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新 戦国太平記 信玄/海道龍一朗

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戦国の雄・武田信玄。緻密な検証から知られざる実像を明らかにしていく歴史巨編!
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2023年12月の記事一覧

新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)9 (下)/海道龍一朗

 八十八   織田信長が信玄に書状を送る数ヶ月前のことであった。  美濃では見慣れぬ美装の一行が、岐阜城(稲葉山城)の城下へ入っていく。  それはこの日の早朝、越前の一乗谷を出立した細川藤孝と家臣十数名であった。  この足利義昭の側近には、案内役として朝倉家から公方の家臣に鞍替えした明智光秀が付き添っていた。  岐阜城下に到着した細川藤孝は、思わず辺りの様子に眼を見張る。  往来には人が溢れかえっており、遠路をやって来たと思われる商人の姿も少なくない。  山城から続く道は

新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)9 (上)/海道龍一朗

  八十七   永禄十年(一五六七)三月、箕輪城の在番を命じていた真田幸隆から朗報がもたらされる。 「先日、われら真田勢で西群馬郡の渋川にあります白井城を落としましてござりまする」  使番となった次男、真田昌輝が信玄に報告した。  渋川には古くから三国街道の宿場町があり、交通の要衝となっている。 「さようか。相変わらず手際がよいな、一徳斎は」 「お誉めの言葉、そのまま父に伝えさせていただきまする。つきましては、次なる標的を厩橋の蒼海城(総社城)と定めまして、かの城を攻略した

新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)8 (下)/海道龍一朗

 箕輪城の本丸は御前曲輪とともに最も北側にあり、東側に高い土手を築き、敵からは城内が見えないようにしてある。  この土手は御前曲輪の東側まで続いており、本丸と御前曲輪を隔てる空堀が東側から西側へと深く切り込まれている。  御前曲輪と本丸は一体のように見えながら、ここでも一城別郭の仕組みが採用されていた。  この時、城方の総大将、長野業盛は老家宰の藤井友忠とともに御前曲輪の未申櫓に入っていた。  未申の方角、つまり西南の角に総物見のための櫓が置かれ、その下が石垣で固められている

新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)8 (上)/海道龍一朗

 八十六   傅役の保科正俊を伴い、諏訪勝頼が颯爽と躑躅ヶ崎館へ入ってゆく。  申次役の武藤(真田)昌幸が出迎える。 「ご苦労様にござりまする。御屋形様がお待ちになっておられまするゆえ、こちらへどうぞ」  三人は奥の間へ進む。 「御屋形様、勝頼様がお見えになりました」  襖越しに、昌幸が声をかける。 「中へ」  室内から信玄の声が響いてきた。 「失礼いたしまする。勝頼、お呼び立てにより、罷り越しましてござりまする」  諏訪勝頼が一礼してから室内へ入る。 「四郎、これへ」