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海路歴程/花村萬月

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精力的に執筆を続ける著者があたためていた構想がついに実を結ぶ! 水運国家としてのこの国の歴史をひもとく大河ロマン。
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海路歴程 第十一回<下>/花村萬月

.   *  遣り取りをする相手がいなくなると、一日が長い。どのみち昼も夜もひたすら横たわっているのだが、伴助は昼間を嫌悪した。陽射しを避けて、顔まで含めて全身を筵で覆って転がっている。  日が翳ると、筵を剝いで無窮の闇に瞬く星々にいつまでも眼差しを投げる。ひたすら独りで喋る。精神が分裂したかのように、一人二役で遣り取りする。  その晩、ざわわと雨風が伴助を擽った。船乗りなので風の種類は肌が覚えている。降雨を直感したが、遅えよ──と伴助は胸中で苦々しく呟き、舌打ちを付け加え

海路歴程 第十一回<上>/花村萬月

.     09〈承前〉  中途半端にひらいた罅割れた唇から、薄汚く黄ばんだ糸切り歯が見える。前歯はない。落雷したときに泣き騒いで親司に殴られ、折られたのだ。  貞親は惚けて、ひたすら爨の糸切り歯を見つめた。歯には艶がまったくなく、乾ききっていたが、尖りが獣じみていた。その脇に生えている歯と歯のあいだに、薄白いものがはさまっている。  盗み食いしやがって──胸中で吐き棄て、貞親は無理やり口をひらいて歯の隙間にはさまったものを抓み、引き抜いた。  凝視する。  いったい何か?

海路歴程 第十回<下>/花村萬月

.    *  滋養があると思われる腸まで食った。太い骨は折り、髄を啜った。  腹に入れられるだけ入れておこうと、気合いを入れて食ったのだが、五人で食うには大きすぎた。食い切れなかった分を干し肉に仕立てた。  ところが海水に漬けて干したにもかかわらず、腐ってしまった。どろりとした腐敗が酷くて、さすがに口にするわけにはいかない。いや口にできない。無理に口に運ぶと、厭な唾が湧いて嘔吐してしまうからだ。  腐臭というものは、それを口にしたら危ないという天からの警告だ。  鼻を抓ん

海路歴程 第十回<上>/花村萬月

.    09〈承前〉  鮫にも好奇心があるのだろうか。  貞親は焦らぬよう己を戒めながら、心中で思う。鮫はあきらかに梶から千切れて海面に垂れた水越綱を追っていた。餌と間違えているのではなく、綱にまとわりつく姿は戯れているように見えた。その鮫の興味が、水越綱よりも右舷で派手に飛沫をあげる即席の投げ輪に移ったのだ。 「いいぞ、貞親。おめえは、まっこと、こういうことをさせると巧みだなあ」 「まぐれもまぐれ、鰐がこれほど遊び好きとは思ってもいなかったですぜ」  鮫は尖った頭を投げ

海路歴程 第九回<下>/花村萬月

.    *  明けない夜はない。  だが、あたりが薄明るくなっても日輪は昇らなかった。灰色の雲が洋上の彼方で水平線と溶けあって、どこまでが海でどこからが雲か判然としない。超巨大な無彩色の椀をかぶせられているかのような閉塞感がある。  おずおずと親司が具申した。 「船頭、髻を切ろう」  神仏に祈り、すがるしかないというのだ。船頭が受ける。 「莫迦野郎、俺はな、雷様に焼かれちまって切る髷がねえんだよ」  貞親は吹きだしそうになり、ぎこちなく横を向いた。こんな状況であっても、緊

海路歴程 第九回<上>/花村萬月

.    *  どーん!  爆裂音が轟いた。  あわてて目をひらく。  ばらばらと派手に雨が降りかかった。  舌先で濡れた唇まわりをなぞる。潮だ。この塩辛さは間違いなく海の水だ。  薄闇のなか、皆はてんでんばらばらに転がって、眠り呆けている。  貞親は忙しなく目をこすった。ただ一人、酒を呑んでいなかったから、すぐに意識がもどったが、先ほどの大音響がなんであったのかは判断がつかない。  雑魚寝している水夫たちを踏まぬよう気配りしたが、なにぶん冥いので幾人かの足や手を踏んだ。け

海路歴程 第八回<下>/花村萬月

.    *  未来永劫晴れていることは、自然天然には有り得ない。  貞親にとって自然天然とは、人の思惑など一切頓着しない超越だ。善悪とは完全に無関係だ。  いや、自然は悪だ。  だからこそ美しい。胸を打つ。  洋上は不穏に充ちて、うねる。  貞親は溜息を呑みこんで、乱れに乱れた波に隠された規則性を見抜こうと、意識を海に集中させる。  晴れて凪いでいるときは、世界は穏やかに整然と動いているかに見える。けれど、こうして乱れはじめると混沌の乱舞で貞親を翻弄しはじめる。  一定の

海路歴程 第八回<上>/花村萬月

.    *  太閤秀吉の時代、海商は武士や豪族が多かった。越前敦賀などは、とりわけ顕著だったようだ。  遠い智識として、それらを漠然と知っている貞親は、ひょっとしたら船頭は、本当に甲斐武田氏の出かもしれないと思うようになっていた。ただし貞親は甲州には海がないことを知らない。  甲斐武田氏の出かどうかはともかく、船頭には曰く言い難い鬱屈がある。酒を浴びるように呑むことや、理不尽な暴力の背後に、抑えようのない怒りと怨みがあるような気がするのだ。  半泣きの爨が声をあげる。

海路歴程 第七回<下>/花村萬月

.    *  前夜の吹雪はおさまったが、黒灰色の空から雪が思いだしたように落ちてくる。海面は小刻みに乱れているが、波高はたいしたことがない。  巴湊を出るとき船頭が進行方向右に顎をしゃくったので、行き先もわからぬまま貞親は操船の指図をし、舳を北海こと日本海に向けた。潮の加減から、龍飛崎を掠めて抜けることにした。  貞親は船首に立って進行方向を凝視している。揃って並んで白い息を吐きながら湊で見送りに立っていたアイヌたちの眼差しを反芻する。  和人でも船頭のような奴がいる。

海路歴程 第七回<上>/花村萬月

.    09  嫌な男だ。  誰も船頭の近くに寄りたがらない。  けれど船という閉鎖環境では、海に出てしまえば常にいっしょにいなければならない。命令をきかなければならない。ねちっこい厭味を浴びなくてはならない。無意味に罵倒されることに耐えなくてはならない。理由もなく殴られなければならない。  甲斐武田氏につながると言い張り、兜に当たる陽射しをあらわす甲陽を船名に戴いているが、甲陽丸の周囲には勇ましいものも輝かしいものも一切ない。  それでも皆が船頭から離れない理由は、徳用

海路歴程 第六回<下>/花村萬月

.    *  侍の名を知りません──と月静は笑う。実際は名乗ることさえ許さないのである。侍は月静に隷属していた。命じれば足の裏でも恭しく舐めるだろう。  一応はお勤めであるからと、月静は琉球が清との密貿易を疑われていることを聞得大君に報せた。聞得大君は王に薩摩からかけられている嫌疑を伝えた。  興味がないので諸々深く知ろうとしない月静であったが、どうやら薩摩の昆布を少しずつ着服して清にわたしていたらしい。小首をかしげて婆に問う。 「それで琉球が富むならば、よろこばしいこと

海路歴程 第六回<上>/花村萬月

.    08  首里城内は静まりかえっていた。  黒豚は、喉を切開されたことに気付いていない。  半月のかたちをした刃物を携えた円心様が眼差しを伏せている。  豚のまわりには女しかいない。  三十三君が円心様のまわりに円を描いているなか、月静のみが第五代聞得大君にして尚貞王妃である円心様の背後に佇んでいる。  男たちにまかせきりの豚の命を戴く仕事だが、今日にかぎって祝女たちが行うようにと円心様から言いつけられた。  豚に刃物を用いた円心様は、微動だにしない。皆、いよいよ神

海路歴程 第五回<下>/花村萬月

.    *  六郎は、この航海でいきなり背丈が伸びたような気分だ。  水には記憶がないが、六郎にはある。六郎の頭の中には陸地の様子だけでなく、海の色がしっかり刻まれていた。  堺湊を発って瀬戸内を抜け、下関を経て本州をぐるっと回るかたちで能登の半島を迂回するあたりまでは、海の底は浅い。かなりの距離だが、多少の色合いの違いはあれど、共通した青みが拡がっていた。  けれど能登禄剛崎沖の難所を抜けて北に進むと、海は色味を深く濃いものに変えた。じっと見つめていると、おいで、おいで

海路歴程 第五回<上>/花村萬月

.    *07〈承前〉  地蔵菩薩の加護か、凪が続いていた。風向きもよく、方正丸は鏡の上を滑るかのように距離を稼いでいく。  航洋船ではない方正丸に、外洋を航行する能力はない。ゆえに常に陸地を右手に見ながら航海する。北に流れる対馬海流と南からの風が柔らかく、けれど力強く後押ししてくれている。  穏やかに風を孕む帆を見あげ、いよいよ草臥れてきたなあ──と梶前の参三は胸中で独りごち、眉を顰めた。兄貴分の俊資と共に操船の実際をまかされている参三にとって、気分のよいものではない