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洗馬という地名の由来

(旧中山道クロスバイク行)ここまでのあらすじ
みどり湖駅からクロスバイクに乗って旧中山道をたどる旅は塩尻宿を過ぎ、かつての風景が残る桔梗ヶ原の南端を横切った。
その1/みどり湖駅事件はこちら

国道19号

旧中山道と国道19号が一致している区間を走る。国道19号線は他の幹線道路と同様に長距離トラックの通行量が多い。

郊外であっても日本の幹線国道を自転車で走るのはとても危険であるし、ボクのようにのろのろと走っていてはドライバーの迷惑にもなろう。木曽路に向けて緩やかに上り始める国道19号で、少しでも迷惑にならぬよう車との相対速度差を縮めるためにボクはめいっぱいがんばってペダルを踏んだ。

だから大看板を掲げたこの宿を目にしても一度は止まらずに行き過ぎた。だが、どうしても気になってわざわざ戻ってしみじみと眺めた。風呂に入れる宿…周辺には風呂に「入れない」宿が多いのだろうか。いやいや仮にこの形容詞節が食堂にだけかかるとするとあり得る差別化である。…が、長距離トラックドライバーが利用できるような大きな駐車場があるわけでもない。一般の観光客や周辺の住民がランチついでに風呂に入るという推論も説得力を欠く。この謎を確かめる術はない。

風呂に入れる宿から100メートルも離れずにさらに驚くべき物件を発見した。「食事・厨房弁慶」…周辺には木曽殿ゆかりの地がひしめく義仲ファン一色の土地柄である。しかも19号線のわずか30km先に木曽義仲が聖地木曽町日義がある。このロケーションで義仲を殺害した鎌倉軍のヒーローたる弁慶の名を冠した看板を掲げる度胸にも感嘆するがそもそも経営が成り立つのだろうか。

肘懸松

1kmあまりで旧中山道は19号を離れ、洗馬の集落へ下りていく。

洗馬宿は奈良井川の河岸段丘を下ったところにある。おそらくは豊富な湧水の地に宿が形成されたと思われる。坂道を慎重に下っていく。途中に立ち寄る松の木があるはずだ。こんな急坂を戻るのは御免被りたい。

「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松だが、枯れて現在は2代目。細川幽斎が

肱懸けてしばし憩える松蔭にたもと涼しく通う河風

句碑より

と詠んだことから肱懸松と呼ばれている。細川幽斎は足利義昭を見捨て、兄三淵藤英を裏切り、親友明智光秀を裏切り、最後に豊臣家を裏切ってちゃっかり江戸時代に生き残った人というのがボクの印象だが、なぜ休憩しただけで松の木が史跡になるほど人気があるのか解せない。

また、二代将軍秀忠が上洛の折、肱をかけて休んだとの説もある。二代将軍としてならば征夷大将軍を家光に譲位するための1623(元和9)年の上洛をであろうかと思われる。だが壮大な将軍の行列が本陣までわずか300mの地点で休憩したとは少々考え難い。

松は枯れても沿道の風情は明治の頃と変わらないようだ。

洗馬の分去れ(わかされ)

坂を下りきった集落の入り口に、松に比べるとはるかに重要な史跡がある。車で何度も通っている場所だがこれまで碑の存在に気づかなかった。

石柱に「右中山道」とある。左は北國脇往還のここが起点である。

分去れ(わかされ)とは土地の言葉で追分のことである。中山道は右に折れて相生坂(肱松の坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。江戸へ30宿59里余。左は松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺へ17宿19里余。常夜灯は安政4年の建立。

…ん?移された?50メートル?

長いサイクリングの後でもう太ももが笑っている。50メートルでも進退に迷ったがやってきた。これが常夜灯。171年前の建立にしては少々きれいすぎる。

あふたの清水

あふたの清水へはこの細道を70メートル下れと看板にある。

自転車を置き、笑う太ももを引きずりつつ進むとすぐに木の看板があって励まされる。

邂逅(あふた)の清水

案内板に依れば、

「平家追討のため基礎から出てきた木曽義仲と、松本今井から馳せ参じた今井兼平の主従がこの地で邂逅(かいこう)したと伝わる。義仲の馬は疲れきっていたが、この清水で足を洗うとたちまち元気になったという伝説もあり洗馬の地名の由来とも言われている。」

案内板

看板、案内板はやたらと立っていて、石碑には漢文、木製の立派な立て札には墨書したものと思われる同じ漢文が書かれている。看板が多すぎるところが少々気になる。しかし馬の足を洗ったとすれば、その人はやっぱり兼平であり馬上には義仲ということで異存のある人はないだろう。かくして広大な地域に及ぶ洗馬の地名は木曽義仲と今井兼平主従にゆかりとなっている。

清水にはもう一ヵ所、「太田の清水」と呼ばれる場所がある。邂逅の清水から2kmあまり北の集落の中でこちらは村の名まで太田(あふた?)となっていて、正統性を主張するかのようである。

太田の清水(別の日の取材)

天保の頃美濃今尾藩士の豊田庸園という人が休暇を利用して善光寺街道から北國往還を旅し、それを旅行記にまとめた。これを名古屋の版元美濃屋が見出し、挿絵をつけた「善光寺道名所図会」全5巻として1849(嘉永2)年に刊行した。この豊田庸園氏、たとえば第2巻では「静の墳墓」と題して実に11ページに渡って大町に残る静御前の伝説を追っている。他の史跡に比べて偏向も甚だしい。もうボクと同輩の匂いがぷんぷんする。もし出会わば一升徳利を挟んで一晩でも語り明かしたい御仁である。

彼の旅行記は善光寺往還の起点たる洗馬から始まっていて太田の清水についての記述もある。

国立公文書館デジタルアーカイヴより

この挿絵を見る限りではロケーション的に邂逅に軍配が上がりそうである。ところがこの前のページにある紹介文では

「太田の清水といふ洗馬駅を出で左の方にあり太田村の内なり」

善光寺道名所図会

とある。太田村の内となればこの勝負「太田」ががぜん有利となる。ところが彼の説明には肝心かなめ「太田→逢った」の今井兼平が登場しない。

ところで義仲の伝説は旧中山道より西の山中にむしろ多い。

朝日村針尾地区にある義仲公祠と沿道で見つけた壁絵(別の日の取材)

平安時代当時、何らかの理由で木曽から桔梗ヶ原に至るには奈良井川沿いではなく、鉢盛山東麓の尾根を伝って朝日村に出ていた可能性が高い。尾根伝いでは馬の疲弊もあろうし、今井から朝日村ならば兼平の出迎えにも説得力がある。馬の足を洗ったのが朝日村だったとすると西洗馬の鎖川沿いであろうか。

脇本陣林泉園

車を停めてある洗馬駅の入り口を通過してもう少し南下する。

洗馬宿も跡ばかりで何もない。

さてこの脇本陣は代々志村という名家によって守られていた。とくに林泉の園と名付けられた庭は名園として知られ、前日の「善光寺道名所図会」にも絵が見開きで掲載されているほどであった。

国立公文書館デジタルアーカイヴより

そして志村家最後の当主の子が小穴隆一という名の洋画家である。…と言ってもボクも存じ上げなかった。芥川龍之介のファンならあるいはピンと来る方もおられよう。小穴は龍之介の大の親友で、小説の装丁や挿絵も多数手がけている。芥川は「小穴の語る庭への思いに触発されて小説「庭」を著した」と現地の案内板にあった。以下がその冒頭である。

それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。庭は御維新後十年ばかりの間は、どうにか旧態を保つてゐた。瓢箪なりの池も澄んでゐれば、築山の松の枝もしだれてゐた。栖鶴軒(せいかくけん)、洗心亭、――さう云ふ四阿も残つてゐた。池の窮まる裏山の崖には、白々と滝も落ち続けてゐた。和宮様御下向ごの時、名を賜はつたと云ふ石燈籠も、やはり年々に拡がり勝ちな山吹の中に立つてゐた。

芥川龍之介「庭」(青空文庫より)

脇本陣は本陣に、志村は中村に変えられているが林泉園がモデルであることは疑いない。ところでボクの身長は183cmなので塀があっても元林泉園はゆうに眺めることができる。

どうやら今は家庭菜園になっているようだ。

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