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濃尾B級史跡探訪

近江粟津の古戦場を訪ね終えたボクとドレミは肥沃な湖南の平野を北東に走っていた。この二日間で予定していた史跡は訪ね終え,さて残った時間をどう過ごそうかと気ままに走るうち,車は近江八幡市に入る。

安土城跡

安土城跡に寄ってみた。何度も傍を通過しながら訪ねたのは初めてだった。ちょっとしたわけがある。

石垣しか残っていない城跡の入場料が700円は高すぎるというもっともな意見がネット上には散見される。しかも最近まで市営駐車場が別途510円だった。安土城跡を所有する摠見寺の駐車場は無料だが,そこを利用した観光客には市営のトイレを使わせないだの,使う人からは100円を徴収しようとしただの…何だか耳をふさぎたくなるような市の対応は,およそ歴史ロマンに浸りたい日本史好きの旅人を辟易とさせた。

あまりの批判の多さからか入場料を500円から700円に値上げするタイミングで噂の駐車場もトイレも無料となったらしい。だが,ボクらの訪問のあと値上げブームに乗って入場料はさらに800円に値上げしたとのことである。

もっとも入場料以前にボクの腰の状態ではこの石段を登ることはかなわない。着いたときはその気だったがドレミに止められた。

平日の夕方とあってか訪ねくる人はまばらで,舗装されていない市営駐車場は,城跡ならぬだだっ広い駐車場跡の風情を醸している。外国人観光客がどやどやとやってきて,景気よく入場料を払い石段を登って行った。騒々しく声高にしゃべり続ける男たちと,へそ出し極彩色ルックの女たちという例の隣国の人々だ。見かけで判断してはいけないが,彼らが日本の戦国史に興味を持って訪ねてきたとはとうてい思えない。

外堀が保存されているらしいので行ってみようと自転車を下ろした。

門を出て道路を渡ると20mくらいで石垣は全てだった。どうやら堀めぐり観光舟の船着き場のようだ。営業している様子はないが検索してみると料金は一人800円らしい。うーむ(;^_^Aこの農業用水を巡るのに800円か。船を使わずに自転車で回ったら100円とか言われそうなので早々に撤収することにした。

駐車場に戻って近くにある石垣を見物していると「草刈ってまんねん」と看板を立ててかわいらしいロボットが働いているのに出会った。

心が和んだ。市の観光課にも城跡の持ち主にもきっと事情があるのだろうとロボットが教えてくれた。

藤堂高虎生誕地

こんな偶然もあるというお話。

明日,Twitterの友だちとオフで会う約束をしている。如何せん,雨上がりの道を一日走ったために車が汚れて体裁が悪い。そこでガソリンスタンドの洗車機の列に並んだ。

二人で拭き上げを終え,ボクが自転車を積む間にドレミが近くの銭湯を検索して見つけた町営の入浴施設に電話した。
「え?250円ですか。町の住民じゃないんですけどいいんでしょうか。」
…いいらしい。
最近,銭湯の相場は平均で500円くらい。放浪の旅を趣味として何日も利用するボクたちにとって小さな額とは言えない。実際,前夜もサイクリングの後,土砂降りの中を観光用ではない町中の銭湯まで車を走らせた。それでも確か450円だったか。250円はNOTEなんかに書いてしまっていいのか不安になるほどの破格である。それが偶然通りかかって洗車したスタンドの最寄りにあったのは幸運と言える。

だがホントの偶然はその施設に着く直前にあった。夕闇の中に看板を見つけて急ハンドルを切った。

入浴施設の隣りが「藤堂高虎出生の地」だった。

実は我が家のご先祖は代々津藩江戸藩邸詰めで「弓槍指南役」という薄給ながら役付きの藤堂藩士であった。高虎公は主筋のご先祖にあたる。これまで津城や伊賀上野城はもとより,築城の名人と言われた高虎公ゆかりの地をいくつも訪ねてきたが出生の地は盲点だった。そう言えば確か近江の出身で浅井長政に仕えていたと記憶していた。

小谷城を訪れた翌日にまるで導かれるようにこの地に来た。空がしっとりと夕焼けしていた。

「お一人さま250円です。」
…と,二十歳くらいと思しき町立香良の湯の美しい受付職員はにっこりと笑った。湯舟では耳にするともなく聞こえる地元の人たちの会話が旅情を満たす。

高速を使って一気に揖斐川の東まで走った。今夜の道の駅は揖斐川と根尾川という支流との洲にある。近くに民家はなく、迷惑をかけずに車泊しやすいことから、大型トラックの仮眠も多い。しかも渡って繁華街まで歩ける。

今夜は焼き鳥が食べたかった。

女子大生アルバイトらしき店員が見事に地酒の冷酒を注ぐ。

明けて今日も快晴。

ベンチを借りて臨時ドレミ美容院が開店した。今日は人と会うので気になっている眉毛を手入れするのだと言う。

手にしているのは厚紙に載せたディッシュペーパー。毛を散らかさないように持たされている。二週間に一度くらいのペースでこれをやってくれる。以前はタローの肉球の間の毛とボクの眉毛の手入れがセットだった。

この町の名産地らしく柿の巨大なオブジェがあって,写真を撮ってSNSに上げてほしい旨が書かれた看板が立っていた。

それでは…と「はいポーズ」

オッケー…ってどうした?うずくまって苦しんでいる。

これだった。

墨俣一夜城跡

昼過ぎの約束までノープラン。こんなところに寄ってみた。

全国にお粗末な模擬城は数あれど,その中でもここは十指に入ろうかと思われるほどにひどい。鉄筋コンクリートの天守は江戸時代の大垣城の姿をモデルに建てられている。復元ではなく歴史資料館という体裁である。月曜のため休館だった。

書くまでもないことだが,墨俣城は戦国時代の斎藤氏の城で,一夜城に至っては織田軍の美濃攻略の際,木下藤吉郎のちの豊臣秀吉が短期間に築いた砦である。これはもはや史跡ではない。おそらくこの陳腐な城や橋は大垣市による国や地方の税金を使った公共事業だろう。

史実が絶対とは言わないし,伝説や物語も大切な文化だと思う。一夜城は観光資源としても知名度が高い。だが,それらあらゆる面から見てもやはりここの建造物はおかしい。知性に欠けている。史跡を管理する自治体には「それなり」の良心というものが必要である。例えば地元の歴史を学んでいる子どもたちの疑問にどう答えるつもりなのだろう。

もっとも揖斐川,長良川の川筋は頻繁に変わったために,墨俣城も一夜城も元の場所を特定するのは難しいそうである。目くじらを立てずにここは公園で城は歴史資料館だと思うべきなのかもしれない。

墨俣川古戦場

墨俣一夜城公園には駐車場がなく400mほど離れた集落の中にある小さな町営の観光駐車場から歩かなければならない。その帰り道の途中で,観光案内の看板を見ていたドレミがたいへんな発見をした。
「義円って,去年の大河に出てた人だっけ。」
え?!
源義円(ぎえん)は義経の兄,頼朝の異母弟。ドラマ「鎌倉殿の13人」では叔父の行家にそそのかされ,義経には騙されて打倒平家の挙兵に参加した。頼朝からも行家からも援軍を得られず,墨俣川で無念の最期を遂げた。…墨俣川。

ここではないか。

車で少し南下すると田んぼの中に古戦場碑があった。地元の人が義円を憐れんで丁重に葬った墓も残っているという。

墓へ向かうと,田んぼの中で細いアスファルトが直角に曲がっていて,左の後輪を半分はみ出しながら通過した。

こちら墨俣城と違って観光課ではなく教育委員会の管轄だった。

どなたが管理されるのか墓地は清潔に掃き清められていた。いにしえに思いを馳せるにふさわしい落ち着いた佇まい。史跡はこうありたい。墨俣に立ち寄ってよかった。

道の様子を知っていれば近くの道路に路駐させてもらって歩いて来ればよかった。

清正公社

友人との約束までずいぶんと時間がある。道の駅でドレミがショッピングする間に自転車を下ろして掃除した。

旅の前半は雨の中をオーリスの屋根に乗せっぱなしだった。その汚れを拭いてやるくらいしかまだ自転車の整備を知らない。

あおやんとはTwitterで知り合った。ボクはネットで知り合っても,気が合う人にはすぐに会いにいく主義である。ボクたちの訪名を聞いた彼は日程に合わせて会社の半休を取ってくれた。家を訪ねると奥さまとお子さんたち、それにネコのオルマくんまで総出で歓迎してくれた。もっとも以前からいろいろなものを送り送られているのでご家族とも初めて会った気はしない。

一緒に出掛ける場所は予め細かく頼んである。こんなときいつも希望をはっきりと伝えておくのはもてなす人を悩ませないようにとのボクなりの配慮である。ただ,ボクの希望する場所は少々変わってはいる。

あおやんとボク

加藤清正公(幼名虎之助)は中村の生まれだが,5才のときに父親を亡くし,母親とともに津島に住む叔父に身を寄せた。清正公少年期のゆかりの地が津島に残る。あおやんの家の近くだった。

ここはその叔父の家の跡地にあたり,明治初期に町の人たちが神社を建立して清正公社と名付けた。

津島湊跡

最近のトヨタの高級車は目つきが悪くイーンと歯をむき出したようなマスクがどうも好きになれない。もっとも高級車を買うだけの甲斐性もないので文句を言う筋合いにはない。イーンという歯のようなフロントグリルは糸車をデザインしたものだと聞く。言うまでもないが名古屋は紡績工場と織物の輸出港として栄えた。周辺には綿花や羊毛の集積地として貯蔵庫が密集していた。郊外には今もその建物がたくさん見られる。
「ほら、あれなんかそうですよ。」
と,あおやんが運転しながら言った。

「停めてください!」
…と今度はドレミ。車を下りiPhoneで熱心に倉庫を撮影している。夫だけでなく妻もかなり変わっている…あおやんも思ったことだろう。

2月まで夫婦で経営していた学習塾で,彼女は英語の他に社会科の授業を担当していた。
「イチノミヤ、ビサイ、ケオリモノ!」
子どもたちに覚えさせるためによく唱和させていたものだ。旅先で授業の参考になるものに出会うと,こうして写真に撮って子どもたちに見せる。だが,教室を閉めてしまった今,撮った写真を見せる子どもたちももういない。それなのにこうしてもう20年来の習慣が顔を出す。

次に訪れたのは天王川公園。こちらはカメラが趣味のあおやんに配慮して選んだ。少し時期が早いが藤棚で有名な公園である。

あおやんと並んで藤の撮影を競う。ボクが構えているのはX-S10ではない。この一瞬のためだけに5DとLレンズを2本持って来た。あおやんの操るNikonの一眼に敬意を表するためである。

5D Mark III+EF50mm f1.2L USM

天王川が佐屋川に合流するこの場所は室町時代から津島湊として栄えていた。強大な織田軍の資金源となった南蛮貿易の主力港の一つだったと考えられる。

二班に分かれてその史跡を探した。

中州を進んだドレミが撮ったボクとあおやん班
対岸からボクが5Dで撮ったドレミ班

残念ながら久しぶりに一眼を携行したボクの腰がギブアップして捜索は途中で打ち切りとなった。

これは後日再訪したあおやんが送ってくれた写真である。

清正公庵

この寺に辿り着くのには苦労した。

かつては参道だったと思われる細い袋小路の突き当たりに入り口があり、Googleマップは裏の道を指示する。駐車場は二町ほども離れた場所だった。

ボクは熊本で鼻ぐり井出に感動して以来、すっかり加藤清正ファンとなった。中村はもちろん、明治神宮、白金、肥前名護屋から果ては韓国蔚山まで追っかけしている。幼少期のゆかりの地でじわり感慨に耽る。

清正公草子掛松(二代目)

その名の通り、幼少の清正公、虎之助が手習いの半紙を掛けて乾かしたという伝説が残っている。江戸時代以来、清正公ファンは数知れないのだ。

時間調整のために「名古屋らしい喫茶店に行きたい。」と言ってあおやんを困らせた。普通に昭和な東京人としては、喫茶店というものは夜10時くらいまでやっている不良のたまり場的イメージが強い。ところが名古屋ではモーニングが有名なように、朝は早いが夜も極端に早い。4時半頃なのに周辺の店は軒並み閉店時間間際だった。どうにか6時までやっている店を見つけてコーヒーを楽しんだ。

これはその喫茶店の駐車場から見た光景である。愛知の人には全く珍しくないそうだが東京人は普通に驚く。おそらく道産子でも信州人でも外国人でも驚くだろう。ボクの背丈より低いこの低木はイチョウなのである。銀杏を栽培している。祖父江や稲沢など名高い名産地が付近に集中している。

頃はよし。喫茶店を出て木曽町まで南下した。

お寺さんの境内を抜けた裏になんと屋台のラーメン屋さんが開店している。

これが噂のおてらーめん。

あおやんのリツイートで知った。ある夜、ご主人が雨に濡れた生まれたばかりの子ネコを見つけた。母ネコとはぐれたようで命も尽きようとしていた。ご主人は躊躇なくその子ネコを拾って帰り飼い始めた。その一連のツイートを見ていて、いつかこの屋台を訪ねようと決めていた。

しかも「その手は桑名の地蛤ラーメン」という魅力的な新メニューが登場した。同じく行く機会を伺っていたあおやんを誘ってオフ会の晩餐とシャレこんだわけだ。

ラーメンを啜る兄弟のような二人はさっき初めて会ったばかりである。

尾州の空が美しく暮れてゆく。

おしまい

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