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春風の向こう

わけのわからない男とわけのわからない別れ方をしていたずらに精神を磨耗させていたわたしは、とにかく早く新しい彼氏が欲しかった。大野くんに声をかけたのはそんなときで、たまたま知り合ってちょっと良いな♡と思っていたからもっと仲良くなりたかったのだ。

今でも覚えている初めて待ち合わせをしたのは渋谷駅の京王井の頭線改札で、わたしはチャットモンチーを聴いていた。大野くんは1時間遅刻してきた。初デートに1時間も遅れてくるなんてずいぶんな度胸だと思うが、今となっては彼らしい気もする(ものすごい遅刻魔だったのだ)。でもそのときはとにかくうきうきしていたから、1時間遅れようが10時間遅れようがたいした問題ではなかった。現れた大野くんは、ほんとごめんと言って謝った。わたしは許した。久しぶりに顔を見たけどやっぱり良いな♡などとのんきに思っていた。

わたしは大野くんの顔が好きだった。特別かっこいいというわけではなかったと思うけど、端的に言ってタイプだった。一重で黒髪で塩顔で色白だった。彼はその日BEAMSのニット帽をかぶっていて、それがまたばつぐんに似合っていた。わたしはBEAMSの小物を持っている男に弱い。

ふたりでチェーンの安いイタリアンに行ってパスタを食べた。そこでいろいろの話をした。学校のこと、住んでいる場所のこと、好きな音楽のこと、友達のこと。話は尽きなくて何時間でも居た。煙草吸うんですかと聞いたら、たまにね、と答えていたのが印象的だった(たまにじゃなかったのだが)。「おとな」だ、と思った。当時わたしは高校生だったから、まわりには煙草を吸う友達もお酒を飲む友達もいなかった。大野くんは、わたしにとって初めての「おとな」の友達だった。

2回目のデートは鎌倉に行った。わたしよりはるかに高い女子力を備えた母に「鎌倉とか行っちゃえば♡」と入れ知恵されたのだ。いきなり鎌倉だなんて(あまりにデートスポットなので)そんな大胆な、と思ったが、おそるおそる鎌倉行きませんか?と聞いてみると、大野くんはいいよ!と快諾した。

そのときは江ノ島の海鮮料理屋で魚の定食を食べた。大野くんの箸のつかいかたが、きれいだ、と思って見ていた。大野くんは育ちの良さをふんわりとまとった感じのひとだった。その日着ていたラルフローレンのピーコートもよく似合っていた。冬を脱し始めた江ノ島には春風が吹いていた。サムエル・コッキング苑の展望台も風に煽られてぐらぐらしていた。揺れに弱いわたしはそれにちょっと酔って、具合が悪くなったので展望台を降りてしばらくベンチに座って休んだ。そのとき隣同士で座った距離が思ったより近くて、ちょうどお互いの肩と肩がちょっと触れるくらい、その近さに、わたしはすこしどきどきした。

あの日の夜の江ノ電から見た、暗い七里ヶ浜の海のことを今でもときどき思い出す。このままずっと電車がどこにもつかなければいいのにって思った。わたしは大野くんのことがすこし好きになっていた。

3回目のデートには、大野くんが好きだと言ったポニーテールにわざとして行った。わたしにもそういうかわいい時代があったのだ。いまはもうない渋谷の寂れたゲームセンターで、古い筐体のテトリスだかぷよぷよだかをした。わたしが弱いので大野くんがからかった。そのあとカラオケに行った。大野くんはそこでフジファブリックを歌った。前述したわけのわからない男のせいでメンがヘラっていたのに加え、志村の詞が良すぎてわたしはちょっと泣いた。泣いているわたしを見て、大野くんは「おれと付き合う?」と聞いた。今でも覚えている。「おれと付き合って」でも「きみと付き合いたい」でもなく、「おれと付き合う?」だった。

わたしは考えると言った。そのとき大野くんは、いいよゆっくり考えな、と言って堂々と笑っていた。そういうときに焦らなくて、平然と待っていられるところが好きで、

だからわたしは付き合うことに決めた。そのことを伝えに、一週間後、大野くんの最寄り駅まで訪ねた。大野くんは川の近くに住んでいたので、その川を散歩しようということになった。わたしたちは川沿いをゆっくり歩いた。とりきめではないが、わたしは大野くんに、付き合うにあたっての、いくつかの頼みごとをした。大野くんはやっぱり平然としていた。煙草やめるね、と言った。はじめて手をつないで歩いた。川沿いには桜が咲きはじめていた。あたりには生ぬるい春の匂いがずっしりとたちこめていて、わたしは窒息しそうだった。あの日はたしか曇っていた。それでもなにもかもがきらきらしていた。

大野くんのことを思い出すとき、わたしはいつも別れたところから2年間をゆっくり、ゆっくりさかのぼって、最後にはこの春景色にたどりつく。あの日世界でいちばんきらきらしていたふたり。花びらの舞う川。風に揺れるサムエル・コッキング苑。チャットモンチー。おれと付き合う?

もしもう一度おれと付き合う?の地点まで戻ることができたとしても、わたしはきっと付き合うって言うだろう。もう二度と会うことはないかもしれないけれど、あの春風の向こうに、今でもときどきピーコートの背中が見える。

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