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時間と死だけは万人に平等である

誕生日、おめでとう。私の親友でもある年子の姉の誕生日。
直接祝うことができなくなって何年だろうか。来年こそは姉の誕生日に直接おめでとうが言えますように。

こんなめでたい日に書くような記事ではないかもしれないけれど、私の素直な気持ちを毎日綴っていきたいから、やっぱり書くことにする。

私は恐ろしいことにいつだって「死」を意識して毎日を過ごしている。決して穏やかではない話題でごめんなさい。意識はしているのだけれど、死にたいと毎日思っているということではない。

覚悟、といったら覚悟はもちろんできていない。
準備、という方が適切かもしれない。

「死」を意識しているから多分、後悔しないようにと生きている。大学生の頃から親友に「なんか、生き急いでる?」と言われた事がある。昔からなぜか私は忙しそうと思われることが多いのだけれど、忙しいわけでなく限られた時間をいかに有効的に使えるか、を考えて生きていただけ。

私の人生において、初めて人の「死」を目の当たりにしたのは私の祖父が亡くなった時。何歳だったかは正直はっきりと覚えていないけれど小学生の頃だった。小さかったけれど、死ぬということは何かをしっかりと理解はできていた。

「どんなに恋しくたって、後悔したって、一生この人に会うことはないし、声を聞くことも笑顔を見ることもできない。」

きっと周りの大人たちは私があまりにも小さかったから、死をはっきりと理解できていないと思ったのだろう。彼らは、嗚咽しながら泣き続ける私に少し困惑の表情をむけていた。私は、充分すぎるほど理解していたのに。

次に「死」に対して衝撃を受けたのは、新入社員として働いていた会社の別の課の次長が亡くなった時。彼が亡くなったのは日曜日の早朝で、悲しいことに彼の家族が寝室で眠るように亡くなっている彼を発見した。金曜日にはいつも通り挨拶をして、「ああ、また休日出勤するのかな明日。」なんて思いながら私は先に退社した。月曜の朝、その課に所属する同期から社内メッセージが届き、一瞬時が止まったような衝撃を受けた。

同じ課ではないし、特にたくさん話した事があるわけでもなかった。けれど、ほんの目の前に毎日座っていた人がこの世にはもういないなんて、陳腐な言葉だけれど信じられなかった。

彼は家族に胸の不調を訴えていて、健康診断の検査結果が出る前日に亡くなってしまったのだそう。死因は心筋梗塞と判断されたけれど、実際はおそらく過労死だろうとみんな言っていた。

祖父が亡くなった時には、私の母親の意向で私が葬式に参列することはなかったので、24歳にして初めて誰かの葬儀に参加するという経験をした。24歳までに葬式に参加した事がないことは幸せなことなのかもしれない。後にも先にも、気持ちのいいものではないから。

葬儀に参列した後、しばらくはとても胸が重く、痛かった。小学生の頃の私はすでに死は理解できていたものの、大人になってからは虚しさという新しい感情も乗ってきた。

こういう経験をしたからこそ、会いたい人には会える時に会いに行こうと思っているんだと思う。また来週どうせ会えると思っていると一生会えなくなる人もいる。その気持ちは多分、鈍っちゃいけない。

そして私自身、生きることに疲れてしまう事がある。でも今こうして言葉を紡げているのは、私が死ぬことで、一生、私の愛する人たちを傷つけ続けることになるのが嫌だから。そんな莫大な責任を、私は負えない。

少し重たい話題になってしまったので、明日は少しでも明るい事が書けるといいな。では、また明日。



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