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死について

死ぬってどういうことなのかな、とたまに考える。あのころ社会現象にもなった漫画『デスノート』には、死とは「無」だと書いてあった。小さいころ(歳がばれるね)、わたしはそれが恐ろしかった。しかしそれは真理という気もした。死とは「無」であるということを、わたしは未だにときどき思い出し、そして怯えている。

村上春樹『ノルウェイの森』では、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」と語られる。死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。死は、生の逆さまにあるのではなく、生という行為のなかに、もとより含まれている。生きることと、死ぬことは、表裏ではなく、セットなのである。そもそも生という概念は、死という概念があってはじめて成立する。つまり、生=「死ではない」。キズキを失った「僕」の、あるいは村上春樹の言いたいことは、自分もあるていど歳をとってから、実感としてよくわかるようになった。生きていると、しばしばどうしようもない「死」に直面する。それは身近なひとを失うことだったり、もう会わなくなっただれかの話だったり、TVの画面越しに見る悲しいニュースだったりする。死は、生活のすぐそばにある。

ドラマ『デート 〜恋とはどんなものかしら〜』(脚本・古沢良太)では、母を亡くしたヒロイン・依子が、父に向かってこう説く。

「量子力学によると、万物はすべて粒子によってできているのよ。つまり、死とはその人を形作っていた粒子が気体という姿に変形することにすぎないの。お母さんの粒子は存在し続けるわ。お母さんは、ここや、そこに居続ける」

わたしは魂を信じている。肉体が死んだあとに残るなにかが、魂なのではないかと思う。それが粒子かどうかはわからない。あくまでわたしの視点から、ですが、たとえばフジファブリック志村さんの残した声や、イントロとAメロの合間に残る呼吸音はまちがいなく魂だとわたしは、思う。あのとき火葬場で骨を見たときに感じたとくべつななにかもたぶん魂だと思う。先輩の部屋に掛けてあったジャージも魂だったと思う。お葬式で思い出した近所のおばあちゃんの声も。ふと脳裏をよぎるだれかの言葉も。家族が亡くなったあとから母が聞くようになった誰もいないはずの部屋からする足音も。夢で会ったあなたも。うまく言えないけれど、そういういろいろが、きっと魂なのだと思う。それは生命の欠片みたいなもので(手触りはあったりなかったりする)、どんなひとでもその欠片を、すこしずつ、すこしずつ、この世界のいろいろなところにこぼしながら生きていくのだと思う。残響音みたいに。わたしはときどき、その音を聴く。

最後に、大好きなASIAN KUNG-FU GENERATIONの「青空と黒い猫」(作詞・後藤正文)という曲から、ずっと大切にしている一節を引用する。

誰の身体もいつかなくなって永遠はないのだろう
それだって⠀君の魂とどこか繋がっていたいと僕は思う

身体がなくなっても、魂と繋がっていることはもしかするとできるんじゃないかと思う。すくなくともわたしは、できるような気がしている。君の魂と、これからもどこかで繋がっていたいと思う。だから君のことを想って祈る。そしてわたしの魂も、できればなるたけ大切なひとたちのそばに在りたい。いつか身体がなくなったとしても。

#エッセイ #コラム

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