人材の多様性はなぜイノベーションにとって大事なのか?

イノベーティブな組織に共通して見られる特徴として「人材の多様性」が挙げられます。しかし、なぜ人材の多様性がイノベーションの促進にポジティブな影響を与えるのでしょうか?

なぜビートルズはリバプールから出現したのか?

過去の歴史をひも解いてみると不可解な場所から不可解にクオリティの高い知的生産物が生み出されていることがありますよね。例えば20世紀以降のポップミュージックのあり様を変革したロックグループであるビートルズは、ロンドンではなくリバプールから出現しました。

当時から、イギリスにおける音楽のメッカと言えばロンドンであり、リバプールは、ひいき目に行って地方の港町という位置づけで特に音楽文化が花開いていた場所ではありません。その様な辺鄙な港町から、世界を変える様なロックグループが何故現れたのか、考えてみればこれはとても不思議なことではないでしょうか?

もちろん、いくつかの複合的な要因が作用しているわけですが、音楽史の関係者が共通して挙げる大きな理由の一つが「当時米国で生まれつつあった新興音楽であるロックのレコードが、最も早く持ち込まれたのがリバプールだった」という事実です。

リバプールは当時イギリスと米国を結ぶ大西洋航路の主要な港でした。当時の大西洋航路の船員はあまりやることがなかったらしく、船内でのヒマつぶしのために米国で大量のレコードを購入し、そして、船内で聴き尽くしたレコードをリバプールに上陸すると同時に売り払うということを繰り返していました。

結果、町には、船員たちが持ち帰ってきた米国の様々なレコードが溢れることになったわけです。そのレコードを聴いて目を輝かせていたのが当時高校生だったジョン・レノンでありポール・マッカートニーでした。彼らは、アメリカから持ち込まれるロックとイギリスで当時流行していたスキッフル等の音楽を交配させることで独自の音楽スタイルを築き上げ、ビートルズが生まれることになったのです。

なぜルネサンスはフィレンツェから始まったのか?

世界史をひもといてみれば、こういった「文化の交差点」がイノベーションの中心地となった例は他にもたくさん見られるんですよね。例えば、フィレンツェにおけるルネサンスの開花がそうです。

ルネサンスとは14世紀~16世紀にイタリアを中心に起こった古典・古代の文化・芸術を復興させようとする運動の総称です。中でもフィレンツェを中心に興ったイタリアルネサンスは、皆さんもよくご存じのレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロ、マキャベリといった多分野に渡る天才を生みだしました。

訪れたことのある方はご存知でしょうが、フィレンツェというのはとても小さな街でせいぜい10キロ四方しかありません。フィレンツェで創造性が爆発した盛期ルネサンスは15世紀半ばから16世紀半ばのことですから、たった100年足らずの間に10キロ四方にも満たない町から、美術史あるいは科学史に大書される様な天才が次々に誕生したわけです。これを単なる偶然とは考えるのは不自然でしょう。

フィレンツェにおけるルネサンスの開花には、メディチ家の存在が大きな貢献を果たしていると言われています。フィレンツェで銀行業を営んで大きな繁栄を築いたメディチ家は、その持てる富を絵画、彫刻、建築、文学、政治学等の幅広い分野に提供し、多分野の才能ある人材をフィレンツェに集めました。

史実にはそういう記録はありませんが、あれほど小さな町です、恐らくレオナルドとミケランジェロがフィレンツェの町角で邂逅するといったこともあったでしょうし、少なくとも彼ら自身が作り上げた作品をお互いに目にすることは何度となくあったはずです。彼らは、同分野であれば切磋琢磨し、他分野であれば刺激を与えあうことで自らの嗜好や芸術を深め、最終的に世界史的な運動を牽引することになったのです。

先端科学も「異種混合」がカギに

異なる分野の交配が新しい知を生み出すという傾向は過去の歴史においてのみ観察されるものではなく、科学の最先端においても同様に観察されています。2010年にワシントンで行われた米国科学振興協会(AAAS=科学雑誌Scienceの発行母体)のカンファレンスで、同会会長であり、また雑誌「Science」の最高経営責任者であるアラン・レシュナーは「専門分野別の科学はもう死んだ」と主張しています。

レシュナーによれば「近年の主要な科学の進歩は、複数分野が関わっているケースがほとんどだ。著者が一人だけという論文自体が最近は珍しいし、著者が複数の場合、それぞれが異なる分野の研究者であることが非常に多い」というんですね。

これとほぼ同様のことを指摘しているのが、米国の科学史家トーマス・クーン[1]です。クーンは「パラダイムシフト」という言葉を根付かせるきっかけとなった彼の主著、そして歴史的名著である「科学革命の構造」において「本質的な発見によって新しいパラダイムへの転換を成し遂げる人間のほとんどが、年齢が非常に若いか、或いはその分野に入って日が浅いかのどちらかである」と指摘しています。

レシュナーは複数の科学者について、クーンは単独の科学者について述べているわけですが、両者の主張は基本的に「異なる分野のクロスオーバーするところにこそイノベーティブな思考が生まれる」ということで一致していますよね。確かに、近年において科学界を揺るがす様な成果を挙げた科学者には「ダブルメジャー」が多い。 

なぜ地質学者であるダーウィンが進化論を着想したのか?

例えばチャールズ・ダーウィン[2]が典型例でしょう。ダーウィンは進化論における、いわゆる自然選択説を提唱したことで知られているため、一般には生物学者として認識されていますが、本人自身は、終生自分のことを地質学者と名乗っていました。 

ダーウィンが、もともと大学で志していたのは医学でした。しかし、なかなか身が入らず、途中で180度方向を変えて神学部に転部して牧師を目指すことになります。しかし結局こちらも本気になれず、最終的に昔から好きだった地質学の研究に進みます。

ダーウィンは、もとから地質学をやりたかったのに、成功した医師だった父親の希望を横眼でにらみながら学部を選択したため、どれも中途半端になったようです。牧師になろうとしたのも、牧師だったら余暇が沢山あるだろうから、その時間を使って博物学の研究が出来るというフザけた理由で、ちょっとソコに座れ、と言いたくなります。

その後、よく知られている通りビークル号に乗り込んでガラパゴス諸島を訪れ、そこで自然選択説の最初のインスピレーションを得ることになるわけですが、ここで注意してほしいのが、生まれてから自然選択説を発表するまで、ダーウィンは結局のところ一度も「生物学者」だったことがない、という点です。

人類史上、最も科学に大きな影響を与えた生物学上の仮説が、生物学者ではなく、地質学者から提出された。

この事実は、イノベーションというものの成立要件を考察するに当たってとてつもなく重大な何かを示唆しています。実際のところ、ビークル号には別に生物学専門の科学者も乗り込んでいました。しかし、この生物学者は集めた標本をそれまでの生物分類に沿って整理することに熱中していて、ダーウィンが抱いた様な仮説を持つに至らなかったんですね。

なぜ専門の生物学者がこの仮説に気づかず、ダーウィンが気づいたのでしょうか?それはまさに「彼が専門の生物学者でなかったから」でしょう。

ダーウィンは、自然選択説を思い当たるに当たって、二つのインプットが重大な契機になったと述懐しています。

一つはライエル[3]の「地質学原理」です。ダーウィンは、同著にある「地層はわずかな作用を長い期間蓄積させて変化する」というフレーズに接し、動植物にも同様なことが言えるのではないか、という仮説を考えたらしいんですね。

そしてもう一つが、有名なマルサス[4]の「人口論」でした。「食糧生産は算術級数的にしか増えないのに人口は等比級数で増えるため、人口増加は必ず食料増産の限界の問題から頭打ちになる」という予言=「マルサスの罠」を提唱して議論を巻き起こした著作ですが、この本を読んでダーウィンは、食料供給の限界が常に動物においても発生する以上、環境に適応して変化することが種の存続において重要であるという仮説を得ています。

そしてこれら二つの仮説が、結局「自然選択説」という理論に結晶化するわけですが、ダーウィン自身の専門も、また彼にインスピレーションを与えた書籍も、どちらも「生物学」に無縁であったということに注意して下さい。

ダーウィンは、クーンの言う「パラダイム転換を成し遂げる人間のほとんどが、その分野に入って日が浅い人物だ」という指摘の正しさを証明する代表的サンプルと言えます。こういったことは他の科学分野においてもよく見られるんですよね。

なぜ古生物学者は恐竜絶滅の理由を思いつかなかったのか?

20世紀の科学界において、なぜ恐竜が絶滅したのかは長い間大きな謎でした。理由としては、恐竜が花粉症になったという説から、新しく出現した哺乳類との競争に負けたという説、ただ単に体が巨大になりすぎたという説まで、いくつもの仮説・珍説が大真面目に議論されてきました。

そんな中、白亜紀の終わりに直径10キロの隕石が地球に衝突して、これが恐竜絶滅の原因になったのではないかという、今日よく人口に膾炙される仮説を出したのが、ノーベル物理学賞受賞者のルイ・アルバレス[5]でした。

その仮説とは「隕石の衝突によって大量の粉塵が空高く舞い上がり、これが地球の大気をすっぽり覆って太陽光を遮断したために地球の気温が下がり、やがて進化の系統樹の枝を丸ごとボッキリ折る様にして恐竜を絶滅においやった」というものです。この仮説は、結局現在において恐竜の絶滅を説明するためのもっとも有力な仮説とされています。

もちろん、多くの古生物学者は、長い地球の歴史の中で、多くの小惑星や隕石が地球に衝突していたことを知っていました。では何故、彼らは恐竜絶滅の原因として、隕石説を提案しなかったのでしょうか?

一言でいえば「考えたこともなかった」のです。

何故、多くの古生物学者が気づかなかった仮説に、アルバレスは気づいたのでしょうか?これにはアルバレスの息子がどうも関わっている様です。アルバレスの息子は地質学者でした(またか...)。

アルバレスは地質学者の息子とともに、白亜紀から第三紀の境界の粘土層に含まれるイリジウムの濃度が際立って高いことを発見し、この時期に巨大な隕石が地球に落ちた公算が強いこと[6]、その時期が恐竜絶滅の時期と重なっていることから、これが恐竜絶滅の主要因ではないか、という仮説を持つに至りました。

ダーウィンの時と同様、ここでも「物理学(天文学)」と「地質学」が出会うことで、もともと関係のなかった「古生物学」における重大な仮説が提示されている、ということに注意して下さい。

さすがにくどくなってきたのでここらで止めておきますが、こういった例はほんとうにいくらでも見つけられます。DNAのらせん構造を発見したフランシス・クリック[7]も、もともとは物理学で博士号をとった後でキャリアに行き詰まって生物学に転向していますし、その構造の決定に大きな役割を果たしたロザリンド・フランクリン[8]のX線解析写真も物理学の手法を駆使していましたよね。

かように、科学におけるイノベーティブなアイデアの多くは、領域横断的なところで生み出されているんです。そしてこれはビジネスにおけるイノベーションも同様と言えます。

「イノベーション」の重要性を世界で最初に指摘した人物の一人である経済学者のシュンペーター[9]は、その著書「経済発展の理論」において、イノベーションを生み出す中心概念を「新結合」という言葉を使って説明していますし、スティーブ・ジョブズもほぼ同様に「Connecting the dots=創造とは結び付けることだ」と言っていましたね。

さらに、オープンイノベーションの実践で先駆的な実績を挙げているP&Gでは、イノベーションの促進に当たって「コネクト&ディベロップ」をスローガンとして掲げており、同社のイノベーション兼技術担当副社長だったラリー・ヒューストンは「独創性とは、人と人とのつながりをつくるプロセスにほかならない」と指摘しています。

言葉の使い方は様々ですが、ひっくるめて言えば、彼らが指摘しているのは「これまでに誰も考えたことがない新しい要素の組み合わせがイノベーションの源泉」だということです。そして、この「新しい要素の組み合わせ」を実現するために、多様性が非常に重要な要件になってくる、ということです。

なぜ高度経済成長期に日本でイノベーションが加速したのか

この様に考えてみると、なぜ日本の高度経済成長期において様々な分野でイノベーションが加速したのかについての理由も透けて見えてくる様に思いませんか?

この時期、太平洋戦争期において様々な領域で研究開発を行っていたエンジニアが、GHQ[10]の指導によってそれまでの活動を継続できなくなり、異なる分野、それも多くは民生分野に身を転じることを余儀なくされました。この研究領域のシフトが、多くの分野で様々な「新結合」を促し、それがイノベーションを生み出す要因となったのではないか、というのが僕の仮説です。

例えば、欧米の自動車技術から一歩も二歩も遅れをとっていた日本自動車界において、「東洋にスバルスターあり」と欧米自動車技術者の肝胆を寒からしめるきっかけとなった傑作小型車「スバル360[11]」を生み出した百瀬晋六はじめとする富士重工の開発チームには、多くの航空機技術者が参加していました。

またマツダ(当時の社名は東洋工業)において当時「不可能」とまで言われたヴァンケルロータリーエンジンの開発を主導したのも、戦時中は戦闘機設計に従事していた山本健一氏を中心とした平均年齢25歳の混成チームでした。また、東海道新幹線において車台振動の問題を解決したエンジニアも、航空機のフラッター問題(航空機の翼が高速時に振動を起こして破壊される問題)の専門家でした。

航空機エンジニアとして教育を受け、キャリアを築いてきた彼らにとって、自動車や鉄道へのキャリアシフトは必ずしも本意ではなかったかも知れません。しかし、そのような大きな「ドメインチェンジ」が、様々な分野で異種混合を生み出し、それが数多くの世界に先駆けたアイデアに繋がったとは考えられないでしょうか。

流動性の低い日本

翻って、近年の日本企業の状況は振り返ってみれば、大多数の人が新卒で入った会社で勤め上げるのはもちろんのこと、昨今ではカンパニー制浸透の弊害からか、あるいはスペシャリスト育成幻想からか、事業領域をまたがった業務経験をなかなか得られない状況にあります。

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