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雌鶏 第六章 3/楡 周平

【前回】

     5

 電話から三週間後。小早川(こばやかわ)が森沢(もりさわ)を伴って貴美子(きみこ)の元を訪ねてきた。
「失礼致します……」
 小早川の押し殺した声が聞こえ、襖(ふすま)が引き開けられた。
「先生、ご無理をお聞き届けいただき恐縮でございます」
 小早川は丁重に頭を下げ、部屋に入ると振り返り、「本日は息子の縁談について相談したく、先方のお父様を同行させていただきました。こちらは、ヨドの森沢社長です」
 背後に立つ繁雄(しげお)を紹介する。
 一目見た瞬間、貴美子はぎくりとした。
 暴漢に硫酸を浴びせられたとは聞いていたが、ケロイド状になった痕跡は顔面から頭部にまで及んでいるらしく、鬘(かつら)を着用している。艶があり豊かな頭髪と赤黒く引きつれた皮膚とのコントラストが実に不気味なのだ。目にもダメージを受けたのか、室内の明かりは障子越しに差し込む透過光だけなのに、濃いサングラスを外す様子はない。
 異様な容貌もさることながら、それよりも貴美子の目を引きつけたのは、繁雄の面差しに見覚えがあるような気がしてならなかったからだ。
 人が醸し出す雰囲気や容貌は、時々の生活環境、経済状況、地位、立場とさまざまな要因で大きく変わる。それに既に中年も後半の域に差し掛かっていることもあって、顔の肉づきには弛(ゆる)みが見られるし、体型もやや肥満気味のようではある。だが身長はほぼ同じだし、何よりも醸し出す雰囲気のどこかに清彦(きよひこ)と似ている部分があるような気がしてならないのだ。
 だとすれば、貴美子を目前にして、彼も同じ思いを抱いても不思議ではないし、その時感情の揺らぎが必ずや表情に現れるはずなのだが、そんな兆候は一切窺(うかが)えない。
 考えてみれば、それも無理はないのかもしれない。
 自分の容貌も当時とは様変わりしてしまっているのは間違いないからだ。
 神秘性を演出するために髪をアップにし、化粧も入念に施している。薄いサングラスをかけてもいれば、京都は和服の本場である。生地も縫製も名工の手によるものばかりで、この仕事を始めてからは金の苦労とは一切無縁の日々を送ってきたのだ。
 清彦と暮らしていた当時は化粧などしたことはなかったし、何しろ戦後の混乱が色濃く残っていた時代である。今にして思えばボロ同然の服しか着れなかったし、髪にしたって櫛(くし)で整えるのが精一杯。日々口にする食事の内容も、生活環境も雲泥の差だ。
 薄紫色のサングラスの下から、無言のまま凝視する貴美子に、
「お初にお目にかかります。消費者金融のヨドを経営しております、森沢繁雄と申します」
 繁雄は丁重な口調で名乗りながら深く頭を下げると、名刺を机の上に差し出した。
 瞬間、貴美子は凍りついた。
 年を重ねるにつれ、変貌するのは容貌ばかりではない。声だって相応に変わる。
 しかし、今耳にした繁雄の声には確かに聞き覚えがあった。
 そう、終戦の翌年から四年に亘(わた)って一緒に暮らした男、将来を誓いあった男、清彦である。
 最後に会った拘置所で、清彦は「遠く離れた土地で再出発を図ろう」と言い残したが、繁雄が発する言葉のアクセントには関西訛(なま)りがあるのも気になる。
 名刺を見ると、ヨドの本社所在地は東京だが、繁雄はヨドを一代で日本一の消費者金融会社に成長させたと聞いた。会社の成長は人間と同じで、いきなり日本一の会社になるわけではない。もれなく最初の一歩があり、それは小さな一歩から始まるのだ。そして、会社の規模が大きくなるにつれ政治・経済はもちろん、あらゆる分野の中心地、東京への進出を試みる。
 なぜなら、東京を制すれば、それすなわち日本を制すること。つまり天下を取ることになるからだ。
 それに清彦は「資本家」を目指すと言っていた。
 もし、清彦があの言葉通りの道を歩み、大阪でその第一歩を刻んだのならば、彼(か)の地で長い年月を費やすことになったはずだ。関西弁も自然と身についたであろうし、娘がいるのだから彼の地の女性を妻に娶(めと)ったのかもしれない。関西訛りは容易に消えるものではないし、そもそも東京に出てきても、関西人はお国言葉を使い続ける傾向がある。だとすれば、家庭内での会話も関西弁になるはずで、自然と身についたとしても不思議ではない。
 しかし、巷間(こうかん)「他人の空似」と言うように、酷似した人間がいるのもまた事実ではある。
 そこで貴美子は、まず繁雄が清彦なのかを探ることにした。
「ヨドの会社名は私も存じ上げておりますけど、森沢社長は、私の生業(なりわい)を承知の上で訪ねてこられたのですね」
「はい。もちろんです……」
 繁雄はこくりと頷(うなず)いた。
「日本一の消費者金融会社の社長が易を信じますの? ほら、世間でよく申しますでしょう? 『当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦』って……」
「いや、先生の見立ての確かさは、神がかりとしか言いようがないと小早川先生から聞かされておりますので……。そのようなお力をお持ちの先生に、本来ならば鴨上(かもうえ)先生を通さなければ見立てていただけないところ、特別に易を立てていただけるとのことでしたので、東京から馳(は)せ参じた次第です」
 貴美子の声を聞いても繁雄に気づく気配がないのは、やはり外見が当時とはあまりにも違うせいだろう。それに殺人の罪に問われ投獄された貴美子が、京都で有数の高級住宅地に立派な居を構え、高額な衣裳(いしょう)を身に纏(まと)い、政財界の重鎮たちが崇(あが)め奉る存在になっているとは夢にも思うまい。
「そうですか……。では、早々に見立ててみましょうか」
 貴美子は机の引き出しを開け、中にしまってある筮竹(ぜいちく)と算木を取り出した。
 いずれもここで卦を立てるようになって以来使い続けているもので、表面は黒光りしている。一纏めにした筮竹を筮筒に突き立てた貴美子は、紙を一枚机の上に広げると、
「ご縁談についてでしたわね」
 改めて見立ての内容を確認した。
「はい。私の娘と小早川先生のご子息の結婚を見ていただきたいのです」
「では、社長のお嬢様と先生のご子息の氏名、生年月日を教えてください」
 貴美子が促すと、繁雄に続いて小早川が、二人の生年月日をこたえる。
 櫻子(さくらこ)のことはどうでもいい。最大の関心は小早川の息子の生年月日にある。
 喉まで出かかっていながら、これまで一貫してその二つを訊(たず)ねなかったのは、小早川との一連の会話の中で切り出すきっかけがなかったからだ。と言うのも氏名と生年月日は占いを行う上で必須の項目だが、そうでなければ知る必要はないからだ。
 もっとも、小早川が正直に息子の生年月日を伝えてくるとは限らない。
 戸籍を改竄(かいざん)するにあたって、貴美子が勝彦(かつひこ)を産んだその日をそのまま用いずに、生年月日を変えた可能性もあるからだ。
 小早川の口から、息子の名前は誠一(せいいち)、そして生年月日を告げられた瞬間、貴美子が抱いていた確信は完全に裏付けられた。
 何と小早川は、まさに勝彦が生まれたその日を告げてきたのである。
 なるほど、戸籍を改竄できるほどの力が働いたのだ。生年月日をそのまま用いたとしても、何ら不都合は生じないと考えたのだろう。
 となると、残るは繁雄が本当に清彦なのかだが、裏を取るのは造作もない。
 もし、そうだとしたら……。
 貴美子は、これまでついぞ感じたことがないほどの得体の知れない何かが、胸の中で冷たい熱を発しながら瞬く間に膨張して行く感覚を抱いた。
「分かりました……。では見てみましょう……」
 手に取った筮竹を顔の前に翳(かざ)し、しばし瞑目(めいもく)する。
 ザラザラと入念に捏(こ)ね、目を開き、数本の筮竹を机の上に置く。算木を並べ替え、数回同じ所作を繰り返すと、貴美子は整え終えた算木を凝視した。
 正面の席に並んで座る二人が、息を呑(の)んでお告げを待つ気配が伝わってくる。
「不思議な卦だわ……」
 貴美子は呟(つぶや)くように言い、首を傾(かし)げて見せた。
 小早川は縁談を破談に持ち込みたくて、繁雄をここにつれてきたのだ。
 結果は先刻承知だから演技だろうが、繁雄は違う。
 緊張しているのか、あるいは不穏な卦が出ているとでも思ったのだろう。
 生唾を飲み込む気配が伝わってきた。
「縁談が整うまでは順調に行きますけど、結婚生活を続けるうちに、とても大きな難題、それも身内か、あるいは血縁者がもたらす難題に直面することになりますね」
「身内か血縁者……ですか? それはどんな?」
 小早川はそう訊ねながら、反応を窺うように繁雄に視線を向ける。
「さすがにそこまでは分かりませんけど、そうですね……、これ世間でよく言われる『親の因果が子に報い』って卦なんです。過去に誰かから酷(ひど)い恨みを買うような不義理を働いたことはありませんか? 失礼ですが、お子様は他にいらっしゃいませんよね? たとえば前妻との間にお子様がいらっしゃるとか?」
 瞬時にして繁雄の様子に変化が起きた。
 表情が強張(こわば)り、血の気が引き、顔色が蒼白になる。
「いや、私は他に子供はおりませんが?」
 小早川には想像もつかない展開であったのだろう。
 貴美子に向かって断固とした口調で言うと、再び繁雄に目を向ける。
 ところが繁雄はこたえない。
 残念なことに、サングラスに隠れて分からないが。目には驚愕(きょうがく)の色が浮かんでいるはずだ。
「森沢社長は?」
 貴美子は自然な口調で訊ねた。
 答えに窮しているのか、あるいは図星をつかれて動揺しているのか、繁雄はみじろぎひとつせず椅子の上で固まってしまっている。
 貴美子は質問を変えることにした。
「今、不思議と言いましたけど、長いこと易を立てていて、こんな卦が出たのは初めてなんです。もう一度お訊(き)きしますけど、ご子息、お嬢様の生年月日、名前に間違いはありませんよね」
「間違いありません」
 小早川が明確にこたえる一方で、繁雄は無言のまま小さく頷くだけである。
 口を割らないのなら、割らせるまでだ……。
 貴美子は胸中でほくそ笑みながら話を続けた。
「よく、過去に道を外れた行為を働いた人間が災難に遭うと、『因果応報』と言われますけど、長年こうした仕事をしていると、神様は確かに存在すると感じることが多々ありましてね。易とは実に不思議なもので、この五十本の筮竹を捌(さば)いた結果で人の未来が分かってしまうんです。そして、私の最大の役目と言えば、災いを事前に防ぐこと。ですから、私の質問には正確、かつ正直に答えていただかないとならないのです」
 貴美子は二人の顔を交互に見ながら、諭すように話すと、
「お二人のお子様方の氏名、生年月日に間違いがないとおっしゃるのでしたら、なぜこんな卦が出たのか。その因がどこにあるのか卦を立ててみましょうか」
 そう前置きすると話を続けた。
「小早川先生は、何度かお見立てしておりますので、森沢社長を見てみましょうか」
 繁雄の承諾を確認することなく、貴美子はペンを取った。「社長の先年月日を教えていただけますか?」
 繁雄がようやく口を開き、低い声で生年月日をこたえる。
 やはり、忘れもしない清彦のそれとぴたりと一致する。
 間違いない……。清彦だ!
 胸中を満たす塊がますます大きくなり、さらに冷たい熱を放ち始める。
 そんな内心をおくびにも出さず、生年月日を紙に記載するや返す手で筮竹を取った。
 ザラザラと入念に掻(か)き混ぜ、指先に触れるそれを捌き、算木を並べる。
 一連の所作が終わったところで、貴美子は首を傾げて、
「ん?」
 と小さく漏らして見せた。
 海千山千、金の亡者が鎬(しのぎ)を削るサラ金業界で、日本一の座にまでのし上った繁雄も、さすがに不安を覚えたらしい。
「先生……なにか?……」
 低い声で問うてきた。
 貴美子は算木を凝視し、短い間を置くと、
「過去に今の成功を手にするきっかけとなった、大きな転機があったようですね。それこそ別人に生まれ変わるような転機が」
 刹那、繁雄はギョッとしたように、微(かす)かに上体を仰(の)け反らせる。
 両眉が吊(つ)り上がったところを見ると、サングラスに隠れた両目は見開かれているのだろう。口を半開きにして息を呑む気配がある。
 果たして繁雄は言う。
「お……おっしゃる通りです……」
 そして、観念したかのように、自ら進んで口を開いた。
「実は私、森沢家に婿養子に入りまして、姓が変わっているのです。一代でヨドを日本一の消費者金融に育て上げたのは事実ではありますけど、正確に言えば義父がやっていた淀(よど)興業という街金を、婿に入った私が今の規模に育て上げたのです」
「そうでしたか。それでも一代で日本一の消費者金融にまで成長させるとは、見事な経営手腕ですわ。まさに立志伝中の人と称するに相応しいお方ですわね」
 貴美子は繁雄の功績を讃(たた)え、微笑んで見せたのだが、口元がぎこちなくなるように感じたのは気のせいではない。獲物をどう屠(ほふ)るか。復讐の時を迎えたことを確信した表れである。
「しかし、驚きました。そんなことまで分かってしまうとは……」
 かかった……。完全に術中に嵌(はま)った……。
 占いは、ある意味宗教に酷似している。
 この成功が、この苦境がいつまで続くのか。己の将来にどんな運命が待ち受けているのか、人間誰しもが不安を抱く。神仏に祈り、祖先を崇めるのは、とどのつまり現世の利益を欲する気持ちの表れでしかない。そして万人が抱くそうした感情の下に成り立つのが宗教である。
「墓を粗末にするな」「先祖を大切にしろ」「蔑(ないがし)ろにしているからバチが当たったんだ」とはよく聞く言葉だが、考えてみれば実におかしな理屈なのだ。
 なぜなら、仮に霊魂が存在するとしても、死してなお子孫繁栄を願いこそすれ、蔑ろにされたからといって災いを齎(もたら)すような先祖がいるはずがないからだ。
 易だってそうだ。
 巷間「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われるように、易ごときで将来が分かってしまうなら苦労はしない。貴美子の易がことごとく的中するのは、日本の政財界に隠然と君臨する鴨上の意向を代弁しているからに過ぎないのだ。
「社長の旧姓はなんとおっしゃるのですか?」
「井出(いで)です。井出清彦と言います」
 すっかり貴美子の能力を信じきったと見えて、繁雄は旧姓のみならず名まで告げてきた。 

   6 

「清彦? お名前も変えられたのですか?」
 貴美子は意外なふりを装って訊ね返した。
「実は……」
 清彦は、それから改名するきっかけとなった襲撃事件の概要を話し、「名前を変えろと言い出したのは義母なのです……。彼女が信奉する占い師が、このままではさらに大きな災難に見舞われる。改名して運気を変えないと大変なことになると言われたと懇願しまして……。正直言って、それで運気が変わるとは思えませんでしたし、自分の力で会社をここまでの規模に成長させたのだという自負の念も抱いておりました。でも、暴漢に襲われた直後でしたので、さすがに断るわけにも……」
 清彦から改名した経緯を話し終えると、椅子の上で姿勢を正し、感じ入った様子で続ける。
「先生の能力については小早川先生からお聞きしておりましたが、ここまで凄(すご)いとは想像もつきませんでした。まさか婚外子がいるかもしれないことまで見通されるとは……」
「では、社長には婚外子が?」
 もう言い繕うことはできないと覚悟したのだろう。清彦は、「はい……」と小声でこたえ、力無く頷く。
「大阪に出てくる前に内縁の妻がおりまして……。妊娠していたかどうかは分かりませんが、可能性はあると思います。別れる直前まで関係はありましたので……」
「捨てたのではなく、別れたのですか? 相手も同意の上で?」
 嘘(うそ)も大概にしろ! と罵声を浴びせかけたくなるのを必死の思いで堪(こら)え、貴美子は問うた。声が冷え冷えとしたものになったのは気のせいではない。そこまで完全に感情を制御できなかったのだ。
「いろいろと、止(や)むなき事情がありまして……」
 今度は止むなき事情ときた。
 ならばその事情とやらを聞かせてもらいたいものだが、敢(あ)えてそこには触れず、
「可能性はあるとおっしゃいましたけど、今に至るまで確かめようとはしなかったのですね?」
 貴美子は質問を発した。
 さすがに小早川が同席の上ではこたえづらいのか窮する清彦だったが、今度は言い訳に出る。
「あの頃は、街金のいろはを学ぶのに必死で、東京に帰ることができなかったのです。当時は新幹線もありませんでしたのでね……。そのうち、私の発案で主婦金融を始めたところ、これが大当たりして、陣頭指揮を執ることになりましてね。以来会社の規模が急速に拡大したこともあって、連絡を取ろうとした時には消息が掴(つか)めなくなってしまいまして……」
 よくもまあ白々しいことを……。
 それでも貴美子は冷静を装って質問を続けた。
「そんなところにお義父様から、娘の婿にと請われたと?」
「彼女は空襲で両親や親族を全て亡くしていましてね。それからは次々に不幸に見舞われたもので、東京から早く離れたい。見知らぬ土地で一からやり直したいと常々言っていたのです。多分、私の帰りを待ちきれなかったのではないかと……」
「それでは社長が捨てたのではなく、捨てられたと?」
「そういうことになるでしょうね。結果的には……」
 清彦は慚愧(ざんき)に堪えないとばかりに、顔を歪(ゆが)めため息を吐(つ)く。
 もちろん演技である。
 とうの昔に見切った男だが、貴美子は改めて清彦の本性を見た思いがした。
 呆(あき)れ果てて二の句がつげないでいる貴美子の内心を知るよしもなく、清彦は続ける。
「そんなところに社長、いや義父から娘と結婚して婿に入ってくれないかと言われましてね。仕事はますます忙しくなるばかりでしたから、彼女を探す時間もなければ、手がかりもない。それに尼崎(あまがさき)の一街金に過ぎなかった淀興業が、それこそ日の出の勢いで、事業を拡大し続ける最中のことです。はっきり言って、これは全て私の功績です。応分の地位、報酬は得られても、雇われ人の出世には天井があります。しかし、婿となれば話は別です。自分の力で天下を取れるかもしれないと思ったのです」
 勢い余って本音が出たと言ったところか。
 要は、野心に目覚めて貴美子を捨てたと言っているのだ。それはさておき、こうなると小早川がこの縁談を躊躇(ちゅうちょ)したのは、不幸中の幸いだったと貴美子は思った。
 なぜなら誠一、いや勝彦と櫻子の父親は清彦。つまり異母兄妹になるからだ。
 既に気がついていたにせよ、この縁談が成立した時のことを考えると、貴美子は悍(おぞ)ましさを覚えた。そして何がなんでも、この縁談は阻止しなければならないと思うと同時に、鴨上に対しても猛烈な怒りを覚えた。それは清彦に対する怒りと同等、いやそれ以上と言ってもいいかもしれない。
 勝彦が養子に出された時の経緯を、あそこまで知っていたのだ。
 養父母になったのが小早川夫妻であり、誠一が勝彦であったことも知っていたはずなのだ。
 そう考えると、小早川の政治活動の資金源としてヨドを斡旋(あっせん)したのも偶然とは思えない。
 鴨上の権力への執着は異常と言えるほど強いものがある。彼を詣でる政財界の重鎮たちの相談を受け、自ら動くに当たっては入念、かつ周到な調査を行うのが常である。その上で、自ら下した結論を貴美子に伝え、さも神からのお告げであるかのように語らせるのだ。
 もし、繁雄が清彦だと鴨上が知っていたら。二人の子の父親が清彦だと、承知の上で結婚させようとしていたことになる。
 だとしたら許せない。これは自分に対する裏切り行為以外の何ものでもない。いや人の道としてあるまじき行為だ。
 燃え上がる怒りの炎をグッと堪え、貴美子は言った。
「最初に出た卦が内縁の妻との間に生まれた子供のことなら納得がいきます。これね、いますよ子供……。そうとしか思えませんね」
「その子供が、いずれ災いをもたらすとおっしゃるのですか?」
 ギョッとしたように、清彦が問い返してくる。
「卦を見る限りではそのように思います」
「しかし、彼女との子供がどう二人の将来に影響してくるのでしょうか? だって、どこに住んでいるのかも分からない。彼女が今どこで、どう暮らしているのかも分からない。子供の性別も、どう育ったのかも分からないんですよ」
「だから怖いんです」
 貴美子は断じた。「ほら、よく言いますでしょう? 世の中は広いようで狭いって。それに一つお訊きしますけど、社長はご自分の力でヨドを消費者金融業界一の会社に育て上げたとおっしゃいましたけど、街金はともかく、金融業は法に明るいだけでなく、相当な経済知識を持っていないと務まらないものじゃありませんの?」
「戦中でしたので繰り上げ卒業ですが、一応、法学部を出ておりますので……」
「どちらの?」
「東京帝大です」
 清彦の小鼻が膨らんだように見えるのは気のせいではあるまい。
 貴美子は「ふん」と鼻を鳴らしたくなるのを堪え、
「やっぱりねえ〜」
 感心したように言った。「帝大を出ていらっしゃるお父様の血を引いているのなら、お子さんも優秀なのかもしれませんよ」
 事実、勝彦がそうなのだ。
 清彦の遺伝子が混じっているのが残念でならないが、十ヶ月に亘ってこの腹の中で育ち、人の形となって生まれてきたのだ。貴美子にしてみれば、己の血と肉を分け合った分身そのもの。それに農作物でもそうだが、同じ種を撒(ま)いても収穫物の品質には違いが現れるように、子供の優劣には畑の質によるところが大きいように思う。
 貴美子は思い切り皮肉を込めて返すと、
「そのお子さんが実の父親を探しているとしたらどうします?」
 何気なさを装って訊ねた。
「えっ?」
「あり得るんじゃありません? 今でさえ未婚の母を見る世間の目はまだまだ厳しいものがありますし、まして終戦から何年も経(た)っていない頃にお産みになったんでしょう? 許嫁(いいなずけ)が戦死したというならまだしも、あの時代未婚の母が女手一つで子供を育てるのは、そりゃあ大変だったと思いますよ」
 そんなことは考えたこともなかったのだろう。
 痛いところを突かれたらしく、清彦は戸惑いの色を露わにして沈黙する。
 貴美子は続けた。
「母親の苦労を目の当たりにしながら育てば、突然消息を絶った父親のことを恨むでしょう。でもその一方で、肉親への思慕の念は捨て難いものがあると思うんですよ」
「まあ、それは……」
 清彦は呻(うめ)くように漏らし、再び口を噤(つぐ)んでしまう。
「終戦直後は日本中貧しい人だらけ。赤貧洗うがごとくの暮らしを送らざるを得なかった人たちがたくさんいましたよね?」
 清彦は無言のまま頷く。
「貧困から抜け出すには、学を身につけるのが最も早いんです。賢い母親ならば、絶対にそこに気づくはず。社長と内縁関係にあった女性は、そこに気づかないような方でしたの?」
「いや……彼女なら気づくかも知れませんね……」
 へえ〜っ。一応、馬鹿じゃないとは思ってたんだ。
「学を身につけさせようと、苦労する母親の姿を目の当たりにしていれば、子供だってそれに応えようと勉学に励むでしょう。まして、社長の血を引いておられるんですもの、それこそ東大に入学して大会社の幹部候補生、あるいは官僚になっていたっておかしくはないんじゃありません」
 そこで清彦は初めて反論に出てきた。
「子供が男だったらあり得るかも知れませんが、あくまでも仮定の話じゃありませんか。可能性を言い出したら、それこそなんでもありだし、女だったら――」
「女だったら、なおさらじゃありません?」
 貴美子は清彦を遮った。「未婚の母の娘を好き好んで嫁に迎える家なんて、滅多にあるものではありません。端(はな)から女の幸せが結婚にあるとは考えず、それこそ勉強に心血を注いで、一人で生きていく道を選ぶことだって考えられるんじゃありません?」
「それも、仮定の話ではありませんか」
 清彦が憮然(ぶぜん)とした口調で言う。「詳しいことは話せませんが、彼女には私を探すに探せなかった事情があったんです。ですから、子供が男だろうと女だろうと、私の前に現れるなんてことは絶対にないと断言できますね」
 理由って、殺人罪で懲役に科せられたこと? 
 盗人猛々(ぬすっとたけだけ)しいとは、まさにこのことだ。
 いったい誰が二人の米兵を殺したんだ。お前じゃないか! その罪を被ってやった、私に対してよくも……。
 その瞬間、清彦を奈落の底に突き落とし、二度と這(は)い上がれないようにしてやる復讐への道筋がはっきりと見えた。
 そして、清彦を探してくれと鴨上に依頼しようとしたあの時、脳裏に浮かんだ言葉を思い出した。
「豚は太らせて食え」
 豚は十分過ぎるほど肥え太った。
 ついにその時が来たのだ。
 お前は終わりだ。いや、終わらせてやる。
 あの時の決意をいよいよ果たせるのだという思いが、冷笑となって口元に浮かぶのを感じながら、
「でもね社長……。そうはおっしゃいますが、卦の結果を見る限り、この縁談はお止めになった方がよろしいですよ。もちろん信じる、信じないはご自身が判断なさることですから、するもしないもご自由に……。私が言えることはそれだけです」
 貴美子は言い放った。 

   7 

「先生、ありがとうございました」
 二人が辞して二時間ほど経った頃、小早川が再度貴美子の家を訪ねてきた。
「森沢社長は東京に?」
「ええ、この時間から乗れる一番早い新幹線で東京へ戻ると……。私は政調会長と会うことになっていると事前に告げていたので、京都駅で別れました」
 週末になると国会議員は地元に戻る。
 小早川がここに戻ってくるのは、予(あらかじ)め決めていたことで、党の政調会長は京都を地盤としていることから、小早川はそれを口実にしたのだ。
「で、森沢社長の様子は? 縁談を進めるか、止めるか、決断したの?」
 貴美子が訊ねると、
「決めかねているようですね。今のところは……」
 小早川は含み笑いを浮かべる。「なにしろ易と言っても、ただの易じゃありませんからね。政財界の重鎮が、こぞって詣でる先生の見立てです。さすがに聞き流すわけにはいきませんよ。まあ、破談になるでしょうね」
「そうなればいいけどね……」
 異母兄妹が夫婦になるなんて、想像するだに悍ましい。
 貴美子は本心から言った。
「しかし、驚きました」
 小早川は感じ入った様子で、貴美子をまじまじと見つめる。
「驚いたって何がです?」
「何がって、先生の易ですよ。破談にしたくておすがりしたんですから、後に大きな難題に直面するとおっしゃられたのは分かります。でも、それが血縁者によって齎されるものと言って、森沢社長に内縁の妻がいたことを白状させてしまうんですもの、仰天しましたよ」
「誤解なさらないでね」
 貴美子はピシャリと返した。「私は、易で出た卦をそのまま伝えただけですからね。確かに先生は破談をお望みになっていらっしゃったから、結果を曲げてお伝えすることもできましたけど、ああいう卦が出てしまった以上、そんな小細工をするまでもなかったのよ」
「えっ! そうなんですか?」
「考えてもみなさいよ。森沢社長とは初めて会ったのよ。彼の過去なんか全く知らないんだもの。内縁の妻、まして他に子供がいないのかなんて訊いた挙句に、否定されでもしたら、それこそ当たるも八卦、当たらぬも八卦のそこら辺に山ほどいるただの易者になってしまうじゃない。そんな易者の見立てなんて、誰が信じるものですか」
 小早川は目を見開き、貴美子を凝視する。
 目の色が今までとは違う。
 まるで人間の理解の範疇(はんちゅう)を超える能力を持った人間、いや神そのものを見ているかのような畏敬の念に満ち溢(あふ)れている。
 その様子からして完全に、いやこれまで以上に貴美子の能力を信じ切ったのは明らかだ。
 そこで貴美子は話題を変えることにした。
「そうなると、問題は先生が抱えていらっしゃる借金をどうするかですね」
 途端に小早川の顔が曇り、知恵を乞うように上目遣いで貴美子を見る。
「問題と言えばもう一つ、鴨上先生のこともあるわね」
 貴美子は続けた。「鴨上先生が、この縁談を進めろとおっしゃれば、先生どうなさるおつもり? 私が見立てた結果を理由に断るのかしら?」
「そ、そんなことは口が裂けても言えませんよ」
 小早川は滅相もないとばかりに首を振る。「鴨上先生を通さずに、先生に易を立ててもらったなんて知れようものなら、どんなことになるか……。掟(おきて)破りを許すような方じゃありませんから、そこのところは森沢社長にも秘密を守るよう、念を押しておきましたので」
「ならばどうなさる?」
「そ、それは……」
 小早川は口籠もり、視線を落として机の一点を見つめるだけとなる。 
「一つお考えいただきたいことがありますの」
 貴美子はいよいよ本題を切り出しにかかった。
「それはどんな?」
「ご子息の政界への進出を遅らせていただくことはできませんか?」
「遅らせるとはどのくらいですか?」
「二年でも、三年でも」
「それでどうなると言うのです?」
「縁談を引き延ばす、いや破談にするための時間を稼ぐのです」
 貴美子の意図が読めないらしい。
 それを訊ねようとする小早川より先に、貴美子は問うた。
「留学中のコロンビア大学でのご子息の成績は?」
「院生ですから、授業のコマ数は学部程多くはありません。ほぼA評価を受けていると聞いておりますが?」
「優秀な成績を修めていらっしゃるのね。では、主任教授は?」
「スタンレー・マクレイン教授です」
「どんな経歴の方なのかしら?」
「政治学の権威として有名な方で、かつてはホワイトハウスで政策スタッフとして次席補佐官を務めたことがあります。コロンビアは教授、学生もリベラルが多いそうなのですが、マクレイン教授はガチガチの保守であると同時に、愛国心が大変強い方だと聞いております」
「愛国心?」
「彼はミシガン出身でしてね。父親が自動車会社の役員だったとかで、次席補佐官であった当時はアメリカでシェアを拡大しつつあった日本車に脅威を感じていたらしく、輸入に何かしらの制限を設けることをいち早く提唱したほどでして」
「それ、何年前のこと? 自動車の対米輸出が俄(にわか)に問題視されるようになったのは、ここ数年のことじゃありませんでした?」
「十数年前ですから、やはり先を見る目は確かなんでしょうね」
「ってことは、日本に対してはあまりいい感情を抱いていないのでは?」
「ところが、政治のみならず倫理には厳しい方だそうでしてね。人種差別とは無縁の方のようで、少なくとも誠一には好意的に接してくださっているようですね」
「でしたら博士課程に進まれたらいかがです? 博士号を取るには最短でも二年はかかるんじゃありませんでしたっけ?」
 これにはさすがの小早川も驚き、
「そんなものを取って、どうするんですか? 学者になろうというならともかく、政治家に博士号なんて必要ありませんよ」
 考えられないとばかりに首を振る。
「持っていたって邪魔になるものではないでしょう?」
「先生……上を目指そうというなら、議員になるのは早いに越したことはないんです」
「でも、来年帰国してしまえば、それこそ鴨上先生が縁談を進めろとおっしゃるかもしれませんよ」
 痛いところを突かれて、小早川は言葉に詰まる。
「そもそも論になりますけど、先生はどうしてご自身が上に行くことを目指さないのですか? 当選回数のことがあるのは分かりますし、何よりも政界の力学は複雑にすぎますからね。早くにご子息を代議士にすることができれば、天下を取る可能性が高くなるとお考えになるのも分かります。でも、先生にだって天下を取る可能性はまだあるんじゃありません?」
「いや、現実問題としてそれは……」
「政界の力学は複雑にすぎると言いましたけど、別の言い方をすれば何が起こるか分からないのが政界じゃありませんの?」
「それは、おっしゃる通りですが、しかし――」
「しかし何です?」
「博士号はどうかと思うんですよ。医学博士の学位を持っている代議士はいないではありませんけど、政治学ってのは憲政史上一人もいませんからね。第一、日本では博士って学者が持つものってイメージが定着しているように思うんです。事実、官僚にしたって博士号どころか修士を修めてから入省してくるのは稀(まれ)ですからね。族議員という言葉があるように、特定の分野を得意とする議員がいるのは事実ですが、それだけやっていればいいというものではありません。博士号なんか取ってしまうと、それこそ学者、専門馬鹿。政治家としてはむしろマイナスに働くんじゃないかと思うんです」
 なるほど小早川の言には一理ある。
 それに、政治の本質はアカデミズムに裏付けられた理論によって行われるものではなく、議員本人のみならず支援者、ひいては有権者の願望、欲望、利権といったさまざまな要素が絡み合う中で、最終的には数の力を以(もっ)て決着を図る泥臭いものなのだ。
 ならばとばかりに、貴美子は新たな提案をしてみることにした。
「アメリカの国会議員の下で修業させるというのはどうかしら?」
「修業?」
 小早川は短く漏らし、「ふむ」といった様子で考え込む。
「アメリカ国内では、日本車の対米輸出を問題視する機運が高まる一方ですが、それでも日米関係は良好なまま維持しなければなりません。ご子息は卓越した語学力を持っておられるのですから、有力議員の下で修業させれば、アメリカ議会内に人脈を築くこともできるのでは?」
「なるほど、それはいいかもしれませんね」
「これは誰にでもできるというものではありませんよ。二世、三世議員だって、外国人と直接渡り合える人はまずいないでしょうからね。その点、ご子息は違います。通訳を必要としないほどの英語力があり、アメリカ議会内にも広く、太い人脈を持っているとなれば、年齢、議員としての経験なんか問題にならないんじゃないかしら。それこそ、外交の舞台では早くから重用されるでしょうし、特に対米外交では貿易を中心とした経済問題が広く交渉課題となるはずです。つまりそうした場に早く身を置くことによって外交のみならず、国際経済の最先端の知識、政治交渉の技術を身につけることができる。繰り返しになりますが、これは誰にでもできることではありません。ご子息だから可能なのです」
 言葉に熱が籠るのは、気のせいではない。
 我が子勝彦が、政界で上り詰める道筋が、はっきりと見えたからだ。
 小早川の表情が変わる。
 貴美子に向ける瞳が炯々(けいけい)と輝き、その光を反射するかのように表情が明るくなる。
 果たして小早川は言う。
「先生、さすがです。それ、とても素晴らしいアイデアです」
 しかし次の瞬間、一転して表情を曇らせると、
「でも、森沢社長には、誠一がますます魅力的な結婚相手と映るんじゃありませんか」
 と懸念を述べる。
「その点は、ご心配なく。そうならないように手を打ちますので……」
「手を打つ?」
 訝(いぶか)しげに言う小早川に貴美子は言った。
「もちろん、先生にその覚悟があればですけど?」
「覚悟とおっしゃいますと?」
「これからお話しすることを聞いたら、後戻りはできませんよ。それでもよろしいですか?」
 さすがに小早川も不穏な気配を察したらしく、返事を躊躇する。
「私の目論見通りにことが進めば、ご子息どころか先生ご本人が党内、ひいては政界の頂点を掴むのも夢ではないかもしれません」
 こうも念を押されれば、真っ先に目論見が外れた時のことに考えが及ぶものだ。
 しかし、小早川はここで何らかの策を講じないことには森沢との縁談を完全に潰すのは難しいかもしれない。何しろことの成否は、鴨上の意向次第と思い込んでいるだろう。
 しかも、貴美子の易の凄さを見せつけられた直後とあっては、一か八かの賭けに出てみる気持ちになるはずだ。
「分かりました。聞かせて下さい」
 果たして、小早川は決意の籠った眼差しを向けてくる。
「鴨上先生を潰すの」
 貴美子は静かに言った。
「か、鴨上先生を潰すぅ!」
 仰天なんてもんじゃない。
 小早川は、跳び上がらんばかりの勢いで腰を浮かし、声を裏返させる。
「いや、先生。いくら何でもそれは――」
「ちっとも無理じゃないわよ。鴨上先生のお力は絶大なものがあるのは事実だけど、それはあくまでも裏でのこと。表舞台に立たないからこそ力を振るえているの。つまりモグラなのよ。モグラって陽の光を浴びたら、たちまち死んでしまうでしょう?」
「それはそうですが、一つでも間違えば返り討ちにされて、私なんかそれこそ二度と表舞台に立てなくなってしまいますよ」
「鴨上先生の首を取れば、意向も何もあったもんじゃないでしょ? 残るは森沢社長からの借金だけど、そちらの方は私がうまくやって差し上げますから」
「しかし、どうやったら鴨上先生を潰せるんですか? 先生のお力は政財界だけじゃありませんよ。これまで先生の存在が一切表に出なかったのは、マスコミの上層部にも力が働いていたからじゃないですか。表に出すと言ったって、そのマスコミが動かなければ――」
「日本のマスコミはそうでしょうね」
 ジャーナリスト、ジャーナリズムと言えば聞こえはいいが、大マスコミの記者はもれなくサラリーマンである。報道内容、記事の論調も組織が決めること。とどのつまり、上司の許可なくして報じられはしないのだ。
「日本のマスコミはって……じゃあ、海外メディアを動かすってことですか?」
「そうね。結果的にはそうなるわね」
 貴美子は微笑んでみせた。
「どうやって」
「ご子息に一働きしていただきたいの」
「誠一に? 誠一に一体何をしろと?」
「簡単なことだけど、先生、ご子息の双方への見返りは大きいと思うわよ。あちらで組む相手を間違えなければ、ご子息は大物議員の下で修業を積めることになるでしょうし、党のご重鎮も何人かは政治生命を失うことになるでしょうからね。重い蓋が取り除かれれば、先生にはチャンス到来。それこそ天下を取ることも夢ではなくなるかもしれませんわよ」 
 見据える貴美子の視線を捉えたまま、微動だにしないでいる小早川の喉仏が、大きく上下に動く。
「やってくださるわね」
 聞いた以上は後戻りできないと告げたのだ。
 拒むことなどできはしない。
 それでも、想像だにしなかった展開に声が出ないでいるらしい。
 小早川は無言のままこくりと頷いた。

(次回に続く) 

プロフィール
楡 周平(にれ・しゅうへい)
1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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