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諸子百家ZOOM 第5回 楊朱

奥深さは感じられなかった
老子とか荘子に比べると内容としては優しい
快楽主義というより個人主義
現代的で支持は集めやすく、twitterでバズるにはいいんじゃない?
個人の欲求や幸福の追求をここまでストレートに後押ししたのは珍しいのではないか
社会主義に対する対比
諸子百家の中では左側
幸福追求権を紀元前に言っていたのはすごい
ここまで時代が進んでも人間は快楽の欲求からは逃げられない
世事の苦楽は、古もなお今のごとし。変易の治乱は、古もなお今のごとし
五情の好悪は、古もなお今のごとし。四体の安危は、古もなお今のごとし
なんかの思想の味付け、スパイス、バックボーンとして使う
古典に新しさを求めるのは間違いだが、その発想はなかったは欲しかった
思想を言語的に考える
楊朱の言っていることは複数人には届かない
元気なうちに楽しもうで十分

エクストラ
誰もが真理を語れば聖人か。いいや違う。
荘子は価値観を現代に持ってこれない
万人が万人の論理を解くのが現代。
混沌に対してできることは何もない。
個々人の力の及ばない人々の寄り合いを社会と呼ぶか混沌と呼ぶか
混沌を理解しても理解した混沌とわからない混沌に分かれるだけ
混沌に解釈をつければ混沌にしかならない
混沌の全貌を明らかにするのは無理8
対比装置としての混沌
混沌と釈迦と楊朱
釈迦は混沌を相手にしなかった
釈迦は個人主義

将来の声望も枷にカウントしているのが、中国らしさを感じるポイントである。
じゃあこれ何に対するカウンターなんだろう?
→国家への献身のような、「大義とされるようなものへの献身」への否定としての利己主義・快楽主義(現在主義)
「楽しむ」を中心に据えると、自分を大切にせざるをえなくなる。
→自分を大切にできない人間に対しては、効果的な処方箋に見える。

イザヤ、22,13 「見よ、あなたがたは喜び楽しみ、牛をほふり、羊を殺し、肉を食い、酒を飲んで言う、「われわれは食い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから」。」

「死後、歴史に評価される」という 歴史思想に対する挑戦。

頭の中に浮かぶプロ乞食。あるいは
MIU404の菅田将暉がやってた久住

ただし、個人の規範から抜けた瞬間に、
快楽主義を行う土台が崩壊しちゃうって問題がずっと残り続ける。
※権力・暴力のような、「力」と快楽主義の相性が良くない。
訓練や、蓄財、コネクションの形成。のような

〇個人主義は、社会につかれた人間に対する清涼剤にはなるが
代替案にはならない。

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