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「推しメン」にしていたひとの話

推しメンだれと聞かれて佐藤さんと答えたのだが、特に深い意味はなくて、ただいちばん塩顔で、ちょっと背が高かったからだ。わたしは薄い顔のひとが好きだ。目が一重で、色白で、黒髪のひとが特に好きだ。できれば肩幅のある華奢な人間だともっと良い。

ギャルの先輩は、えーせなさんってB専っスねと言って笑った。そんなことないです高良健吾さんとか市原隼人さんも好きなんでと言いたかったけど、めんどくさかったのでへらへらして流した。

佐藤さんは、陽キャが社会人になった拍子にすっ転んで鬱になったみたいな感じのひとだった。小中高と野球部だったと思うし、その野球部の中ではいちばん勉強ができたと思う(想像だけど……)。野球部仲間の野球バカにテスト前はノートを貸していたと思う。数学で学年1位をとったことがあると思う。佐藤さんはたしかに頭の良いひとだった。なにより話すのがうまかった。頭の良いひとというのは、言葉の節々に教養の深さや回転の速さが(本人が意識していなくても、勝手に)滲み出ているものなのだ。佐藤さんはそういう風にして「頭の良さ」をまとっていた。

でもそのかしこい頭で、気づかなくていいことにまで気づいてしまったり、考えなくていいことを考えたりしているのだろうという感じもした。だから「すっ転んで鬱になった」みたいな感じだった。たくさん気づいてたくさん考える人間は、たくさん苦しむ性なのだと思う。自分も同族だから解る。佐藤さんは会社を休むことが多かった。何故なのかはよく知らないし、みんなも触れないようにしていた。あるときギャルの先輩が、トイレで吐いては帰るのだとこっそり教えてくれた。

わたしは佐藤さんに興味を持っていた。彼が何を考え、何に苦しんでいるのか、気になっていた。それはただの好奇心だった。でももしかすると、あくまで勝手な、仲間意識のようなものかもしれなかった。そのころわたしは鬱っぽくなっていて、会社を辞めようか迷っていた。

ある日、ギャルの先輩が斡旋し、佐藤さんと飲みに行くことになった。ギャルの先輩にはあれ以来ずっと佐藤さん推し=B専をいじられていて、そんなに佐藤さんが好きなら一緒に飲みに行ったらいいじゃないスか、あたしセッティングしますよ!と謎にセッティングされたのだ。謎なので何度か断ったが、そのたびにギャルの先輩が拗ねるのが面倒くさくて根負けした。それに、まあ、佐藤さんのことをもっとよく知ってみたいと言えばもっとよく知ってみたい気もした。これは本当に感覚的な話なんだけど、わたしは佐藤さんと何か分かり合えるかもしれないと思っていた。

待ち合わせ場所に現れた佐藤さんはやっぱりすてきな塩顔で、わたしはちょっと機嫌を良くした。わたしたちはチェーンの安い居酒屋に入って、大学どことか、仕事どうとか、他愛のない話をひたすら繰り広げてとりあえずお酒を飲んだ。それまで佐藤さんとは、複数人の飲み会などで同じ場に居合わせたことはあるが、二人で話したことはあまりない、くらいの間柄だった。会社を出た佐藤さんは憑き物が落ちたように妙に陽気で、タメ口でいいよと言ってよくしゃべった(年はそれなりに近い)。だまされんなよ、と佐藤さんは言った。この会社、どんどん残業増えてっから。身の振り方を考えよ。ハイ、とわたしは頷いた。佐藤さんはなにが辛いですかと聞いた。べつに辛くねーよ適当にやってるし、と言って、佐藤さんは本当に笑っているのか愛想笑いなのかわからない感じで笑った。

ほんとうは体調なんか悪くないのだ、と佐藤さんは言った。鬱でもないし吐いてもない。あんなのはだいたい嘘で、ただめんどくさいから仕事サボってるだけ、と言った。乾いた感じで笑った。やっぱり本当に笑っているのか愛想笑いなのか判別できなかった。溜息をつくみたいにタバコの煙を吐いた。わたしはなにがなんだかわからなくなった。でも酔っ払った頭で考えたって何もわからないから考えることはやめた。

佐藤さんはお酒が強かった。合わせて飲んでいたら、知らないあいだにわたしはかなり酔っ払っていた。いつ、どのタイミングで、どうやって店を出たのかぜんぜん覚えていない。たぶんトイレから帰ってきたら会計が終わっていて、次の瞬間には歩道橋にいた。

その歩道橋の真ん中で、佐藤さんが急にわたしを抱きしめた。ちょっと意味がわからなかった。でも酔っ払った頭で考えたって何もわからないから考えることはやめた。佐藤さんってけっこう背ぇ高いんだな、とぼんやり思った。立って抱き合ったときに一番身長がわかる。見た目的に華奢だなと思ってきたけれど、ワイシャツの胸は案外厚くて広かった。男のひとだな、と思った。ホテル行く?と佐藤さんが聞いた。なんでだよ、と思った。意味わかんなすぎてウケた。だってこのひと1mmもわたしのこと好きそうじゃないんだもん。酔っ払った頭でもわかった。これがヤリ目とゆーやつか。

わたしはげらげら笑って行かねーよと言った。掴まれた腕をふりほどいた。そこに来たタクシーに乗った。なんだか急に何もかもに対してムカついてきた。佐藤さんにも。あのギャルの先輩にも。めちゃくちゃな会社にも。かなりアルコールがキマっていたのだと思う。わたしは酔いで感情の振れ幅が倍増するタイプだった。ムカついたかと思えばものすごく孤独になった感じもした。わたしは佐藤さんになにを期待していたのだろう。すくなくとも一緒にホテルに行くことではなかった。

わたしには好きなひとが居た。

そのひととは、ときどきふたりでごはんを食べるくらいの仲だった。いつもただごはんを食べて、たくさん話をして帰るだけだ。でもそれが楽しかった。彼はどんな近くに居ても絶対にわたしにさわらなかった。だから好きだった。あれはとくべつなことだったんだと不意に思った。わたしはとつぜん自分が女であったことを思い出した。わたしが男のひとに求めているものは体温ではなかった。基本的には人間として取り合われたかった。ときどきかわいいなと思ってくれたらなおうれしいけど。

次の日、会社に行くとギャルの先輩がニヤニヤしながら近づいてきた。佐藤さんとホテル行きました?と聞かれて背筋が凍った。そのときやっと自分がなにかハメられていたことに気づいた。あのとき断ってよかったと心から思った。あとから聞いた話だと、ほんとうに佐藤さんを推していたのはギャルの先輩らしかった。わたしはただ適当な答えで地雷を踏み抜いたのだ。

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