「経験」についての勘違い

人事や組織の専門家のあいだではもはやスタンダードになった感のある、デイヴィッド・コルブの経験学習理論(Experiential Learning Theory, ELT)は、学習が経験を通じて行われるプロセスであるという考え方に基づいています。

コルブはこの理論を1970年代に発表し、以来、教育や人的資源開発の分野で広く受け入れられています。

コルブの理論は、学習が以下の4つの段階の連続的サイクルを形成すると述べています:

  1. 具体的経験(Concrete Experience): 学習者が新しい経験や状況に直面するか、再解釈する段階です。

  2. 観察と反省(Reflective Observation): 学習者が経験から一歩離れて観察し、その経験について考える段階です。ここでは、経験に関する洞察が得られます。

  3. 抽象的概念化(Abstract Conceptualization): 反省を通じて得られた洞察から概念や理論を構築する段階です。この時、学習者は新しいアイデアや計画を形成します。

  4. 能動的実験(Active Experimentation): 新たに形成されたアイデアを実際の行動に移し、世界で試してみる段階です。

この学習サイクルは、一方向ではなく、継続的なプロセスとして機能します。学習者は一つの経験から次の経験へと移り、それぞれの段階を通じて知識を深め、スキルや態度を発展させていきます。

コルブの経験学習スタイルのモデルには、学習スタイルの理論も含まれており、それぞれの学習者がサイクルの特定の部分を好む傾向があると提唱しています。

ちなみに、これはアセスメントをすることで把握が可能で、僕の場合、極端に「抽象的概念化」のプロセスが好きなのに対して、「能動的実験」や「具体的体験」のところは滞りがちだということがわかっています。

つまり、この理論は、学習者の好みに応じて異なる学習スタイル(例:具体的経験者、反省的観察者、概念化する学習者、能動的実験者)があるのだということも前提にしているということです。

コーチングを求められる立場にある人・・・ということはつまり、ほとんどすべての人だということですが、にとっては、対象者となるコーチーが、学習のどこが得意で、どこでつまづきがちなのか、がわかると「学習のレバレッジポイント」を把握することで、より有効なコーチングが可能になります。

たとえば、やたらと元気はいいのだけど、いつも同じ失敗をしている人は「具体的体験」は強いのだけど「観察と反省」は弱いということになりますから、何か想定外のことが起きた時、コーチとして対応策を協議するのではなく、「そもそも、なぜこういうことが起きたんだと思う?」という投げかけをすることが重要になりますし・・・

逆に評論家的でとにかく弁は立つのだけど、行動しようとしないという人は「抽象的概念化」は強いのだけど「能動的実験」や「具体的体験」は弱いということになりますから(ギク!)、コーチの立場としては、実践に向けて尻込みするコーチーの背中を押してあげる、具体的なプロジェクトのお膳立てをするなどの支援が可能になるでしょう。

というように、 噛めば噛むほどに滋味のある、このコルブの経験学習理論なのですが、大いに勘違いされている点が一つあります。

それは、世の中一般に言われている「経験」とコルブの経験学習理論で言うとこの「経験」は大きく異なるということです。改めて定義を確認すれば、コルブの「経験学習理論」における「経験」は

新しい経験や状況に直面するか、再解釈するプロセス

として定義されています。

これはつまり何を言ってるかと言うと、何かの取り組みに対して想定される結果があって、その結果が想定通りの場合、この取り組みは経験としてカウントされないということです。

よく「この道、ン十年の経験」といったことを平気で言う人がいますが 、コルブの定義に照らして言い換えれば「一年の経験と十九年にわたる繰り返し」になっている人が少なくないと思います。

想定外の結果に向き合うことで、自分の頭の中にある世界観や認識の枠組みが切り替わる。そして世界観や認識の枠組みが切り替わることによって、従来よりもインプットに対してより質の高いアウトプットを返せるようになる。これがコルブによる成長の定義です。この定義を踏まえることで、私たちは「キャリアの密度」を高い水準に保つことができるかもしれません。

そろそろ年末の足音が近づいてきている今日この頃ですが、この一年を振り返ってみて、様々に取り組んだ仕事のうち、想定外の結果、想定外の事態が発生して、困惑させられた、自分の考えを改めさせられたというような 事象があったでしょうか?

もし、あったのだとすれば、あなたはコルブの経験学習理論の枠組みで言うところの「経験」を、少なくとも今年は一つ積んだということになります。

一方で、これまで通りの仕事をしてほぼ想定通りの結果に終始した・・・これはつまり、ある意味では「仕事が万事うまくいった」ということでもあわけですが、コルブが経験学習理論でいうところの経験を積むことはできなかったということになります。当然ながら、そういう一年をずっと続けていくことはキャリアにとって大きなリスクとなります。

面白いですね・・・ストレスのかかる不測の事態が起きているということは長期的なキャリアという観点からはむしろポジティブに評価されるのです。

「安定な企業は不安定で、不安定な企業は安定」。これは、Computers & Communicationsを提唱し、NECの第二の創業を主導した小林宏治元会長の言葉ですが、同じことが個人のキャリアにも言えるということです。安定し過ぎているのは長期的に大きなリスクをはらむ。安定してるなと思ったら意識的に石を投げ入れて波紋を起こしましょう。


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