#084 重要なのは「課題の発見」なのではなく「課題の生成」

昨今は「問題の発見」「課題の発見」が重要だとよく言われますが、ものすごく違和感があるのですね。

というのも、問題や課題が「あるべき姿と現状のギャップ」として定義される以上、これはそもそも、何処かの誰かによっていずれは発見される客体ではないからです。「問題」というのは本来、個人の認知的操作によって作り出される、あえて言えば一種の主体的生成物です。

人が何かをして「問題だ」と宣言するとき、そこには必ず、それを指摘する人が考える「あるべき姿=主体的意志」が前提としてあります。これはつまり「問題」は常に、それを問題だと指摘する人の「実存」が関わっている、ということです。

一方で「問題の発見」「課題の発見」という言葉には、そのような実存を介在させず、自己の立場を無色透明で安全な場所に置いたまま、何処の誰が発見しようが同じ問題、同じ課題としてそこにあるものを発見する、というニュートラルなニュアンスがあります。つまり「客体としての問題」ですね。

しかし、そのような問題を発見したとしても、その先には不毛なものしか生み出されないでしょう。誤解されて広まってしまった側面もありますがデザイン思考はその最たるものだったと思います。

問題の認知的生成が「ありたい姿」を起点にスタートするということは、非常に重要な示唆を私たちに与えてくれます。それは「意志やビジョンのないところには問題もない」ということです。ここに「問題の生成」が非常に難しい、理由があります。なぜなら「意志を示す」「ビジョンを示す」のはとても恥ずかしいし、勇気が要ることだからす。

「意志を示す」「ビジョンを示す」ということを平たく言い換えれば、それは「私は何が嫌いか?」「私は何が好きか?」を世界に宣言する、ということです。これはまず、とても恥ずかしい。その上、怖い。

なぜなら「私は何が好きか?」「私は何が嫌いか?」を宣言することで「自分が嫌いなものを好きな人」とか「自分が好きなもの嫌いな人」を敵に回すことになる可能性があるからです。これは「いろんな人と仲良くしていきたい」「人と軋轢を起こしたくない」と思っている人にとって非常にストレスフルなことでしょう。

特に日本で教育を受けた人は「他人に不愉快な思いをさせてはいけない」「他人に迷惑をかけてはいけない」と言われ続けて育っているので、この宣言は生半なことではできないと思うわけです。そして、この点にこそ、この30年間、日本が停滞している大きな理由があると私は思うのです。つまり、日本のポテンシャルを押さえ込んでいるボトルネックは「技術的な側面」でも「経営的な側面」でもなく、この「精神的側面」だということです。

「問題」が意志やビジョンを持つことで始めて生成される、ということには大きな含みがあります。意志やビジョンというのは高エネルギーの精神状態が生み出すものです。つまり「問題」というのは、それが実存的に生み出された時点ですでに、解決に向けた大きなエネルギーが照射される対象になっているということです。そして、その問題が多くの人の共感を得られるものであればあるほど、最終的にそれは「人間の叡智」を引き出し、これがイノベーションへと結実していくことになります。

ということで、ここ数十年、いろんなところで言われている「課題の発見」ではなく、本当に重要なのは(この私による)「問題の生成」だというお話をさせていただきました。まだまだ書きたいことはあるのですが、この内容はいずれ現在進行中の次の著書「クリティカル・ビジネスの時代 社会運動とビジネスの交わるところ」でも触れたいと思います。

それではまた

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