#021 パワー(権力)の過去・現在・未来
数年前にハーバード・ビジネス・レビューに掲載した論文を少し修正して記事にしました。
組織や社会におけるパワーの問題を考えると、そこには複数の種類のパワーが紛らわしく併存していることがわかる。パワーについて考察が往々にして混乱しがちなのはここに原因がある。では、そもそもパワーにはどのような類型があるのだろうか?ここではマックス・ヴェーバーによる分類を用いて考察してみよう。ヴェーバーは著書「職業としての政治」において、支配を正当化するパワーを三つに整理している。とてもわかりやすい記述なので抜粋をそのまま引こう。
ヴェーバーの分類を「パワーの源」という観点で踏み込んで整理してみたい。
「伝統的支配」は、過去からの連続性という「歴史」がパワーの源になる。これはつまり「伝統に基づくパワー」は、パワーを発揮する主体にパワーの源があるわけではなく、その主体に連なる過去の時間の蓄積、その蓄積が生み出す一種の後光にパワーの源があるということだ。これは世代を跨いでパワーを継承することを考えた際に重要なポイントである。というのも本人にパワーの源がない以上、どんな人間を持ってきても正統性さえ担保できればパワーを発揮させることが可能だからだ。これは「後継者の能力や人格」という、確率的にバラツキが大きく、極めて制御の難しい問題をバイパスできるという点でパワーを世襲したいと考える主体にとって好ましい要件と言えるだろう。
次に「カリスマ的支配」は、当人の示す言葉や行動への「共感」がパワーの源になる。私たちは「カリスマ」について、その「カリスマ個人」の属性にパワーの源であると考えてしまいがちだ。しかし、これは論理が逆立ちしている。実際にはそうではなく、その個人にパワーを与えているのは、その人物が示す言葉やビジョンへの共感であり、さらに言えば共感した人々の心に生まれる「この人に着いて行こう」という衝動、つまりフォロワーシップなのだ。パワーの源が関係性に根ざしている、ということは、このパワーが「代替不可能である」ことを意味する。わかりやすく言えば、そのカリスマが病気になったり死んだりして関係性がリセットされてしまえば、集団をまとめる求心力になっていたパワーも失われてしまうということだ。これは先述した「歴史に基づくパワー」と大きく異なる点である。企業ではよく、カリスマ性をもった創業者長の引退とともに、二世が後を継いだ結果、求心力が失われて組織がガタガタになっていくということがおきるが、これは「カリスマに基づくパワー」が原理的に代替不可能であることを示している。
そして最後に「合法的支配」では、その組織や社会において規定された「権限」がパワーの源を生み出すことになる。これを逆に言えば、その組織や社会におけるルールが変われば、一瞬にしてリーダーが発揮していたパワーも霧消することになる。ここで留意しなければならないのは、ここでいう「権限」は、必ずしも文書化された公式なものではないということだ。組織は往々にして公式の権限規定とは異なるパワーを隠然と持つフィクサーのような人物がいるが、このような人物の持つパワーもまたシステム内部に隠然と規定されているという点で「権限」に基づくものだと言えるだろう。
整理すれば、私たちが誰かにパワーを感じるとき、その源は「歴史」「共感」「権限」のどれかに発しているということだ。このように整理してみると重大なことが明らかになる。私たちは、パワーについて考える際、パワーをあたかも個人の能力や属性のように考えてしまいがちだ。しかし、これまでの考察を通じて明らかになったように、
パワーというのはシステムと参加者との関係が生み出す一種の現象である
ということだ。これを吉本隆明は共同幻想という言葉で表現した。この理解を前景にして、今後の「パワーのあり方」についてさらに考察してみよう。
この記事を読んでいる人の多くは、今日の社会においてパワーが弱体化していることを感じているのではないだろうか。世界銀行の理事も務めた著述家のモイセス・ナイムは、彼の著書「権力の終焉(原題はThe End of Power)」において、世界中のあらゆる場所で「パワーの弱体化」が進んでいることを、豊富な例証を引いて明らかにしている。ここ三十年のあいだに米国企業のCEOの平均在任期間は10年から6年に短縮し、トップ交代が相対的にすくない日本企業でも強制的な辞任の数は同期間に4倍に増加、小規模軍事力が大規模軍事力に勝利する割合は12%から56%に急増し、チェスのグランドマスターは88人から1200人以上にまで増加している。
さて、ここまで読まれた読者にはすでにお気づきだと思うが、このような「パワーの弱体化」は、先程のヴェーバーによる「パワーの三分類」のうち、特に「伝統に基づくパワー」と「権限に基づくパワー」の二つにおいて発生していることがわかる。
多くの国で封建制度から民主主義への転換が進み、「家柄」や「家系」よりも本人の能力や人格が重んじられるようになった結果、「歴史に基づくパワー」は弱体化し、また社会の流動性が全般に高まった結果、極端な権力の傾斜を許容するようなルール体系をもった組織からは人が逃げるようになったことで「権限に基づくパワー」も弱体化している。このように考えてみると、「歴史に基づくパワー」と「権限に基づくパワー」の二つが弱体化しているのは、不可逆な歴史の必然だと感じられる。
さて、このような変化は私たちの社会にどのような影響を与えるのだろうか?世間全般の風潮からして、パワーの弱体化という変化は一般に好ましいものだと考えられているが、この問題はそう簡単に済ませられるものではない。パワーの弱体化は私たちに功罪半ばする影響を与えることになる。
まず「功」の面について考えると、すぐに二つの点に思い至るだろう。
一点目は、傍若無人な振る舞いをして他人を傷つけるような権力者が生まれにくくなるということだ。それをまざまざと感じさせてくれたのが、性的な被害を受けたにも関わらず、権力者による仕返しが怖くて仕方なく泣き寝入りしていた女性たちによる「私も被害を受けた」という全世界的な告発運動、いわゆる「Me Tooムーブメント」だった。
このムーブメントのきっかけとなったのは、ハリウッドでの権力を傘に来て女優に性的暴行を繰り返していた大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインに対する告発だったが、この後、フランスでは加害者が実名を挙げて糾弾され、イタリアでは被害体験を告白するツイートが相次ぎ、アメリカ連邦議会の女性議員たちは男性議員から受けたセクシャルハラスメントを告白し、イギリスではハラスメント疑惑を受けたマイケル・ファロン国防相が辞任に追い込まれた。
かつては泣き寝入りするしかなかった、弱い立場にある人々がテクノロジーを用いて繋がることで「大きなパワー」に対抗する力を持ったのだ。これは「パワーの弱体化」あるいは「パワーの偏在化」がもたらす功的側面と言えるだろう。
パワーの弱体化がもたらす「功」の二点目は、システム全体の崩壊=カタストロフを避けられる確率が高まる、ということだ。現在、世界は極めて複雑で予測の難しい状況、いわゆるVUCAになっている。このような世界において、大きな権力を有するごく一部の人々だけが意思決定するようなシステムは非常に危険だ。なぜなら、状況の不確実性が高まれば高まるほど、そこに関わる人がフラットな関係でコミュニケーションをすることが求められるからだ。
これをわかりやすく示しているのが航空機における事故統計である。通常、旅客機では機長と副操縦士が職務を分担してフライトする。両者を、経験量、操縦技術、状況判断能力といった面で比較すれば、機長の方が副操縦士より格段に優れている。しかし、過去の航空機事故の統計を紐解けば、機長自身が操縦桿を握っているときの方が、副操縦士が操縦桿を握っているときよりも、はるかに墜落事故が起こりやすいことが分かっている。
なぜか?
機長が操縦桿を握っているときには、副操縦士が意思決定プロセスに参加しなくなるからだ。コクピット内で、よりクオリティの高い意思決定を行おうとした場合、お互いの行動や判断に対してお互いがチェックし、もしそこに問題があるようであれば異議を唱えるということが必要となる。
副操縦士が操縦桿を握っている場合、上役である機長が副操縦士の行動や判断に対してそうすることはごく自然に出来ることは想像に難くない。しかし機長が操縦桿を握っている際、目下である副操縦士は機長の行動や判断に対して異議を唱えられるだろうか?もし、思うところがあったとしてもそれを口に出して意見できなければ意思決定の品質は劣化してしまうのである。これはつまり、権力が局在化するシステムでは意思決定の品質が劣化する、ということでだ。
さて、ここまで「パワーの弱体化」がもたらす「功罪」のうち、「功」について述べてきたが、では「罪」についてはどうだろうか?パワーが弱体化することの「罪」を一言で表現すれば、それは「大きなことを成し遂げる力が組織や社会から失われる」ということに尽きる。
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