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前世で兄妹だったひとの話

中学生のころ、彼氏みたいに仲良くしている男の子がいた。 毎日のように一緒にいて、いろんなところに出かけた。マックにゲーセン、カラオケ、本屋さん、映画も何度か観たっけな。趣味もフィーリングも合う男の子だったから、何をしていても楽しかった。わたしはときどき、彼と一緒に歌いながら歩いた薄暗い冬の帰り道のことを思い出す。わたしは彼の、低くて優しい声が好きだった。彼に教えてもらった歌のいくつかを、わたしは今でもときどき口ずさむ。

そういえば電話もよくした。当時はまだ自分の携帯がなかったから、いつも家に電話していた。ときどき彼のお母さんが出て、あら〇〇ちゃんねと代わってくれた。今じゃそんな世界のこともう忘れてしまったけど、当時はそういうことがごく当たり前にあって、仲良くしている男の子のお母さんに名前を覚えてもらえるのはすこしうれしいことでもあった。

彼のお母さんはわたしのことをどう思っていたのだろう?一時期わたしは彼の家へしょっちゅう遊びに行っていた。お母さんは仕事の帰りが遅くて、大抵家にはいなかった。毎日花瓶のそばにお札が何枚か置いてあって、これ夕飯代と彼は言っていた。額からしてかなり裕福な家庭だったのだと思うが、これを毎日少しずつごまかして貯めてCDを買うんだよと彼は笑っていた。わたしは彼のそういうところを好ましく思っていた。わたしはどちらかというと厳しめの家庭に育った子で、いつも猫のようにひとりで気ままに過ごしている彼のことをときどきうらやましく思った。でも、彼の家で遊んでいる間はわたしもその家の子のような自由さをすこしだけ味わうことができた。わたしたちはいつも、テレビを見たり勉強したりマンガを読んだり音楽を聴いたりどうでもいいおしゃべりをだらだら繰り広げたりしていた。それ以外にはなにもなかった。

年ごろの男の子と女の子が家にずっとふたりでいて、なにもないのもへんな話かもしれないが、でも本当になにもなかった。冒頭に「彼氏みたいに仲良くしている男の子」と書いたとおり、彼はあくまで彼氏ではなかった。わたしたちは好き同士であると確認し合ったこともなければ、もちろん手を繋いだこともなかった。かといって、ただの友達と言うには仲が良すぎている気もしたし、少なくともわたしの中ではなにか一線を画した存在にはちがいなかった。彼はひとりっ子で、わたしもひとりっ子だった。でも前世ではたぶん兄妹だった。わたしたちの関係性にもし何かしらの名前を与えなければならないとしたら、前世で兄妹だったひと、というのがもっとも相応しいようにさえ、思う。

彼はそれくらい、どこか運命的なつながりを感じさせる男の子だった。もし「あなたにとっての運命の人を答えよ」と言われたら、わたしはまっさきに彼の名を挙げるだろう。そしてほかにも何人かのことを思い浮かべて、最後に恋人の名を述べるだろう。わたしは人生のこのあたりから、運命の人は何人か存在している、と思うようになった。つまりこれはあくまでわたしが選ばなかった運命の話だ。

あんなに仲がよくてなぜつきあうことにならなかったのか、今でもよくわからない。簡単にいえばタイミングの問題だったと思うし、難しくいえば彼の穏やかさは15歳の女の子にとっていささか優しすぎた(15歳の女の子というのは、ひたすらにときめきを求めている生きものなのだ)。わたしは彼のことがまちがいなく好きで、たぶん大好きだった。でも恋していたか、と言われると、よくわからない。もしかしたら彼のほうでも、多かれ少なかれ同じように思っていたかもしれない。

それでも、一度だけ好きだと言ってもらったことがあった。それは近所のしけた公園で、それは夜で、たしか冬だった。その男の子は、俺〇〇ちゃんのことずっと好きだった、と、ひといきに言った。でも、返事とかはいらない。伝えたかっただけだから、と、きっぱり付け加えた。あの横顔をいまでもぼんやり思い出せる。彼はなにかわかっていたのかもしれない。わたしは実際に返事をしなかった。これはわたしの人生で唯一、「いまの関係性が壊れてしまうのが怖い」という可愛い理由で、選ばなかった選択肢だ。

「男友達と一生仲良くするってのはね、むずかしいのよ。たとえば結婚したりすると、気軽に遊べなくなるしね」15歳のわたしに、母はそう言った。

15歳のわたしは、自分も男の子だったらよかった、そうすれば彼と一生仲良しでいられたのに、と、わりと本気で思った。

23歳のわたしは、母のひと言を間に受けて、というべきか、まあ胸に深く突き刺したまま大人になり、恋していたひとのうち一番の男友達と思えるひとを夫にした。

女の子と一生仲良しでいることはできそうな気がする。でも、男の子と一生仲良しでいることがむずかしいのはなぜだろう。

一般的に、女の子と関わりのある男の子たちは ①彼氏 ②男友達 ③彼氏だったひと のどれかに分類される。①はもし夫に昇格すれば、一生一緒にいられる可能性がある。②は世間の事情により、ふつうは、人生のどこかで疎遠になる(しかも、②の定義はひとによってかなり異なる)。③は最悪で、下手すると本当にもう一生会わない(①のひとが一瞬で③になるのはなんだかふしぎだ)。つまり、ある男の子と本気で一生めっちゃ仲良しでいようと思ったら、たぶんその子と結婚するほかないのである。結婚するというのは、ある男の子と一生めっちゃ仲良しでいるための、今現在もっとも現実的で、たしかな、唯一の、そして誰にもぜったいにじゃまされない方法なのだ。

なんかへんだなあ、と、わたしは思う。性別がちがうというだけで、ただ仲良しでいるということはこんなにもむずかしい。だから男の子のなかにも、①でも②でも③でもない、もっと新しいカテゴリーがあってもいいんじゃないかな、ということを、最近よく考える。言葉は脅威をもっている。ひとたび「このひと、男友達なんです」と言えば、そのひとは一瞬で、有無を言わさず、「男友達」になってしまう。そして、男友達ってこういうもんだよね、と、勝手にラベリングされてしまう。だからわたしはもっとちがう名前をさがしている。たとえば、前世で兄妹だったひと、みたいな。

前世で兄妹だったひととどれくらいの距離で、どういうふうに関わるのが正解か、だれも知らないでしょう。好きとか嫌いとか恋しているとか愛しているとか、そういう気持ちじゃきっとない、もっと名前のない気持ちで、わたしは彼のことを、いまでもずっと大切に思っている。

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