見出し画像

祈りについて

きのう話した男の子が、一方通行の想いのことを「祈り」と表現していて、とてもよかった。

ふられたひとのこと、もう会えないひとのこと、死んでしまったひとのこと、会ったこともない誰かのこと、それらを想うとき、あなたは祈っている。

きもちはどこへ行くんだろうと思っていた。たぶんあれも祈りだった。もしかしたら届かないかもしれない想いを、無駄だと切り捨ててしまうのはすこし寂しいから。それを祈りと呼ぼう。優しく、あたたかで、かすかに希望をとどめたことばで呼ぼう。
(引用元:kai10 on tumblr 祈り

飲み屋でふと学友の言った「一方通行の想いのことを祈りというんじゃないかと思うんだよ」というのは、わたしが文学部生だった4年間のなかで得た、最も大きな学びだった。真理だと思った。そして、ああ、わたしはこういうことを学ぶためにここへ来たのだ、と思った。

彼のその思想は、かなりわたしの心を救った。たぶんこれからも一生、救い続けるだろうと思う。

生きていると、やるせないことはたくさんある。

19歳の時、つきあっていた男の子が、ある日突然音信不通になった。理由はよくわからなかった。たぶんいろいろな事情があったのだろうけど、なまじ2年も続いていたので、あまりに一方的に突きつけられた別れに、どうしても納得いかなかった(そもそも別れようとも言われていなかった)。でも、彼とはそれ以来、一度も話せないまま終わった。

しかたがないのでメールを書いた。すごく好きだということ、すごく感謝しているということ、どうか最後に、一度だけでも話したいと書いて送った。書いてる途中で涙が出てきた。もちろん返事はこなかった。でも、メールが(アドレス不備などで、センターから)返ってきたわけではなかった。だからたぶん彼の携帯には届いているはずだった。でも、読まれないだろうな、という気もした。そうなるとあのメールは、本当の意味で届いたわけではなく、かといってわたしのところに帰ってこれるわけでもなく、行き場がなく、宙をさまよっているのと同じだな、と思った。

大学の校舎裏にしゃがみ込んで、来ない返事を待っていた。なんとなく空を見上げた。いまこの瞬間、わたしみたいに、本当の意味で届かないメールを発信し続けているひとは何人くらいいるのかな。例えばこのキャンパスには、と思った。結構いそうな気がした。そうなると都会の空には、そこらじゅうに、届かないメールがふよふよ漂っているのだろうな、と思った。

わたしはそれから届かない想いのことを考えるようになった。

もっとむかし、高校生のころ、父親が言った。「あのな、こんな父さんでも、父さんと付き合いたいってひとも中にはいるんだよ。でも、父さんにはお前も母さんもいるだろ。だから好きって言われたって、つきあえないよな。じゃあ、そのひとはどうするんだよ? そのひとの想いは、どこにいくんだと思う? どこにもいけないんだよ。我慢するしかないんだ。世の中な、そういうことが、たくさんあるんだよ」

届かない想いはどこへ行くんだろう。もしどこにも行けずに、わたしの体内にどんどんどんどん蓄積されて、溜まっているとしたら。だとしたら、いつか体中が想いでいっぱいになって破裂しそうだ。であればわたしは、それらの想いを、せめてあのメールのように、とりあえず体外には放出しておきたいような気がした。行き場がなく、そのへんを漂って、さまよっているとしても。そう思うようになってから、いくつかの想いを宙に浮かべた。それらはずっと、ふよふよ、ふよふよとわたしのまわりを漂っていた。わたしは時々そのかたちを見た。たまには手ざわりをたしかめてみることもあった。

そうこうしているうちに大学4年生になった。そして学友の、あの言葉に出会った。一方通行の想いのことを、祈りというんじゃないか。それは大学の近くの飲み屋で、その時はもう卒業が間近で、各々が卒論にどんなことを書いたのか、それぞれ発表してそれについてああだこうだ言ったりしているときのことであった。件の学友は、ある小説について研究するうち、そういった仮説に行きついたらしい。彼は、一方通行の想いのこと。つまり、届かない想いのこと。たとえば、もう会えないひとを想うことや、死者を想うことを、祈りというのではないか、と言った。わたしはまさに頭を銃弾でぶち抜かれたみたいなショックをうけた。こいつには一生勝てない、と思った。

わたしは届かない想いのことを、ずっと否定的にとらえていた。行き場のない、漂っている、さまよっている、届かない、想いだと思っていた。祈りという言葉は、その響きのうつくしさで、それらをとても澄んだ、きらきらしたものに昇華してくれるような気がした。名前は、かたちを、意味をつくる。ピンクというのと、さくら色というのでは、微妙に色の見え方が変わる。ただの雨を時雨と呼ぶことで、それは季節になる。あたりに漂っていた「届かない想い」たちは、「祈り」に変わった途端、どこかへすうっと溶けていくような気がした。

あの日、わたしの届かない想いたちを、彼が祈りと名づけてくれた。だから今日も、わたしは祈ることができる。祈り、という言葉には、愛や、希望や、やさしさなどが、含まれている。愛している。ゆめをみている。いとしいとおもう。だからひとは、祈る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?