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雌鶏 第五章/楡 周平

【前回】

   1 

 淀(よど)興業を『ヨド』に改めて以来、事業規模はますます拡大の一途を辿(たど)った。
 支店はほぼ全国を網羅。それも人口規模によって、複数の支店を置く都市もある。業績もまた鰻(うなぎ)登りなら、業態の呼称も古くから用いられてきた『街金』に加え、七〇年代に入ると『サラリーマン金融』、略して『サラ金』が使われるようになった。
 手形金融の業績も殊(こと)の外順調に推移した。
 最大の追い風となったのは、東京オリンピックの翌年、昭和四十年九月に開催が決定した大阪万博である。広大な千里丘陵の整地から始まって、参加各国、大企業のパビリオン建設事業はオリンピック同様、日本経済に多大な恩恵を齎(もたら)すと共に、莫大な資金需要を生んだ。
 確実に返済できる借金に人は躊躇(ちゅうちょ)しない。当座の運転資金を確保するために、ヨドには連日多くの手形が持ち込まれるようになった。
 サラ金、手形金融の二つの事業で清彦(きよひこ)は莫大(ばくだい)な富を手にしたのだったが、好事魔多しとはよくいったものである。
 万博を翌年に控えた昭和四十四年十一月の夕刻、会食の場になっていた赤坂の料亭に入ろうと、社用車を降り立った清彦に一人の男が近づいてくると、液体を浴びせかけたのだ。
 直後、頭部から顔面にかけて酷(ひど)い熱を覚えた。気配を感じて男のほうに視線を向けたこともあって、液体が入った右目に酷い激痛が走り、とても立っていられなくなった清彦は絶叫しながら、その場にしゃがみ込んでしまった。
 反射的に頭部から顔面を手で拭うと、掌(てのひら)に何かが付着する感覚がある。
 かろうじて左目を薄く開けて見ると頭髪だ。
 薬品には間違いないのだが、それにしては匂いがない。
 門前で清彦を迎えた女将は、突然の襲撃に驚愕(きょうがく)したのか、その場にたたずむばかりだ。ドアを開けた運転手もまた、「何をする!」と怒声を上げたはいいが、男を取り押さえる素振りもなく、「社長!」と清彦に駆け寄り「救急車を早く!」と大声で叫ぶ。
 それからのことは、あまり記憶にないのだが、病院に搬送され応急措置の後に医師から告げられたのは、液体が硫酸であったこと。右目は損傷が酷く、視力はほとんど回復しないであろうこと。頭髪の抜け落ちた部分、爛(ただ)れた顔面の皮膚も、痕跡がそのまま残ることと、絶望的なことばかりであった。
 長期間の入院を余儀なくされ、ようやく退院の日が決まった頃、はじめて鏡で自分の顔を見た清彦は、我が目を疑った。そして絶望感を覚えた。
 右半分の頭髪が頭頂部から生え際にかけてごっそりと抜け落ち、それに続く顔面の皮膚がケロイド状に引き攣(つ)れていたのだ。
 これが俺の顔? これから先、この顔と共に生きていかなければならないのか……。
 栄光の日々は暗転し、退院後の清彦は、以来自宅に引き籠るようになった。
 もちろん、真っ先に脳裏に浮かんだのは犯人の特定、そして報復である。
 これだけのことをしでかすからには、個人の犯行とは思えない。組織の命を受けてのことに違いないと察しはついたものの、いざ調べようとしてみるとこれがなかなか的が絞れない。
 というのも、恨みを買いそうな組織がいくつもあったからだ。
 貸付金の原資の調達先をヤクザに求めた狙いはものの見事に的中した。しかも事業規模は急速に拡大し、資金需要は増すばかり。ヤクザからしても極めて安全、かつ高利回りの融資先となっていたし、回収が焦げつけばヨドから債権を額面で買い取り、そこから先は生かさず殺さず。長期に亘(わた)って利子をむしり取り、最後は恐怖の力で回収するのだ。
 しかし、ヨドの企業規模が大きくなり、社会にその存在が認知されるようになると、ヤクザとの関係を深めるのは社会的信用に関わる問題となった。
 そこで目をつけたのが、かつての手形金融の常連客で、今では運転資金に余裕ができた一般企業だった。
 儲(もう)け話に敏(さと)いのはこちらも同じで、主に中小企業の経営者が余剰資金の運用目的で、ヨドへの投資に応ずるようになったのだ。
 ヤクザへの依存度を軽減しようとしていた清彦には願ったり叶(かな)ったり。以降時間の経過と共に、徐々に一般企業への依存度は増していくことになったのだ。
 こうした方針転換が、ヤクザには面白かろうはずがない。そして、一旦、付き合いができてしまうと、簡単に縁を断ち切ることができないのがヤクザである。彼らにとってシノギの確保は死活問題そのものだ。さらなる出資を申し出てくる組織は引きもきらず。なのに、応ずるどころか減額を通告してきたのだから、強硬手段に打って出そうな組織はいくらでも思いつく。
「清彦さんなあ、あんたがこないな災難に遭(お)うてまうと、なんや恐ろしゅうなってもうてな。金がらみの商売やってたら、どこで恨みをこうてもおかしゅうないし、因果応報っちゅう言葉もあるよってな。お父さんが、あない苦しんで死なはったんも、阿漕(あこぎ)な商売をやってきたせいやないかと気になって……」
 義母のクメがそう切り出したのは、退院した直後、静養のために有馬(ありま)温泉の別荘にやってきた日の夜のことだった。
 森沢(もりさわ)が亡くなったのは、三年前の昭和四十一年の五月のことだった。
 享年七十一歳。平均寿命が六十六歳だから長生きした部類ではあるのだが、死に至るまでの過程は凄惨な苦痛との戦いだった。
 突然吐血し、医師の診察を仰いだところ胃癌(いがん)と分かり、即座に入院し全摘手術を受けた。もちろん本人に本当の病名は告げられず、胃潰瘍とされたのだったが。程なくして肝臓、肺へと相次いで転移。根治が望めるはずもなく、モルヒネで痛みを緩和するだけの対処療法に終始することになったのだ。
 それでも病床で森沢は苦痛を訴える。ついには「痛い……痛い……早く死なせてくれ」と懇願するのだったが、聞き入れる医者がいるわけがない。しかも元来身体(からだ)が頑健であったのか、あるいは贅沢な暮らしのお陰で、人一倍栄養状態が良かったのか、医者も首を傾(かし)げるほど、死はなかなか訪れない。
 側で見ていても「生き地獄」とはまさにこのことだと実感するほど苦しんだ挙句、闘病生活八ヶ月にして、ようやく臨終の時を迎えたのだ。
 そんな光景を目の当たりにして、クメは思うところがあったのだろう。急に信心に熱を上げるようになり、尼崎(あまがさき)と有馬の寺に大金を寄進し、毎夜仏壇に向かっての勤行を欠かさぬようになったのだ。
「お義母(かあ)さんは阿漕な商売と言いますけどね、街金は世の中に必要としている人が大勢いるから成り立っているんです。銀行は審査もあるし、担保がなければ金を貸しませんからね。今日明日の金に困っている人たちに、簡単な審査でお金を用立てるのが街金の役目なんです。第一、銀行だって立派な金貸しじゃないですか。やってることに大差はありませんよ」
 そうは言ったものの、返す言葉が歯切れ悪くなってしまうのは気のせいではない。
 こんな酷い目に遭わせた相手が誰なのか。未(いま)だ特定できないでいるのは、恨みを買う覚えがそれだけあるということだからだ。
 クメは言う。
「清彦さんは、そない言わはりますけどな。どこで恨みを買うてるか分からへんのが金貸しいうもんと違いますのん。同じ会社でも、銀行は勤め人の集まりや。その点、うちとこは清彦さんの会社です。借りた時には助かった思うても、担保を取らへんで貸す代わり、利子は銀行よりも遥(はる)かに高いんやもの……」
「確かに高利貸しといわれるように、金利は高いし、返済が遅れれば取り立てもしますよ。だけど、それは約束事、つまり契約の問題でして、客だって承知の上で借りるんですから、恨むのは筋違いってもんですよ」
「恨みっちゅうもんは、理屈やあらへんのです」
 クメの声に熱というか、必死さが籠る。「喉元過ぎれば熱さを忘れるゆう言葉がありますやんか。金が借りられて急場を凌(しの)げたら、その時は安心するし感謝もしますやろ。そやけど、なんぼ約束事やいうたかて、皆が皆、期限までに返すお金ができるとは限らへんでしょ? なのにしつこう取り立てられたら、感謝が恨みに変わるのと違います? まして、高い利子がついて、元本以上のお金を払わなならんのですもん」
 クメの指摘はもっともだ。
 感謝の気持ちなんてものは長く続くものではないが、恨みは違う。一旦抱けば、何年、何十年、いや相手が死した後も抱き続けるのが恨みである。
 クメは続ける。
「恨みいうもんは、当事者だけに向けられるもんと違いますで。最終的には、恨みを抱かせるような行為を命じた人間にも向くんです。街金の場合は特にそうですわ。当たり前やないですか。利子で肥太ってるのは手下やない。一番上に立つ人間。うちでいうなら清彦さんなんやもの」
「でも、お義父(とう)さんはこんな目に遭ったことはなかったのでしょう?」
「商売の大きさが違います」
 クメはピシャリと返してきた。「尼崎の街金やもの。金を借りにくるほとんどが、顔見知りみたいなもんやったし、下手なことをすれば地元にいられへんようになってまうかもしれへんのやし……。その点、清彦さんは違いますやん。全国に支店を作らはったんやもの、どこで恨みを買うか分かったもんやあらしませんがな」
 これもまた、クメの言う通りかもしれない。
 そう思う一方で、なぜこんな話をクメが持ち出したのか、清彦は理解できなかった。
 というのも、クメは今までただの一度も、会社のことで意見めいたことを口にしたことはなかったし、そもそも寡黙で、森沢が亡くなってからは、その傾向に拍車がかかっているように思えたからだ。
 しかも新宿にヨドの本社を構えて以来、清彦はミツと櫻子を連れて尼崎を離れ、住まいを東京に移したし、一人暮らしをすることになったクメもまた、この別荘で暮らすようになっていた。
 顔を合わせる機会が格段に減っていたこともあって、この豹変(ひょうへん)ぶりには驚いたのだったが、
「それでなあ清彦さん、京都の神社の神主さんで四柱推命の大家がいてはりましてな」
 と言い出したのを聞いて、その謎が解けたような気がした。
「占ってもらったわけですね」
 先回りした清彦に、クメは頷(うなず)くと真剣な眼差(まなざ)しで話しはじめる。
「そしたら先生はこう言わはったんです。この人は、頭(ず)抜けて頭がええし、稀(まれ)に見る事業運、金運の持ち主やけど、死ぬことはないにしても大きな災難に遭う……」
 見立てのさわりの部分を聞かされただけで、ため息が出そうになった。
 四柱推命なるものについてはとんと知識がないが、占いごときで先が分かるのならば、事業に失敗する者はいやしないし、世の中金持ちだらけ、不幸な目に遭う人間などいやしない。
 そもそも清彦は、神や仏のたぐいを全く信じてはいない。
 ただ一つ、信じられるものがあるとすれば『運』の存在だけだ。しかし、それにしたって神や仏が差配するものではなく、巡り合わせと自助努力の結果によるものだ。
 そこで、清彦は意地悪な質問を発した。
「お義母さん……。私の仕事を話した上での見立てでしょう? 街金の社長だと言えば、そりゃあ災難の一つや二つ、降りかかるのが当たり前ってもんじゃないですか」
「そら言いましたよ」
 クメは、ますます真剣な表情になる。「病気一つせえへんかったお父さんが、いきなり大病にかかった上に、清彦さんに万が一のことが起きたら大変や思うたから、観てもろうたんやもの」
 もはや必死の形相で、訴えるように言われると、返す言葉に困ってしまう。
「それに観てもろうたのは、二年前のことでっせ」
 黙った清彦にクメは続ける。
「その時先生、こうも言わはりましてな。この人は深い業を背負うて生きてはる。誰かを犠牲にせなんだら、成功は収められへん人やって……」
 ぎくりとした。
 誰かを犠牲にして成功を収めたというならば、真っ先に思い浮かぶのは貴美子(きみこ)だ。
 久しく忘れていたが、最後に会ったのは拘置所で、たった一度きり。しかも、出所後の生活基盤を整えると言い残し、その後一切の音信を絶ってしまったのだ。
 どこで買っているか分からない恨みなら、思い当たる節は数多(あまた)ある。だが、誰よりも深い恨みを抱いているのは貴美子をおいて他にない。
「本当に、そうおっしゃったんですか?」
 清彦は、低い声で念を押した。
「ええ、そう言わはりました」
 表情の変化を見て取ったのだろう。クメは清彦の視線を捉え、こくりと頷く。「それでな、心配になって訊(き)きましてん。災難に遭わんようにする方法はないのでしょうかって……」
「そうしたら?」
「改名するのがええ言わはんねん」
「名前を変えろと?」
 拍子抜けとはまさにこのことだ。
 ところがクメは真剣そのものだ。
「婿に入って井出(いで)から森沢姓になりましたやろ。ここで運が大きく変わった言わはりましてな。事業運は大きく開けたけども、その分災難に遭うたら大事になる。それは事業にもいえることで、順調な時は日の出の勢いやけど、一旦何か起これば真冬の日没のように沈んでまう言わはりますねん」
 クメは、そこで傍に置いていたハンドバッグを引き寄せると、中から一枚の紙を取り出しテーブルの上に置く。
 そこに万年筆で書かれた、複数の名前が記してある。
 馬鹿馬鹿しい……。
 失笑を漏らしそうになった清彦だったが、これも婿の身を案ずればのことには違いない。
 表情を引き締め、清彦は言った。
「お義母さんのお気持ちはありがたいのですが、ヨドはまがりなりにも、日本一のサラ金です。ここに行き着くまでこの名前でやってきたのですから、今さら名前を変えるのはちょっと……」
 やんわりと否定したのだったが、
「そやし今まで名前のことは言わんできたんです。馬鹿馬鹿しいと思わはるやろけど、あんたのことが心配でしょうがないから言うてんのです」
 クメは必死の形相で訴える。
「でもね、改名したからって何が変わるというものでは――」
「何が変わるというもんやないと言わはるのなら、変えてもええやないですか」
 清彦の言葉半ばで、クメは言う。「私かて、いつお父さんのところに行ってもおかしゅうない歳です。櫻子かてこれからなんやし、清彦さんの身に今回以上のことが起きたらと思うと心配でならへんのです」
 クメが案ずる気持ちが分からないではないだけに、清彦はどうこたえたものか、腕組みをして考え込んでしまった。
 そういえば、ごくたまに改名した旨を記した年賀状をもらうことがある。
 何でまたと、その度に鼻白むのだったが、家族に懇願されて渋々応じたケースもままあるのだろう。
「あなたに頼み事などこれまでしたことはあらへんやん。これが最初にして最後のお願いです。後生やから名前を変えてください」
 クメは両手を合わせ、すがるように頭を垂れる。
 たった今、名前を変えたからって何が変わるわけではないと言ったし、その思いに変わりはないが、クメがここまで必死に願いごとを口にするのは確かにはじめてではある。
 それに、今の名前を使い続けると大きな災難に見舞われると言われると、心に漣(さざなみ)が立つのは否定できない。
「分かりました。そこまでおっしゃるのなら、お義母さんの言う通りにしましょう」
 清彦は、はじめてテーブルの上に置かれた紙に目をやった。
 三つの名前が記してあったが、話の成り行きからすると最初のものが最も良いと見立てられたものであろう。
「では、これにしましょう……」
 清彦は、スッと手を伸ばすと最初に書かれた名前に指を置いた。
『繁雄(しげお)』
 それが、清彦の新しい名前になった。 

   2

 昭和四十六年四月半ば。
 鬼頭(きとう)亡き後、池田山の邸宅の主人となった鴨上(かもうえ)を、小早川宗晴(こばやかわむねはる)が訪ねてきた。
「お初にお目にかかります……。本日はお忙しい中――」
 緊張しているのだろう。硬い声で言いながら、頭を垂れる小早川に向かって、
「君のことは知っているよ。挨拶はいいから、そこに掛けたまえ」
 鴨上は鷹揚(おうよう)な口調で椅子を勧めた。
「はっ……」
 小早川はすっかり恐縮した様子で短くこたえ、正面の席に腰を下ろすと背筋を伸ばし、ようやく顔を上げた。
 無理もない。小早川にとっては、これまで何度も面談の要請をしたが、都度断られた挙句、ようやく願いが叶ったのだ。
「で、今日はどんな要件できたのかな?」
「私、衆議院議員を務めて――」
「そんなことは知ってるよ! 要件を話しなさい。要件を!」
 鴨上は話半ばで一喝した。
「将来、自身の派閥となる確固たる基盤を作りたく、先生のお力添えを賜りたく参上いたしました」
 顔を強張(こわば)らせた小早川は、早口でこたえる。
 初対面だが、もちろん小早川のことは事前に調べてある。
 年齢は現在五十三歳。外務大臣、通産大臣を務めた父親の地盤を継いで衆議院当選三回。将来を嘱望(しょくぼう)されている中堅代議士だ。
「ほう、派閥を? 何でまた。君はお父さんが所属していた大河(おおかわ)派にいるんだろう? あと三回も当選を重ねれば大臣になれるだろうに、派閥を出るというのかね」
 意外な申し出に、理由を訊(たず)ねた鴨上に、
「捨てきれぬ野心がありまして……」
 落ち着きを取り戻してきたらしく、小早川は低いながらも明確にこたえる。
「野心とは?」
「党の総裁、内閣総理大臣の座に就くことです」
 政治家の野心といえば、それしかないのだが、海千山千、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するのが政治の世界なら、一つしかない総理総裁の座を、ほぼ全議員が狙って蠢(うごめ)いているのだ。
「大河派は与党の最大派閥じゃないか。わざわざ波風立てて、割って出るのは得策ではないと思うが?」
「父のように外務、通産大臣止まりで政治生命を終えたくはないのです」「なるほど」
 小早川は祖父が衆議院議員になって以来の三代目だ。初代は政務次官止まりだったが、父親の喜三郎(きさぶろう)は、外務大臣、通産大臣を歴任し党の重鎮の地位を手にしたものの、二度の総裁選に敗れ、ついぞ総理の座を手にすることはできずに終わったのだった。
 もちろん運もあるのだが、最大の理由は党内政治に敗れたことにある。
 権力とは、とどのつまり金の力だ。政治家であり続けるためには、まずは選挙に勝たねばならぬ。勝つためには資金がいる。当選しても私設秘書等の人件費は自前だし、とにかく金がいるのだ。結果、豊富な資金を持つ政治家の下に議員が群がり数の力。つまり票となるのである。
「しかし、君はまだ五十三歳だろう? いずれとはいえ、君についてくる議員がいるのかね? 序列に厳しいのは与党に限ったことじゃないが、当選三回の中堅議員が不穏な動きを見せれば、御重鎮たちの怒りを買うんじゃないのかね?」
「いきなり派閥の長に就こうと思ってはおりません。いずれ禅譲していただけることを確約していただいたからこそ、お願いに上がったのです」
「ということは、誰か党の重鎮が派閥内の勢力図を変えようと目論んでいるのか?」
「菱倉(ひしくら)先生です」
 意外にも小早川は、素直に打ち明ける。
 菱倉といえば大河派ナンバースリーの有力者だが、支持基盤がいまひとつなのは否めない。それもこれも、資金力がトップツーに比べて弱いことに因があるのだが、政治力学は端で考えるほど単純なものではない。そもそも、議員は皆ライバルなのだ。同じ派閥に身を置けばなおさらなのだから、菱倉が彼らに勝る支持基盤を確保するのは容易なことではない。
「資金さえ確保できれば、菱倉君が大河派のトップに就けるというのかね?」
「はい……」
 小早川の声には確信が籠っている。
「その根拠は?」
「先生もご存知かと思いますが、大河派には六つのグループがございます。大河先生、興梠(こうろぎ)先生のグループが併せて過半数近く。菱倉先生が約二割、その他三つのグループが残る三割近くで構成されているわけです」
「それで?」
「大河先生は次回の選挙で引退し、後継にご子息を据えることになりそうなのです」
「大河さんも七十二歳。確かに引退してもいい歳だな」
「さて、そうなると大河先生のグループが、誰につくかです」
 語り口調に熱を帯びてくる。
 小早川は続ける。
「ご子息が、いきなりグループを率いることはあり得ません。ご長男は四十五歳ですから、これから議員になっても、大臣すらも難しい。となると、年齢からして後継者になるのは、三十九歳の三男でしょう。四年前に私設秘書として事務所に入れたのは、間違いなく後継者と目したからです」
「なるほど?」
 鴨上は相槌(あいづち)を打つと、目で先を促した。
「興梠先生は三男を将来の首相候補に育てることと引き換えに、グループを禅譲してもらうことを大河先生に持ちかけたというのです」
「だったら、菱倉君も――」
「菱倉先生は野心を隠すことができない性質(たち)です」
 鴨上の言葉を遮って小早川は言う。「その点、興梠先生は大河先生の意向、指示には唯々諾々と従ってきた忠実な僕(しもべ)です」
「逆に言えば、何を考えているか分からない。実に厄介、かつ危険な存在じゃないか」
「先生、大河先生の最大の強みは、強固かつ豊富な資金源にあるんですよ」
 小早川は言う。「大河家は製鉄会社、建材会社等々、一大企業グループの創業家にして、先生の兄弟はグループ企業各社の経営者です。長男、次男もグループ会社の役員に就任しておりますし、奥様のご実家は帝国建設の創業家です」
 小早川の言う通りだ。
 しかも大河家が経営する会社は、戦後復興に伴う建設需要、道路整備や高速自動車道の整備の特需続きで、莫大な利益を上げ続けてきたのだ。
 政権与党の最大派閥を形成し、維持し続けられた最大の理由はそこにある。
「盤石な財政基盤は、三男に引き継がれる。興梠も下手な真似(まね)はできないというわけか……」
 鴨上は腕組みをしながら呟(つぶや)いた。
 ここには多くの政財界人が訪ねてくる。大河もまた例外ではないのだが、こと金に関しての相談を受けたことはない。特に鬼頭が死した後は年下の、しかも秘書上がりの鴨上を軽く見ているのか、とんと姿を見せなくなっていた。
 大河に一泡吹かせるのも悪くはないか……。
 そう思いかけた鴨上だったが、ふと気になって、小早川に問うた。
「しかし金の算段なら、菱倉君が相談にくるべきではないのかね? どうして君が?」
「次回の衆議院選で、菱倉派を党内最大派閥にするためです」
 小早川は即座に返してきた。「政治家が最も資金を必要とするのは選挙です。金はいくらあっても足りはしません。平時にどれほど自派閥に合流する議員を集めても、選挙で落選すればただの人になってしまいますので……」
「つまり、大河派に勝る選挙資金の確保ができれば、勢力図を書き換えることができると考えているわけか」
「はい……」
「ならばなおさら、菱倉君がくるべきではないのかな?」
「実は私、菱倉派の選対委員に任命されておりまして……」
「選対委員?」
 鴨上は訊ね返した。
 選対委員とは選挙対策委員長をトップとして、選挙の際に党内に設けられるチームのことだ。候補者選びから始まって、資金の調達、各候補者への配分、支援体制の整備等々、選挙に関する一切を仕切る役目だが、派閥はおろかグールプ内の中にそんな組織が設けられたのは聞いたことがない。
「私共は党を割るつもりは毛頭ございません。選挙前に十分な資金を準備し、菱倉派に合流する同志を確保した上で選挙に挑む……。もちろん全員の再選はあり得ませんので、有力な新人議員を擁立し、党の議席数は、最悪でも現状維持を目指すことを考えているのです」
「では訊くが、委員というのなら委員長がいるはずだ」
「おります」
 小早川はすかさず返す。
「だったら、なぜそいつが来ない」
 本当はお前のような若造がなぜここを訪ねてくるのか。身の程をわきまえろと一喝して打ち切りたいところだ。
 鬼頭が健在だった頃は、小早川のような中堅議員が面会を請うても門前払い。それ以前に申し入れることすら憚(はばか)られる雰囲気があっただけに、鴨上は自分が軽んじられているようで不愉快で仕方がなかった。
 そんな鴨上の内心を察したものか、
「私のような一介の議員が、先生のお力を乞いに上がるのは、無礼にすぎるのは百も承知でございます」
 小早川は真剣な顔になって言う。「実は、私にはもう一つ野心がございまして……」
「もう一つの野心?」
「菱倉先生からは、いずれ派閥を禅譲すると確約されたと申し上げましたが、問題はその時がいつになるかです」
 鴨上は黙って話を聞くことにした。
 小早川は続ける。
「党内には大臣就任は当選六回という慣例がございます。もちろん衆議院は常在戦場、解散がいつあるか分かりません。しかし、私の場合初の大臣就任は最長十二年先になってしまう可能性もあり得るわけです」
 小早川の言う通りである。
 大臣は権力を持つが、実際に国を動かしているのは官僚だ。大臣は彼らが提出してくる書類に判子を押す。要は決裁権と、政策や法案を議会に提出するだけの存在に過ぎないと言っても過言ではない。結果、大臣は名誉職的な意味合いが強くなり、長く務めた議員が就く。それが当選六回という慣例を生んだのだ。
「十二年ですよ」
 小早川は言う。「六十五歳で初の大臣就任では、あまりに遅過ぎます。慣例を打ち破る方法はただ一つ、誰にも勝る功績を上げることしかないのです」
「選挙資金を確保して、最大派閥の誕生に大きく貢献することが功績になるというわけか」
「はい……」
「しかし君は三代目じゃないか。親父さんは外務大臣、通産大臣を歴任した党の重鎮だ。世話になった現役議員だってまだまだたくさんいるだろう」
「確かに、その点は有利ではありますが、頂点を目指すからには早いに越したことはありません。それに……」
「それに、なんだ?」
「然(しか)るべきタイミングで、息子に代を継がせたいのです」
 ここでどうして、いきなり世襲の話になるのか理解できない。
 思わず小首を傾げた鴨上に、
「私には、二十一歳になる息子がいるのですが……」
 小早川は言う。「現在東京大学の法学部に在学中で、卒業後は官僚にして、然るべきタイミングで私設秘書に迎え入れようと考えておりまして」
「君の野心が息子とどう関係するのかね?」
「今、頂点を目指すからにはと申し上げましたが、正直言って総理総裁になるのは容易なことではありません。菱倉派が最大派閥になったとしても、数の奪い合いが収まるわけではありませんのでね」
「確かに……」
「加えて時勢、時の運という不確定要素もございます。各派閥とも後援会、企業、宗教団体をはじめ、多くの献金先を持っておりますが、支援するのも何かしらのメリットがあればこそ。役に立たないと見限られればそれまでです」
 これもまた小早川の言は絶対的に正しい。
 政治家と支援者の関係は、常にギブアンドテイク。個人、団体にどれほど役に立つ働きをするかが、支持を集める決め手になる。
 そう聞けば小早川の狙いが見えてくる。
「要は、菱倉派を最大派閥にするためとはいうものの、本当の狙いは君の、ひいては息子へと続く、確固たる資金源を確保するのが狙いなんだな」
 図星を刺されたとばかりに、小早川はギョッとした様子で目を丸くして息を呑(の)む。
 しかし、それも一瞬のことで、
「私が政治家として働くのは、この先せいぜい十五年が限度と考えております」
 小早川は、キッパリと断言した。「道を切り開いてくれた父親には感謝しておりますが、正直なところ身を引くのが遅過ぎました。ですから息子には、同じ思いをさせたくはない。政治家となる限りは、頂点を目指してもらいたいのです」
 もっともな言に聞こえるが、あまりにも綺麗事(きれいごと)にすぎる。
 人の欲に限りがないのは、日頃ここを訪ねてくる人間たちの相談内容からも明らかだ。
「息子のためにねえ」
 鴨上は失笑を浮かべ、「自分の野望を息子に託そうというのかね? 十五年を目処(めど)に引退すると言ったが、何が起こるか分からんのが政治の世界だ。君が資金集めに成功して、目論見通り菱倉派が与党最大派閥になれば、功に報いるのは領袖の義務だし、周りからも一目置かれる存在になるだろう。君自身の野望を叶える時も、ずっと早くに訪れるんじゃないのかね?」
 矢継ぎ早に質問を重ねた。
「もちろん、そうなるのに越したことはございません」
 どうやら、まだ話は半ばのようだ。
 果たして小早川は続ける。
「今、先生がおっしゃったように、何が起こるか分からないのが政治の世界です。しかも派閥の領袖はもれなく総理総裁の座を狙っているのですから、今回菱倉派が最大派閥になったとしても、その座をいつまで維持できるかは誰にも分かりません」
「派閥の領袖は高齢者ばかりだしな。死ぬとまでは行かなくとも、重篤な病に罹(かか)れば派閥内で主導権争いが勃発するのが常だ。分裂して党内派閥の力学が崩れてしまうことだってあるからね」
「ですから先生にご相談に上がったのです」
 小早川は、いよいよ本題に入る。「私が欲しているのは菱倉派の資金源であると同時に、私個人の政治活動を支えてくれる確固たる資金源なのです」
 なるほど、それが狙いか……。
 菱倉はまがりなりにも、与党内最大派閥のナンバースリーの人物だ。有力政治家として名前も通っているし、それなりの権力者でもある。彼への支援を訴えれば、確かに金は集めやすい。その機に乗じて小早川は自分の政治資金源も確立しようと目論んでいるわけだ。
「なるほどね……」
 頷いた鴨上だったが、それでも疑問は残る。「十分な資金を確保できれば、君の出世も早くなる。菱倉政権が誕生し長く続けば、組閣の度に重職に任命される可能性も格段に高まる。そこで派閥を禅譲されれば、総理総裁の目も出てくるだろうに、なぜ十五年と在職期間を区切るのだ?」
「総理総裁に上り詰められればそれもよし。院政を敷くもよし、と考えまして……」
 小早川の瞳に不穏な光が宿る。
「院政?」
「十五年後、息子は三十六歳。地盤を引き継ぐことになりますから、間違いなく当選するでしょう。同時に私が手にしていた資金源もそのまま引き継ぐわけですから――」
「その時、君の後に派閥の領袖になった人間も、息子には一目置かざるを得ない。君の派閥が最大派閥の座を明け渡していたとしても、その資金源を手土産に、時の有力派閥に鞍替えすることも可能なら、背後に控える君の意向も無視できないというわけか」
 先回りした鴨上に、
「その通りです……」
 小早川は不敵な笑みを口元に宿すと続けて言う。
「私はキングメーカーになりたいのです」
「キングメーカー?」
「先生のような存在になりたいのです」
 小早川は言う。「総理が絶大な権力を持っているのは確かですが、衆議院議員ならば誰しもが夢見るポストです。競争も激烈を極めれば、どれほどの期間留(とど)まれるかはそれこそ時の運次第。もちろん、退任後も派閥の領袖として、あるいは党の重鎮として影響力を行使することはできますが、何をやるにしても思うがままにとはいきませんのでね」
 小早川の言は理解できなくもない。
 総理の座を退いても、現職として議員を続ける者がほとんどだ。しかし総理在任中に比べれば、権力も影響力も格段に落ちてしまうのが常である。その最大の要因は、党人である以上、党や派閥の柵(しがらみ)が付き纏(まと)い、バランスを取ることを強いられるからだ。それに議員として表舞台に立っている間は、常に衆人に環視される。中でも、総理経験者ともなれば、在任中ほどではないにせよ、マスコミの注目度もそれなりにある。
 つまり、手にした権力を思うがままに発揮しようと思えば、陰の存在に徹するに越したことはないのだ。
 早い話が『名を取るか、実を取るか』の違いなのだが、頭では分かっていても、名誉、名声がかかることだけに割り切れる人間はそういるものではない。
 その点からも、小早川はかなり異質の人間のようだ。
「なるほど、君の狙いは今の話でよく分かった……」
 それ以上の説明を求めないところから、意図が伝わったことを察したのだろう、
「恐れ入ります……」
 小早川は頭を下げながらも、反応を窺(うかが)うように上目遣いで鴨上を見る。
「しかしね、政界を裏で動かせるだけの資金源を確保するのは容易ではないよ。今のところ献金額に上限はないが、金権政治を問題視する世論は高まる一方だ。今のままの状態が十五年先まで続くとは考えられんからね」
「私も、そう考えております」
 だから、相談にきたのだと言わんばかりに小早川はこたえる。
「それに、ポンと大金を用立てる献金先は、そうあるものではない。金は出す、口は出さんなんて人間、組織はいやしないからね。献金するのは、会社や個人の請願を叶えてくれると思えばこそ。額が大きくなればなるほど、求める見返りも大きくなるものだ。発覚すれば賄賂と捉えられる危険性だってある。かといって、少額の献金先を多く集めても、手間もかかるし、離れていく先も出てくるものだ。それでは確固たる資金基盤とは言えんよな」
「おっしゃる通りでございます」
「一番いいのは大河君のように、実家や身内が莫大な資産を持ち、かつ優良企業を抱えていることだが、確か君は――」
「実家は江戸の時代から代々続く庄屋ですが、何分、田舎のことでして……。田畑、山はございますが、大河先生の足元にも……」
「奥さんの実家は?」
「義父は外交官をしておりましたので、財力はそれほど……」
 さしずめ父親が外務大臣を務めていた頃の伝手(つて)で、結婚相手を決めたといったところか。
 外交官は官僚の中でも語学力と品格は頭抜けて高いが、所詮公務員だ。一般庶民に比べれば財力があるのは確かだとしても、とても小早川の野心を叶えるほどではない。
「閨閥(けいばつ)もなしか……」
 そう呟いた鴨上に小早川は、すがるような視線を向けてくる。
 大きな野心を抱いているくせに、自分にはそれを叶える術(すべ)がない。だからなんとかならないかと、相談してくるとは、虫がいいにも程がある。
 本来ならば、ここで面談を打ち切るところだが、まだ雑巾掛けを脱した程度の代議士が、ここを訪ねてきたのははじめてだ。まさに身の程知らずとしか言えないのだが、その度胸の良さに鴨上は興味を覚えた。
「ならば、資金源となる家と縁を結べばいいじゃないか」
 鴨上はふと思いつくままを口にした。
「縁を結ぶとおっしゃいますと?」
「息子は東大法学部の三年生といったな」
「はい……」
「こんな相談を持ちかけてきたのは君がはじめてだが、世間には、金は余りあるほどあって、あとは名誉と権力だ。政治家を輩出するのが悲願だという輩(やから)が結構いるそうでね」
「では、そうした家から嫁をもらえと?」
「お父さんは外務、通産大臣を歴任した与党の重鎮だ。君の考えを聞けば、興味を示す先は、少なからずあるだろうね」
「先生に心当たりは?」
 小早川は上体を乗り出してきた。
 願いを叶えてやるのは難しいことではない。
 すぐには思い当たらないものの、その気になれば二つや三つ、条件を満たす先はすぐに見つかるだろう。
 しかし、それも小早川の政治家としての力量や将来性を吟味した上でのことだ。
 盤石な資金基盤を確保できれば、党内の勢力争いで優位に立てるのは事実だとしても、問題は使い方である。『馬鹿と鋏(はさみ)は使いよう』という言葉があるように、優れた人材を抱えていても使い方を誤れば宝の持ち腐れになってしまう。それは、金にも言えることなのだ。
「まあ、そう焦るな。第一、君の息子はまだ二十一歳なのだろう?」
 鴨上は、前のめりになった小早川を諌(いさ)めると、「それに、大金持ちと縁を結べるのなら誰でもいいというわけにはいかんだろ? 金持ちといってもさまざまだからねえ」
 懐から取り出したタバコに火を灯(とも)し、ふうっと煙を吐き出しながら続けた。
「大河さんのような家の婚姻とは、閨閥をより強大、かつ強固なものにするためのものだ。正直言って、私が動いたところで、君と縁を結ぶことを望む家はまずないだろうね」
 酷な言葉だが、それが現実というものだ。
 小早川も、反論しようがないと見えて、
「はっ……」
 と短く漏らし、口を噤(つぐ)む。
「それに、次回の衆院選までに確固たる資金源を確保したいというんだろ。二十一歳で結婚させるわけにはいかんだろうし、今の時代に許嫁(いいなずけ)もないだろう」
「おっしゃる通りです……」
「となると、現時点で優先すべきは大口の献金先を見つけることになるよな」
 鴨上は、そこでタバコを吹かすと、「君は野心を遂げるためなら、リスクを冒す覚悟はあるかね?」
 いささか唐突な質問を投げかけた。
「リスク……と申しますと?」
「借りを作る覚悟はあるかと訊いているんだ」
 小早川の瞳が左右に動く。
 動揺しているのだ。
「政治信条に共感して、金を出す献金先などありはしない。出すからには額に見合う見返りを必ず求めてくるものだ。つまり、献金の本質は借金なんだよ」
「おっしゃる通りでございます……」
 先ほどまでの野心剥(む)き出しの勢いは吹き飛び、小早川は悄然(しょうぜん)として肩を落とす。
「ならば、いっそ借金したらどうだ?」
「借金……ですか?」
 小早川は驚愕のあまりか、目を丸くして顔を上げる。
「政治家の借金は、世間のそれと意味合いが違う。借りた相手が満足するような働きをすれば、ある時払いの催促なし。それどころか、棒引きだってあり得る。将来を期待してもらえれば、同じことになるだろう」
 思案するように天井を仰ぐ小早川に、鴨上は続けた。
「菱倉君のグループを、大河派のナンバーワンの勢力にできるだけの資金を確保すれば、いずれ禅譲すると確約されているんだろ? 閣僚入り、大臣就任も異例の速さで成し遂げることができるんじゃないのかね? そうなれば、まさに前途洋々、将来の総理総裁の有力候補ってことになるだろうさ。それで、借金を返せなんて催促する人間がいるかね」
 それでも小早川は、すぐに返事をしなかった。
 頭の中で考えを反芻(はんすう)するように、視線を落とし机の一点を見つめるだけだ。
「君にその覚悟があるのなら、金を出してくれる先に当てがないわけではないが、どうする?」
 鴨上が決断を迫ると、一転小早川は決意の籠った視線を向けてきた。
「ぜひ、ご紹介いただきたいと思います」 

次回に続く) 

プロフィール
楡 周平(にれ・しゅうへい)
1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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