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存在の輪郭だけを覚えている男の子の話

彼のことはもう顔もうまく思い出せない。

そのころわたしはギターを弾いていた。予約していたスタジオに入ると、前にそこを使っていた男の子が出てきて、わたしと入れ違いになる。わたしが挨拶すると、男の子も挨拶した。背が高くて、ひょろりとした、たぶん同い年くらいの男の子だった。男の子もギターケースを背負っていた。

わたしは扉を閉める。チューニングをする。ポーン……。ポーン……。音をたしかめていると、急にガチャリと扉が開いた。驚いて見るとさっきの男の子が立っていた。「あの、これ」男の子は紙切れを渡すと気まずそうな顔をしてすぐに去っていった。「?」紙切れを開くと、殴り書いたような字で名前とメールアドレス、その下に「よかったらメールください!」と書いてあった。

その日の夜にメールしてみた。男の子は県内の高校生で、わたしより2歳年上ということがわかった。一目惚れしました、と男の子は言った。今度横浜でデートすることになった。

その日のことはなんとなく覚えている。たしか横浜ではオムライスを食べた。もっと後になって気づいたのだが、その店はいつも料理が出てくるのが遅くて、その日もわたしたちはいつまでもオムライスを待ち続けた。知り合ったばかりのふたりにはやや過酷な時間だった。わたしは緊張してオムライスを少し残した。そのあとは楽器屋に行った。当時は楽器屋にもバンドスコアが売っていて、わたしたちはスコアを見て回り、このバンドが好きとかこの曲やったとかそういう話をだらだらした。男の子はそこで弦を買った。男の子は手ぶら主義でカバンを持っておらず、その弦はなぜかわたしが持つことになった。男の子はいたずらっぽく笑っていた。

男の子はBUMP OF CHICKENが好きだった。彼が「藤くんに憧れて、俺も黄色いギターにしたんだ。バンプ好きの夢でしょう」と話していたから、わたしは初めて藤くんの弾いているギターが黄色だということを知った。

別の日、制服が見てみたかったので、わたしは男の子の学校の近くまで遊びに行った。男の子は駅まで自転車で来てくれた。彼は背が高かったので、華奢だけど骨格のしっかりした肩にワイシャツもネクタイもよく似合っていた。「ウチ近いけど、くる?」「いいの?」「うん。映画借りてこう」わたしたちは駅前のツタヤでDVDを借りた。

男の子の家は一軒家で、彼の部屋は2階にあった。1階のリビングに明かりがついていたので、おじゃましま〜すと声をかけたけれど、誰の声もしなかった。「誰も居ないの?」「母さんか妹がいるかも」「いらっしゃるならご挨拶しなきゃ」「いーよいーよ。誰が来ても関係ないから」彼はそう言うとずんずん階段を上って行った。男の子ってわからないな、と思った。

「うちの母さん、あんま俺の友達に興味ないんだわ。男の子でも女の子でも。彼女でもなんでも。たとえば、俺が女の子を連れてきているあいだに、母さんが急に部屋に入ってきたとするよね。そのとき俺が女の子とキスしていても、あのひとは何も思わないと思う。アラ、仲良いのね〜って、それくらい。なんかちょっとズレてんだよね」

男の子は慣れた感じで言った。その横顔は急にお兄ちゃんめいて見えた。妹がいるとは聞いていたけど、このひとは本当に「兄」なんだな、と、なぜかそのとき強く思った。

わたしたちはふざけて借りたホラー映画を見た。男の子はわたしにぴったりくっついた。俺、くっついてるのが好きなんだ。でも、それ以上は別にいい、と言って、男の子はまたいたずらっぽく笑った。わたしたちはただ肩を寄せ合って映画を見た。そろそろ帰ると言うと、男の子はわたしを自転車の後ろに乗せて、駅まで送ってくれた。わたしはそのとき人生で初めてふたり乗りをした。超こわかった。男の子の白いワイシャツが風に膨らんで、夕暮れの中にぼんやり浮かんでいた。

付き合おう、と男の子が言った。いいよ、とわたしも言った。

でもそれから数日後に突然、やっぱり付き合うのはやめよう、とメールが来た。何がどうだめだったのか、わたしは未だに全然わからない。もしかするとわたしの何かが気に障ったのかもしれないし、冷静になったら違うなーとなったのかもしれない。まあ、良くも悪くもたいして深い関係ではなかったので、ふたつ返事で了承した。

ただ、こんな形でなんとなく別れることは当時のわたしのポリシーに反していたので、わたしはきっちりあの駅までお別れを言いに行った。行ったことは覚えているけど、何を話したのかはひとつも覚えていない。男の子は、最後にもう一回くっついてもいい、と言って、わたしの肩に頭を載せた。わたしはなんとなく、このひとは寂しいんだな、と思った。寂しいときは呼んでもいいよ、くっつくだけなら許す、と言った。うん、と男の子は言った。わたしは彼のことをもうあまり覚えていなくて、彼の顔も、苗字も、高校も、あの駅がどこだったのかも、うまく思い出せない。覚えているのは、オムライスを待ち続ける間に流れていた沈黙の重さとか、お母さんのことを話すお兄ちゃんの顔とか、藤くんのギターは黄色いとか、二人乗りは怖いとか、まあ、そんなような、要するにここに書いたような、些細でどうしようもなくて頼りないことだけだ。たぶん彼の方でも同じような感じだろう。生きていく過程で、わたしたちは何度も、ひとと、出会って、別れる。わたしはときどきそのかけらを、こうして拾い集めている。

#エッセイ #恋愛 #いつかの日記

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