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下町やぶさか診療所5

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看護師知子の義母が癌のため死去。故郷島根の海へ散骨してほしいとの遺言を残した。大先生こと麟太郎が知子夫妻に同行すると知った居候の高校生麻世は……。ユーモア&人情小説。
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#下町人情

下町やぶさか診療所 5 第四章 火傷の子供・後/池永陽

【前回】  漂ってくるのはカレーの匂いだ。 「親父、これって、また」  情けない声を潤一があげた。 「落ちつけ、潤一――カレーはカレーだが、焼きそばじゃなくて、カレーライスのほうだから安心しろ。さっき、麻世がそういってたから間違いないだろう」  厳かな声を麟太郎は出す。 「ああ、それなら安心だ。俺も麻世ちゃんのつくる料理のほとんどには慣れたけど、やっぱり、あのカレー焼きそばだけはちょっとね」  ほっとしたような表情の潤一に、 「それはそうだけどよ――そろそろ、あのカレー焼き

下町やぶさか診療所 5 第四章 火傷の子供・前/池永陽

【前回】  午後の診察も終り、麟太郎がイスの上で大きく伸びをしたとき、 「じいさん、入るぞ」  麻世の声がして、いきなりドアが開いた。 「おう、どうした、麻世。何かあったのか」  声を出す麟太郎の目に、麻世の隣に立っている男の子の姿が入った。体を竦めるようにして視線を床に落している。 「じいさん、火傷だ。ちょっと診てやってくれないか」  麻世は男の子の左腕をそっと取って麟太郎に見せた。手首の内側の上に丸い形の爛れた部分があった。直径は一センチほどで、まだ新しい。 「何でこん

下町やぶさか診療所 5 第三章 運命の人・後/池永陽

【前回】   念のために腕時計を見ると、ちょうど一時三十分。  まだまだ大丈夫だ。『田園』のランチは二時までで、それを過ぎるとママの夏希は決していい顔をしない。  ただし、イケメンの潤一なら、たとえ三時を回っていても上機嫌で迎え入れてくれるというから、けっこう癪にさわるが仕方がない。とにかく素早く昼を終えて、さっさと帰らなくては。午後の診療は二時からだった。  扉を開けると昼時を過ぎているせいか、客はまばらだったが、奥の席に気になる顔が見えた。静一だ。  奥の席でコーヒーカ

下町やぶさか診療所 5 第三章 運命の人・前/池永陽

【前回】  初診票に目を通していると、小柄な老人が入ってきた。  麟太郎はすぐに老人を診察室のイスに座らせ、さらに初診票を目で追う。 「ええと、名前は荒井静一さんで年は七十一歳。住所は浅草警察に近い、公団住宅ですか」  独り言のようにいってから、視線を目の前の老人に向ける。まともに顔を見た麟太郎の口から「あんたは――」という言葉が飛び出した。  麟太郎の声に、ほんの少し静一という老人の顔に笑みが浮ぶ。 「はい。言葉をかわしたことはありませんが、時折り『田園』のランチで大先生

下町やぶさか診療所 5 第二章 居場所がない・後/池永陽

【前回】  午後の患者もあと数人というところで、耳打ちをするように八重子が話しかけてきた。 「大先生、あの娘、ちゃんときてますよ」 「あの娘って、吉沢明菜さんのことか――そうか、ちゃんときてくれたのか」  独り言のようにいう麟太郎に、 「待合室の隅に座っているのをちらっと見かけたので、受付の知子さんに訊いてきたら、一番あとで診てもらいたいということでしたよ」  得意げな顔で八重子はいう。 「ということは、今日は腹を括って話をするつもりってことか」 「そのようですね――おまけ

下町やぶさか診療所 5 第二章 居場所がない・前/池永陽

「大先生。次は元子さんなんですけど……どうしましょうか」  奥歯に物が挟まったようないい方を、八重子がした。 「どうしましょうかって――どうせまた、胸やけがするとか何とか、わけのわからんことをまくしたてるんだろうが、きている以上は診ないわけにはよ」  うんざりした思いで麟太郎はいう。 「それはいいんですけど。さっきちらっと待合室を見たんですが、何だか元子さん、怒っているようなかんじで、顔も険悪そのもののように見えましたから、それでちょっと」  困ったような顔の八重子に、 「険

下町やぶさか診療所 5 第一章 散骨の思い・後/池永陽

【前回】  羽田空港を早朝の七時ちょっとの飛行機に乗り、麟太郎たちは出雲空港に向かった。  びびりまくるのではないかと心配されていた高史は窓際の席に座り、ガラスに顔をくっつけるようにして外の景色を一心に見入っていた。通路側に座った麻世も最初のときのような恐れる様子はほとんど見られず、静かに両目を閉じて黙って座っていた。ただ、両手で肘掛けだけはつかんでいたが。  いちばん大変だったのは、高史の隣に座っている「飛行機が怖くて、お天道様の下を大手を振って歩けるもんけえ――」と大見

下町やぶさか診療所 5 第一章 散骨の思い・前/池永陽

 七月に入って急に夏らしくなった。  微風とともに、台所から漂ってくるのは、カレーの匂いだ。夏にカレーはどうかと考えて、カレーの本場がインドだということに気がつき、麟太郎はすぐに納得の思いを胸にする。  が、問題なのはこれが、カレーライスなのかカレー焼きそばなのかということだ。麟太郎の前に座っている潤一もそれが気になるらしく、妙に落ちつかない様子だ。 「カレーライスか、カレー焼きそばか――親父はどう思う」  台所を気にしながら、低い声で潤一がいう。 「そうだな。お前は、どっち