大谷吉継ゆかりの地を訪ねる敦賀旅/後編
ユダヤ難民上陸の港
明けて敦賀2日目の朝は梅雨空の予報に反して快晴。
夏のサイクリング旅は日中を避け早めの始動しよう。
ホテルをチェックアウトしてスタート地点の金ヶ崎緑地駐車場へ移動する。その緑地公園内にこんな場所がある。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」によって日本を経由でヨーロッパを脱出したユダヤ人の多くが敦賀に上陸した。
この歴史をご存知のユダヤの皆さま、どうか今度はガザの人々を救ってください。
まだ時間が早いので博物館もショップも開いていない。
朝鮮鐘
敦賀半島(立石半島)の付け根から1/3ほど海岸線を北上したところにある常宮神社まで15分くらいと予測していたらとんでもなかった。三浦半島でも日立の海岸線でも、もう何度も痛い目を見ていたのにまた甘く見ていた。海岸線の道路は浦ではほぼ海抜0m近いが、岬では通りやすい峠を越えていく。これを繰り返すのでけっこうきついのである。
常宮神社には慶長の役で渡海した大谷吉継が日本に持ちかえった鐘が収蔵されている。秀吉の命を受け、吉継によって奉納されたものだ。
もともとは鐘撞台に吊るされていたため、表面には江戸時代に拝観に来た旅人が日付や氏名を墨書した落書きが無数にある。ところがこの鐘は朝鮮鐘(ちょうせんしょう)の中でも新羅時代に鋳造された貴重な古鐘であることが分かった。1900年に明治政府によって重文に、さらに戦後の1952年に国宝指定されると状況は一変した。
収納庫に厳重に保管され、現在、観覧には予約と300円の料金が必要である。前日、電話予約した時間から大幅に遅刻してしまったが、宮司さんの奥さんは快く扉を開けてくれた。
ここで触れておかなくてはならない問題がある。それは戦利品として無断で持ち出した美術品を国宝として保有することの道義的是非である。実際に鐘のあった韓国慶尚南道の晋州では返還運動が起こり、2013年には代表者一行が常宮神社に押し掛けるという事件が起きたそうだ。
ロンドンの大英博物館やニューヨークナショナルギャラリーを見学すると、アジア、アフリカや南米の展示品の大半はそれを生んだ文化を有する国や地域から無断で、もしくは戦利品として持ち出されたものと思われる。中にはファラオの棺や仏像など移動すること自体が宗教や文化に対する冒涜にあたるものも含まれている。私見だが、これらの美術品は速やかに当該地域もしくは国に返還すべきだと考える。
さて、大谷吉継が持ち帰ったこの鐘だが、大英博物館の収蔵品とは事情が異なるとボクは考えている。「観光地ではない」慶尚南道を旅したことがある方はよくご存知かと思われるが、かの地の寺院や仏閣には李氏朝鮮による仏教弾圧の爪痕が激しい。それは織田信長や明治政府による廃仏毀釈の比ではなかったことが想像に難くない。
吉継が鐘を見出したのはおそらく廃墟の中からであったと思われる。彼自身はキリスト教に改宗していたという説もあるが、少なくとも大谷家は浄土真宗門主や本願寺住職家もしくは真宗大谷派に属する坊官であった可能性が高い。韓入りし、荒れ果てた寺院の様子に心を痛めた吉継が瓦礫から鐘を掘り出し、舟奉行の立場を利用して日本に送ったと考えるのが妥当であろう。実際、慶長の役は楽勝の戦いではない。重い鐘を戦利品として持ち帰る余裕はなかったはずだ。
以上が大谷吉継の朝鮮鐘に関する考察だが、それを踏まえた上で、やはりいつかは両国間の正しい歴史理解と合意の上で元あった晋州に返却するのが筋だとは思う。
ここのところの仕事疲れだろうか。帰り道あたりからドレミの体調が思わしくない。
「大丈夫、シュウが予定している場所には全部行くよ。」
…そ、そうか。でもまだけっこうあるぞ。
↓尺が3分50秒になってしまったのですが、サイクリングの様子がようございます。どうぞごらんください。
永賞寺供養
永賞寺には吉継の菩提寺として供養塔がある。
伝承通りならこの供養塔は関ヶ原の9年後に建立されたことになる。
堂内にあった記念帳に名前を加えた。
この日の午前中だけでもボクたち以外に福島、和歌山、愛知、神奈川など全国からの参拝者が記帳していた。
それにしてもこれほどゆかりの地の少ない人気武将もなかなかいない。敦賀、余呉、米原、2013年の関ヶ原、そして2017年に訪ねた名護屋の陣跡…おそらくボクたちはこれで大谷吉継の名を残すすべての史跡を制覇したと思われる。
おぼろ昆布を贖う様子が含まれています↓
大谷吉継は、まるで初夏の一陣の風のような爽やかさで戦国の世を吹き抜けた。そしてほとんどその痕跡を残してはいない。
おしまい