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海路歴程/花村萬月

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精力的に執筆を続ける著者があたためていた構想がついに実を結ぶ! 水運国家としてのこの国の歴史をひもとく大河ロマン。
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海路歴程 第九回<上>/花村萬月

.    *  どーん!  爆裂音が轟いた。  あわてて目をひらく。  ばらばらと派手に雨が降りかかった。  舌先で濡れた唇まわりをなぞる。潮だ。この塩辛さは間違いなく海の水だ。  薄闇のなか、皆はてんでんばらばらに転がって、眠り呆けている。  貞親は忙しなく目をこすった。ただ一人、酒を呑んでいなかったから、すぐに意識がもどったが、先ほどの大音響がなんであったのかは判断がつかない。  雑魚寝している水夫たちを踏まぬよう気配りしたが、なにぶん冥いので幾人かの足や手を踏んだ。け

海路歴程 第八回<下>/花村萬月

.    *  未来永劫晴れていることは、自然天然には有り得ない。  貞親にとって自然天然とは、人の思惑など一切頓着しない超越だ。善悪とは完全に無関係だ。  いや、自然は悪だ。  だからこそ美しい。胸を打つ。  洋上は不穏に充ちて、うねる。  貞親は溜息を呑みこんで、乱れに乱れた波に隠された規則性を見抜こうと、意識を海に集中させる。  晴れて凪いでいるときは、世界は穏やかに整然と動いているかに見える。けれど、こうして乱れはじめると混沌の乱舞で貞親を翻弄しはじめる。  一定の

海路歴程 第八回<上>/花村萬月

.    *  太閤秀吉の時代、海商は武士や豪族が多かった。越前敦賀などは、とりわけ顕著だったようだ。  遠い智識として、それらを漠然と知っている貞親は、ひょっとしたら船頭は、本当に甲斐武田氏の出かもしれないと思うようになっていた。ただし貞親は甲州には海がないことを知らない。  甲斐武田氏の出かどうかはともかく、船頭には曰く言い難い鬱屈がある。酒を浴びるように呑むことや、理不尽な暴力の背後に、抑えようのない怒りと怨みがあるような気がするのだ。  半泣きの爨が声をあげる。

海路歴程 第七回<下>/花村萬月

.    *  前夜の吹雪はおさまったが、黒灰色の空から雪が思いだしたように落ちてくる。海面は小刻みに乱れているが、波高はたいしたことがない。  巴湊を出るとき船頭が進行方向右に顎をしゃくったので、行き先もわからぬまま貞親は操船の指図をし、舳を北海こと日本海に向けた。潮の加減から、龍飛崎を掠めて抜けることにした。  貞親は船首に立って進行方向を凝視している。揃って並んで白い息を吐きながら湊で見送りに立っていたアイヌたちの眼差しを反芻する。  和人でも船頭のような奴がいる。

海路歴程 第七回<上>/花村萬月

.    09  嫌な男だ。  誰も船頭の近くに寄りたがらない。  けれど船という閉鎖環境では、海に出てしまえば常にいっしょにいなければならない。命令をきかなければならない。ねちっこい厭味を浴びなくてはならない。無意味に罵倒されることに耐えなくてはならない。理由もなく殴られなければならない。  甲斐武田氏につながると言い張り、兜に当たる陽射しをあらわす甲陽を船名に戴いているが、甲陽丸の周囲には勇ましいものも輝かしいものも一切ない。  それでも皆が船頭から離れない理由は、徳用

海路歴程 第六回<下>/花村萬月

.    *  侍の名を知りません──と月静は笑う。実際は名乗ることさえ許さないのである。侍は月静に隷属していた。命じれば足の裏でも恭しく舐めるだろう。  一応はお勤めであるからと、月静は琉球が清との密貿易を疑われていることを聞得大君に報せた。聞得大君は王に薩摩からかけられている嫌疑を伝えた。  興味がないので諸々深く知ろうとしない月静であったが、どうやら薩摩の昆布を少しずつ着服して清にわたしていたらしい。小首をかしげて婆に問う。 「それで琉球が富むならば、よろこばしいこと

海路歴程 第六回<上>/花村萬月

.    08  首里城内は静まりかえっていた。  黒豚は、喉を切開されたことに気付いていない。  半月のかたちをした刃物を携えた円心様が眼差しを伏せている。  豚のまわりには女しかいない。  三十三君が円心様のまわりに円を描いているなか、月静のみが第五代聞得大君にして尚貞王妃である円心様の背後に佇んでいる。  男たちにまかせきりの豚の命を戴く仕事だが、今日にかぎって祝女たちが行うようにと円心様から言いつけられた。  豚に刃物を用いた円心様は、微動だにしない。皆、いよいよ神

海路歴程 第五回<下>/花村萬月

.    *  六郎は、この航海でいきなり背丈が伸びたような気分だ。  水には記憶がないが、六郎にはある。六郎の頭の中には陸地の様子だけでなく、海の色がしっかり刻まれていた。  堺湊を発って瀬戸内を抜け、下関を経て本州をぐるっと回るかたちで能登の半島を迂回するあたりまでは、海の底は浅い。かなりの距離だが、多少の色合いの違いはあれど、共通した青みが拡がっていた。  けれど能登禄剛崎沖の難所を抜けて北に進むと、海は色味を深く濃いものに変えた。じっと見つめていると、おいで、おいで

海路歴程 第五回<上>/花村萬月

.    *07〈承前〉  地蔵菩薩の加護か、凪が続いていた。風向きもよく、方正丸は鏡の上を滑るかのように距離を稼いでいく。  航洋船ではない方正丸に、外洋を航行する能力はない。ゆえに常に陸地を右手に見ながら航海する。北に流れる対馬海流と南からの風が柔らかく、けれど力強く後押ししてくれている。  穏やかに風を孕む帆を見あげ、いよいよ草臥れてきたなあ──と梶前の参三は胸中で独りごち、眉を顰めた。兄貴分の俊資と共に操船の実際をまかされている参三にとって、気分のよいものではない

海路歴程 第四回<下>/花村萬月

.     07  唐突だが、作者の思い出話をしよう。  まだ作者が小説家になる前、二十代の後半だった。  定職に就いたことのない作者は、そのころ同棲していた最愛の人の稼いだ金で、日本中を旅行していた。  旅行といっても旅館なりホテルに泊まるわけではなく、オートバイのリアシートに寝袋や自炊のための携帯用ガスコンロなど簡易な所帯道具をくくりつけて走りまわる野宿旅行だった。  余談になるが、某作家が私に訊いた。 「萬ちゃんは、若いころは、野宿旅ばかりしてたんだろう?」 「うん

海路歴程 第四回<中>/花村萬月

.     *  霊岸島整備の巧みさや土木に関連する種々の功績で瑞賢は幕府の重臣にも知られ、重用されるようになった。  それには単に能力があるといったことだけではない理由があった。  芝増上寺で新たな鐘楼が拵えられた。ところが鐘が低い位置に吊られすぎていて撞くのに具合が悪い。  完成してから不具合がでたのだが、増上寺が威信をかけた巨大な青銅の鐘である。重量も尋常でない。  完成してしまった鐘楼には梵鐘吊りの大型の道具類も這入らない。裏甲などの屋根の部材がじゃまなのだ。

海路歴程 第四回<上>/花村萬月

.     04  熱い。  熱い、熱い。  熱い、熱い、熱い。  頬が灼け、眼球が乾く。 「凄え火だぜ」  仁王立ちというには華奢な姿で、十右衛門は焔に向かって呟く。  火が出たのは午後二時くらいだったか。それまでの青空が一転して焦臭い煙に覆われてしまった。  太陽がさえぎられて昏くなったから、焔の危うい猛りがくっきりとわかる。  妻女が不安そうに十右衛門を一瞥する。  火勢は衰えるどころか、烈しく背丈を伸ばすばかりで、紅蓮が北西からの空っ風に煽られて迫りくるのだ

海路歴程 第三回<下>/花村萬月

.      *  目覚めると、顔の上に冷たい手拭いが載っていた。昨夜から女房がこまめに替えてくれていたのは、薄ぼんやり覚えている。  十右衛門は、起きあがった。  かろうじて陽の光の這入るあたりで女房が縫い物をしていた。 「兄貴は?」 「今日の荷は軽いはずだとか吐かして、ほいほい出てったよ」 「おいてけぼりか──」 「あんな乱暴者が好きかい?」 「はい」  間髪を容れず返事をした十右衛門を、女はじっと見つめると、吹きだした。 「笑うことは、ねえでしょう」 「そうだね、ごめ

海路歴程 第三回<上>/花村萬月

.     02  あったりき、  しゃりき、  くっるまひきぃ~。  煤で黒く染まって金気漂う建屋から、威勢のいい胴間声が響いた。  禁裏御鑄物師の大仰な幟がはためく真継家配下の鑄物師の仕事場である。  十右衛門は滋養が足りずに荒れ果て罅割れた唇を歪める。  俺は、その車力で車曳きだよ──と吐き棄てる。  いや、車曳きではない。  曳いてない。押しているだけだ。  車力の一番下っ端、後押にすぎない。  泥濘に足を取られつつ、自嘲気味に全力で力車を押す。  職人町を