#054 僕たちは「成長の再定義」をするべき時期に来ている 前編

ここ数年「脱成長」に関する議論がいろんなところで盛り上がっていますが、ずっと違和感が拭えません。二つポイントがあります。

一つ目のポイントは、このような論点が建てられるとき、ここで言われている「成長」はそのまま「GDPの成長」が暗黙の前提になっており、「人間性の成長」や「文化的成熟の成長」や「社会関係資本の成長」が全く考慮されていないということ。

二つ目が、仮に「成長」が「GDPの成長」だとして、「成長か、脱成長か」という論点の立て方は、その両者を選択することが可能だいうことが前提になっていますが、これまでの経済成長率の推移を見る限り、私たちにはもはや「成長」は選べません。「脱成長」が必然なのです。下の図を見てください。

先進7カ国のGDP成長率の推移

これは世界銀行のデータをもとに、先進7カ国のGDP成長率を十年ごとに平均化したデータです。一目見ればわかる通り、私たちの社会はかつて一度として過去の経済成長率を上回ったことがなく、着実にゼロ成長にむけて成長率を低下させています。つまり、私たちにとって「成長」というのは、選択できるオプションではない、脱成長が必然だ、ということです。

私たち日本人は、先進国の中でも、日本だけが経済成長の波に乗り遅れているといった印象を抱きがちですが、そのような印象は事実に反しています。この数値は、経済成長率の低下が、個別の国の経済政策の巧拙によって発生しているのではなく、経済成長の末に成し遂げられた文明化=物質的生活基盤の完成によって発生する宿命的な事態なのだということを示しています。

私たちの世界は「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という指摘は大胆に思われるかも知れませんが、すでに多くの経済学者によってなされています。たとえばハーバード大学の経済学教授、ローレンス・サマーズ[1]は、先進国のGDP成長率が長期低落傾向にあることを指摘し、これを「長期停滞=Secular Stagnation」と名付けて解釈しようとしています。

サマーズは、2009年の世界金融危機後、連邦準備制度理事会(FRB)による積極的な量的緩和政策にも関わらず、アメリカ経済が期待をはるかに下回る弱々しい回復しか実現できず、金利が低下し続けている事態について「多くの専門家は予想もしていなかったはずだ」と述べています。つまり、サマーズは「これは金融危機による一時的な停滞ではなく、構造的・長期的なトレンドなのではないか」という問題提起をしているわけです。

さて、このような指摘に対しては、おそらく次のような反論があると思います。すなわち「GDPは非物質的な無形資産を計量していない。経済が非物質的な価値を生み出すことに大きくシフトしている現在、GDPに非物質的な産出(=Production)を参入すれば、結果は大きく異なるはずだ」という反論です。

この主張は昨今、いろんなところで喧しく言われていることですが、筆者としても、まずは「それはまあ、その通りでしょうね」と反応するしかありません。そして、その上であえて、そのような「GDPの延命措置」に対しては、次の三点に基づいた考察が必要ではないかと考えます。

一点目は、どのような補正をしても、結局のところGDPが「恣意性の含まれた数値」であることには変わりがない、ということです。GDPの算出に当たっては、目が眩むほど多くのデータポイントを拾いながら、どれを参入し、どれを参入しないかについての主観的な判断が、常に介在します。

たとえばガーナのGDPは2010年11月5日から翌日の6日にかけて、一夜にして60%も成長し、「低所得国」から「低位中所得国」へとランクアップしました。なぜこんなことが起きるかというと、GDPの計量には必ず政治的配慮が絡むからです。「低所得国」と「低位中所得国」では国際機関や金融機関から受けられる経済支援や金利優遇などのレベルが変わってくるので「どの程度の数値に落とし込むのがもっとも得か?」という問いに対する施政者の判断によって「政治的調整」が謀られるわけです。

さらに指摘すれば、計算上のさまざまな約束事の適用の仕方によっても数値は大きく変わってくることになります。例えば全ての国のGDPは最終的にドルベースで算出されますが、この時、各国の通貨をドルに換算するにあたって、為替レートでドル換算するか、物価水準(購買力平価)でドル換算するかで容易に10%以上の差が生まれます。

今日の日本ではGDP成長率の「0.5%の上下」に大騒ぎしていますが、そもそもGDPというのはそのような微差の議論に耐えられるような一次データではなく、ある「基本的に合意された方針」に基づいて各国の統計担当者が恣意的に拾い上げた数値、言うならば「一つの意見」でしかない、ということです[2]。無形資産の算入に関する議論ではしばしば「現在のGDPは実態を表していない」などといった言い方をする人がいますが、そもそもGDPには「実態」などありません。

このように考えていくと、必然的に二つ目の論点が浮かび上がってきます。それは、この「新しい計算方法」の導入には文脈に即した目的合理性があるのか?という問題です。私たちが何かを測ろうとするとき、そこには必ず「測る目的」が存在します。血圧や体重を図るのは「健康を維持する」という目的のためですし、水質や大気の汚染度を調べるのは「環境を保全する」という目的のためです。さて、では「GDPに無形資産を含むべき」という時、それは「何のため」なのでしょうか?

そもそもGDPは、百年ほど前のアメリカで、世界恐慌の影響を受けて日に日におかしなことになっていく社会・経済の状況を全体として把握するという目的のために開発されたものです。当時の米国大統領、ハーバート・フーバーには大恐慌をなんとかするという大任がありましたが、手元にある数字は株価や鉄などの産業材の価格、それに道路輸送量などの断片的な数字だけで政策立案の立脚点になるようなデータが未整備だったのです。

議会はこの状況に対応するために1932年、サイモン・クズネッツ[3]というロシア人を雇い、「アメリカは、どれくらい多くのものを作ることができるか」という論点について調査を依頼します。数年後にクズネッツが議会に提出した報告書には、現在の私たちがGDPと呼ぶようになる概念の基本形が提示されていました。つまり「測りたい問題が先」にあった上で「測るための指標が後」で導入された、ということです。

GDPの発明に関する一連の流れにおいて「問題が先、指標が後」になっていることに注意してください。ところが昨今のGDPに関する議論は往々にして「指標が先、問題が後」になってしまっています。図れるモノを図って、そこで出てきた問題を叩くという流れで思考プロセスが進んでいるのです。しかし、そもそも「問題」とは「ありたい姿」と「現状の姿」とのギャップとして定義されるモノです。これをGDPの「新しい方針」に当てはめて考えれば、「ありたい姿」を描かず、従って「問題の定義」も曖昧なまま、数値を水増ししてくれそうな「指標」を拙速に組み入れようとしている感が否めません。

本来、私たちがやらなければならないのは、そのような「GDPの延命措置」ではなく、「人間が人間らしく生きるとはどういうことか」「より良い社会とはどのようなものか」という議論の上に、では「何を測れば、その達成の度合いが測れるのか」を考えることでしょう。経済学者をはじめとした専門家の多くはこの種の議論を非常に嫌がりますが、理由は明白で、このように抽象的で哲学的な議論のプロセスでは「専門家としての権威」を発揮できないからです。

私たちがこれから迎える「高原の社会」では、環境や自然とのサステナブルな共生が必須のものとして求められます。そのような社会において、元々「どれだけのモノを作り出せるのか」ということを明らかにするために作り出された指標が、いまだに政治・経済の運営の巧拙を図る上で最重要な指標となっていることには驚きを禁じ得ません。

物質的不足という問題を大きく抱えていた時代にあっては、「どれだけのモノを作り出したのか?」を測るGDPという指標にはそれなりの意味があったのでしょう。しかしすでに前節において説明した通り、少なくとも先進国においては、この「物質的不足」という問題は解決されてしまっています。すでに遍く物質が行き渡った社会において「どれだけのものを作り出したのか?」という指標を高い水準に保とうと思えば、それは必然的に浪費や奢侈を促進し、モノをジャンジャン捨てることが美徳として礼賛される社会を生み出すことになります。しかし、そのような社会を私たちは本当に望んでいるのでしょうか?

いたずらに経済成長率という指標だけを追いかけることの危険性を訴え、経済成長と医療・教育・福祉などの充実をバランスさせるべきだと訴えたガルブレイス[4]の「ゆたかな社会」が世界的ベストセラーとなったのは1958年のことでした。その後、半世紀を経て、物質的満足度がすでに飽和しているにも関わらず、ガルブレイスの主張とは逆行するようにして、なぜGDPという指標が、他の指標に突出して重視されるようになったのか?

おそらくは「それ以外の適当な目標がなかったから」というのがその理由でしょう。かつてモンテーニュ[5]が言ったように「心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける[6]」のです。私たちの社会が指標としてとうに賞味期限の終わった指標を使い続けていることは、とりもなおさず、私たちが新しい目標となる構想を描くことができていないからからなのです。

だとすれば、いま、私たちがやらなければならないのは、拙速にGDPに延命措置を施すということではなく、そもそもどんな社会をつくり出したいのか、人が生きるに値すると思える社会とはどのようなものか?という点についてオープンな議論を尽くした上で、ではどのような指標を用いることで、そのような社会の実現に向けた進捗や達成度が測れるのか?ということを考えることではないでしょうか。

そして最後、三つ目に指摘しなければならないのが、ここから先も、私たちは「小さな米国」を目指して、かの国の後追いをやり続けるのか?という論点です。先述した通り、GDPという指標はもともと米国によって考案されたわけですが、この指標で国威を測るからこそ米国が常に優位な立場にある(ように見える)という点を忘れてはなりません。

元は英国の植民地であった米国において、なぜ英国でとても人気のあるサッカーやクリケットやラグビーというスポーツがまったく受け入れられず、バスケットボールやアメリカンフットボールや野球といった、他国に類のないユニークなスポーツが流行しているのか。これは米国と同様に、かつては英国の植民地だったインドやオーストラリアやニュージーランドにおいて、ラグビーやクリケットの人気が非常に高いことを考えてみると不思議なことです。

ここに開国以来、かの国に通底する「他国が得意な競技では決して戦わない」という強い選択的意図が読み取れます。アメリカの経済分析局はかつて「GDPは20世紀で最も偉大な発明の一つだ」と評しましたが[7]、そう考えるのも無理はありません。なんといっても、この指標で測るからこそ「米国は世界一の覇権国」であり続けられるのです。

そしていま、製造産業から情報産業へのシフトが大きく進む米国によって「非物質的な財=無形資産をGDPに参入しよう」という議論が主導されている。この議論の裏側に横たわるホンネを「今までは自分がよく見えるモノサシだったけど、このモノサシだと今ひとつ成長率が鈍くなってきた上に、猛烈な勢いで追い上げてくる国も出てきたので自分たちが優位に見えるようなルール改変を導入したい」と解釈すれば、この提案に対して眉に唾したくなるのが当然の反応ではないでしょうか。

太平洋戦争の敗戦後から半世紀のあいだ、私たちの国はひたすらに「米国を目指す」ということをやってきたわけですが、本当に今後もそれを続けるべきなのでしょうか。本書執筆中の2020年5月、警官による理不尽な暴力によって黒人男性のジョージ・フロイド氏が死亡したことがきっかけとなり、全米各地で大規模な暴動が発生しています。

人種的差別と経済的格差という「二重の分断」によって引き裂かれ、未だに国民皆保険の実現すら覚束ない米国を太平洋の反対側から眺めて、心の底から「あのような社会が理想だ」と思う人は一人もいないでしょう。太平洋戦争の後、灰塵に帰した国土で「物質的貧困」という問題に悩まされていた私たちにとって、物質的繁栄を謳歌する米国が「憧れの国」に思えたことはわからないではありません。しかし先述した通り、私たちはすでにこの問題を解決してしまったのですから、そろそろ米国モデルの追従を止め、経済・物質に代わる新しい価値観、新しい社会ビジョンを再設計しなければならない段階に来ているのではないでしょうか。

全世界的に見ても成長率は停滞

さてここまで、先進7カ国の経済成長率が中長期的な低下傾向にあることを指摘し、これが「文明化の終焉」によってもたらされた必然的な状況である、と指摘してきました。

さて、このような指摘については「先進国の、しかもここ50年だけのトレンドを示しているだけで、視野が局所的なのではないか?」という批判もあるかも知れません。確かに、今後の経済成長はアジアとアフリカを中心とした非先進国によって牽引されると予測されていますから、先進国だけのトレンドを用いてこのような指摘をするのは早計だと思われるかもしれません。

ここではまずBRICs、すなわち21世紀のグローバル経済の牽引役となるであろうと期待されたブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国の数値を確認してみましょう。この用語はもともと、2001年11月に当時、投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミストだったジム・オニールが投資家向けに提出したレポート『Building Better Global Economic BRICs』の中で初めて用い、その後世界中に広まったわけですが、最近ではすっかり耳にすることがなくなってしまいました。

結局のところどうだったかというと、ロシアの2000年代のGDP成長率は4.93と、たしかに他の先進7カ国と比較しても高い数値ではありましたが、2010年代のGDP成長率は0.91と、フランスと同等、日本とほぼ同等のレベルにまで急落しています。またブラジルについても同様で、2000年代には3.71だったGDP成長率は、2010年代には1.21まで低下しており、他の先進国とほぼ同様の水準となっています。BRICsをなす4カ国のうち、ブーム当時と同等の成長率を維持しているのはすでにインドしかありませんが、そのインドも、今回のコロナパンデミックによって経済成長に急ブレーキがかかっており、元の成長トレンドに回復できるかは不透明な状況にあります。

新しい千年紀の到来に沸いていた2000年代の初頭において、あれほどまでに「世界経済を牽引してくれる」と期待されたBRICsの勢いが二十年ともたずに失速してしまったという事実は私たちに辛辣な示唆を与えます。それは、今後の経済成長が期待されているアフリカをはじめとしたエリアについても、キャッチアップによるボーナス期間はそれほど長くは続かないだろう、ということです。ということは、世界はすでに「経済成長できないステージ」に入っているということなのでしょうか。さらに時間軸・空間軸を拡大して確認してみましょう。

次の図を見てください。これは古代から2100年までの全世界におけるGDP総量の推移を表しています。

古代から2100年までの世界GDPの変化[8]

1950年から1990年に記録したピークを境に、その前の急激な上昇と、その後のなだらかな下降が、ここからも読み取れるでしょう。これはつまり、これから経済成長が期待されているアフリカなどのエリアを含み入れたとしても、私たちが20世紀半ばに経験したような「高成長」を今後期待することはできない、ということです。

私たちは、かつて私たちの親世代が経験したような高成長を、あたかも「正常な状態」のように考えてしまう傾向があります。しかし、このグラフが明らかに示しているのは、そのような状況が、実は全人類史においてきわめて得意な例外的事態だった、ということです。フランスの経済学者、トマ・ピケティは世界的なベストセラーとなった著書「21世紀の資本」において、私たちが一般に有する「成長」のイメージは「幻想に過ぎない」と一蹴しています。

重要な点は、世界の技術的な最前線にいる国で、一人当たり算出成長率が長期に渡り年率1.5パーセントを上回った国の歴史的事例はひとつもない、ということだ。過去数十年を見ると、最富裕国の成長率はもっと低くなっている。1990年から2012年にかけて、一人当たり産出は西欧では1.6パーセント、北米では1.4%、日本では0.7パーセントの成長率だった。このさき議論を進めるにあたり、この現実をぜひとも念頭においてほしい。多くの人は、成長というのは最低でも年3〜4パーセントであるべきだと思っているからだ。すでに述べた通り、歴史的にも論理的にも、これは幻想に過ぎない。

トマ・ピケティ「21世紀の資本論」

ピケティ自身は同著において、今後のGDP成長率予測については「よくわからない」と断った上で「過去2世紀の歴史を見るかぎり、その数値が1.5%以上となる可能性はかなり低い」と指摘しています。さらに加えて指摘すれば、経済学者や民間エコノミストが行う長期の経済予測には全般に強い上方バイアスがかかっており、予測値は実測値に対して上側に外れることが多いという点には留意しておいても良いと思います[9]

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