#045 組織・社会が劣化する構造的要因について

こんにちは。今日はアムステルダムまで来ています。昨日の夜中についていま朝の7時。これ書き終わったら朝食食べます。組織と社会の劣化要因について少し考えたことを。

歴史家のチャールズ・P・キンドルバーガーは、彼の著書「経済大国興亡史」において、ポルトガルやスペインなどの大国が衰退した理由の一つとして「社会的な新陳代謝の停滞」を挙げています。権益が既得化して社会システムの上位にある人がこれを独占するようになるとシステムを改変するインセンティブが減少して社会の新陳代謝が停滞する、というのがキンドルバーガーの指摘でした。

このキンドルバーガーの指摘は、特に現在の私たち日本人にとっては聞き捨てならないと思うのですよね。例えば、日本国内における企業の時価総額ランキングを1990年時点と現在で比較すると、米国とは比較にならないくらいに入れ替わりが少ないことがわかると思います。

あるいは国会議員の世襲率などもそうで、調べてみるとここ十年ほどのあいだは30〜40%でずっと推移してきている。詳しい数字は僕も知らないのですが、米国や韓国の数字を確認してみると「だいたい数%」といった水準だそうですから、いかに日本が異常な状態になっているかがわかります。もっと酷いのが総理大臣で、平成以後の総理大臣の7割が世襲ですから、日本は国家丸ごとがファミリービジネスになっていると言えます。

では、この低・新陳代謝の状態では衰退は避けられないのでしょうか?理屈で考えてみれば、新陳代謝が起きなくても高潔で優秀な人材を組織や社会の要所に配置できれば衰退は避けられるのではないかとも思えるのですが・・・ということで、つらつらと考えて「ああ、こういうことなのかもな」と思いついた仮説を共有したいと思います。

タイトルにある問題を考察するにあたって、まず、次の図を見てください。これは組織や社会における「一流・二流・三流」の関係を示したものです。

一流・二流・三流の関係(北野唯我さんの著作から転用)

まず、二流の人間は自分が本当は二流であり、誰が一流なのかを知っています。一流の人間はそもそも人を格付けする、あるいは人を押しのけて権力を握ることにあまり興味がないので、自分や他人が何流かということをそもそも考えません。

三流の人間は、往々にして周囲にいる二流の人間のことを一流だと勘違いしており、自分も「いまは二流だが頑張ればいつかはああなれる」と考えて二流の周りをヨイショしながらウロチョロする一方で、本物の一流については、自分のモノサシでは間尺を計れない、よくわからない人たちだと考えています。

この構造を人数の比率で考えれば一流は二流より圧倒的に少なく、二流は三流より圧倒的に少ない、ということになります。人事評価では能力や成果が正規分布していることを前提にして評価を行うことが一般的なので「真ん中の二流が一番多い」と思うかもしれませんが、実際には能力も成果も正規分布ではなくパレート分布していますから、三流が数の上では圧倒的な多数派ということになります。

したがって「数」がそのまま権力となる現代の市場や組織において、構造的に最初に大きな権力を得るのはいつも大量にいる三流から支持される二流ということになります。

これは何も組織の世界に限った話ではなく、書籍でも音楽でもテレビ番組でも同じで、とにかく「数の勝負」に勝とうと思えば「三流にウケる」というのが絶対の勝ちパターンです。

資本主義が、これだけ膨大な労力と資源を使いながら、ここまで不毛な文化しか生み出せていない決定的な理由はここにあります。数をKPIに据えるシステムは構造的な宿命として劣化せざるを得ません。民主主義のジレンマですね。

さて、少数の二流の人間は多数の三流の人間からの賞賛を浴びながら、実際のところは誰が本当の一流なのかを知っているので、地位が上がれば上がるほどに自分のメッキが剥がれ、誰が本当の一流なのかが露呈することを恐れるようになります。したがって、二流の人間が社会的な権力を手に入れると、周辺にいる一流の人間を抹殺しようとします。

イエス・キリストを殺そうとしたヘロデやパリサイ派の司祭、ジョルダーノ・ブルーノを火刑にかけた審問官、トロツキーに刺客を送って暗殺したスターリンなどは全て、二流であることが露呈するのを恐れた権力者によって抹殺された一流という構図で理解することができます。

新約聖書にはこの一流・二流・三流の構造がよく表れています。イエスを本当に恐れて殺そうとするのは大衆ではなく、二流のリーダーであるヘロデですね。三流の人々はそもそもイエスが一流であることに気づいてもいない。ヘロデというのは、とても邪悪な人物として描かれることが多いですが、眼力はあるんです。だからこそイエスを殺そうとしたわけでね、そこは三流の大衆とは違う。ここら辺はとても面白いところですね。

さて、これを組織や社会の問題として考えてみると、二流によって一流が抹殺された後の世代に大きな禍根が残ることになります。二流の人間が一流の人間を抹殺し、組織の長として権力を盤石なものにすると、その人物に媚び諂って権力のおこぼれに預かろうとする三流の人物が集まることになります。

二流の人間は一流の人間を恐れるので、一流の人間を側近としては用いず、自分よりもレベルが低く、扱いやすい三流の人間を重用するようになる。かくしてその組織はやがて、二流のリーダーが率い、三流のフォロワーが脇を固める一方で、一流の人材は評価もされず、したがって重用もされず、日の当たらない場所でブスブスと燻ることになります。

やがて二流のリーダーが引退し、彼らに媚び諂って信頼の貯金を貯めてきた三流のフォロワーがリーダーとしての権力を持つようになると、さらにレベルの低い三流のフォロワーが周辺を固めるようになり、その組織はビジョンを失い、モラルは崩壊し、シニシズムとニヒリズムが支配する組織が出来上がることになります。

組織がこのような状況まで一旦劣化すると、一流の人材を呼び込み、重役に登用するという自浄・自律の機能はまったく働かなくなるため、組織の劣化は不可逆的に進行し、世代を代わるごとにリーダーのクオリティは劣化していきます。

これが、現在の日本の多くの組織において起きていることでしょう。世代論・年代論の構造的問題に加えて、リーダーのクオリティが経時劣化するという問題が輪をかけている、というのが今の日本の状況です。 

組織もまた構造的宿命として劣化する

さてここまで、二流が一流を忌避し、三流で周りを固めることで組織の上層部は構造的・宿命的に劣化するという説明をしました。これは二流によって一流が排除されるという人為的なメカニズムをベースにしているわけですが、組織の劣化が不可逆なエントロピー増大のプロセスであることは、ほかの要因からも推察することができます。

その理由は「自分より能力・見識の高い人を見抜くのは難しい」からです。アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズシリーズの「恐怖の谷」に次のようなセリフがあります。

凡人は自分より高い水準にある人を理解できないが、才人は瞬時に天才を見抜く。
Mediocrity knows nothing higher than itself, but talent instantly recognizes genius.

コナン・ドイル「恐怖の谷」

先述したのと同じ指摘、つまり「三流は一流を評価できない」ということですが、これをもとに組織について考えると、時間が経つにつれて組織は不可逆に劣化する、という結論が出ます。

ホームズの言う凡人というのは、つまり「ありふれた人」ということですから数がいちばん多い。一方で才人は凡人よりもはるかに少なく、さらに天才は才人よりもはるかに少ない。凡人が自分よりも優れた人を理解しないのであれば、凡人に人選させれば凡人を選ぶことしかできません。一方、才人か天才に人選をさせれば、ある程度は才人や天才を選出することはできるかも知れません。

しかし、人選には必ず一定の確率でエラーが発生します。エラーが発生した際に、どのような人が選ばれてしまうかは選択の対象となる母集団の中の出現率によって決まります。

先述した通り、人材のクオリティは正規分布ではなく、実際にはパレート分布していますから、ごく少数の才人やさらに少数の天才よりも凡人の方がはるかに多い。したがって、エラーが発生した際、フィルターをくぐり抜けて組織に入ってくる人は「凡人」である確率が最も高い。

組織の中に最も多い凡人が凡人しか見抜けず、もともと少数しかいない才人や、さらに少数しかいない天才に人選をさせれば、ある程度は才人や天才の選出が可能かも知れませんが、先述した通り人選には必ず一定の確率でエラーが発生するので、どうしても時間を経るごとに凡人が増加してしまう。ましてや日本の多くは採用活動を極めて事務的に処理しており、そもそも才人や天才が人選活動に携わっていないことが多いので言わずもがなです。

全ての大企業は、かつてどこかで一流によって起業され、成長した結果として現在の状態に至っています。会社を起業し、事業を成長させることは凡人にはできませんから、それらのほとんどは一流によってなされるわけですが、企業が軌道に乗って成長するに連れて人的資源の増強が必要になると、会社を起業し、成長させた一流たちは採用活動から遠ざかり、凡人がこれを担うようになります。

やがて会社を創業した一流たちが引退すれば、よほど意識的になって一流を人選に担ぎ出さなければ、その組織の人材クオリティの平均は限りなく二流、もしくは三流の水準に落ちていくことになります。

エントロピーという概念をたいへんわかりやすく説明した名著「マックスウェルの悪魔」の中で、著者の都築拓司は次のように述べています。

宇宙の熱的終焉というスケールの大きい問題と同時に、同じ非可逆的なプロセスとして、人間の集団が営む社会的活動がクローズアップされる。大自然に熱的破壊という一方的な進行過程があるものとすれば、社会機構にもシンプルなものから複雑化、あるいは乱雑化、多様性、平均的なものへの推移・・・というように問題をとらえてみると、自然と社会の両者の根底には、まったく同じ法則で支えられている、とも考えられるのである。

都築拓司「マックスウェルの悪魔」

人間の体が動的平衡によって成り立っているように、企業組織もまたエントロピーの増大に抗うことでそのバイタリティを維持しています。この点については人間も企業組織も同じなのですが、両者には決定的な違いもある。それは人間には寿命があるのに対して、企業組織には寿命がない、ということです。

むしろ、企業組織については「永続性」がポジティブなものとして追求されるものとなっています。長嶋茂雄は現役引退のセレモニーにおいてジャイアンツが「永久に不滅だ」と宣言しましたが、長らく所属した組織に「永久に存続してほしい」と考えるのは人情としてはわからないではありません。

しかし、ここまでに見てきたように、人体というシステムがエントロピー増大の法則に従って劣化するのと同じように、企業組織もまた劣化するのですから、元より「永久に不滅」を求めるのは詮ないことだということになります。

では、この劣化をどのように食い止めるか?

鍵になるのは「オピニオンとエグジット」だと思っていて、それはすでにNOTEの記事、例えば『#036 僕らの武器「オピニオン」と「エグジット」を用いて社会を変えよう』とか「#001日本脱出のススメ」にまとめましたので、こちらも読んでいただければと思います。

それでは朝ごはん食べてきます。

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