろいろな声が聞こえてくる。そんな中を太郎は注意深く、何かを探すように歩き続ける。

「ここだ」

 立ち止まり、壁に耳を押し当てた。声が聞こえる。それまでの声とは異なる、小さな、呻くような囁きだ。

『……悲しい』

 太郎は壁を叩いた。こんこん。反応はない。ごんごん。強く叩く。囁きが、一瞬だけやんだ。

 太郎は頷き、時計を見て笑った。

「ちょうど時間だ」

 ボムッ! 太郎は爆発した。壁に開く大きな穴。その向こうへと風が吹き込み、光が差し込んでいく。太郎の世界に生じた、たったひとつのささやかな変化だった。

 太郎の笑顔はごとりと壁に跳ね返る。そして、穴の向こうへと転げていった。

【おわり】


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