#027 教養主義に逃避しない

ここ数年、ビジネスパーソンの間で「教養ブーム」とでもいうべき現象が起きているように思います・・・というような書き出しをすれば、どこかから「お前自身が『武器になる哲学』なんて本を書いている上に、それがベストセラーになったワイワーイとSNSでハシャいでおったではないか!」という叱責が来そうですね。はい、すみません。私自身がこのブームの導火線に着火したうちの一人であることは認めますが、だからこそ、このブームについてはちょっと一言申し上げておきたいのです。

私自身は、学部と大学院で哲学や美学といった人文科学を学んだ人間ですから、いわゆるリベラルアーツが「実存主義者として生きる」ために有用な知的武器になると未だに強く確信しています。ただ、この教養ブームを見ていてちょっと気になる点もある。何が気になっているかというと「このブームに乗っかっている人にとって、教養は一種の逃避になってるのではないか」ということです。

わかりやすく考えてもらうために、こういう図をイメージしてください。横軸は「仕事がデキる・デキない」、縦軸が「教養がある・ない」というマトリックスです。

この中で一番望ましいのは、もちろん「仕事ができて教養もある」というマトリックスでしょうが、こういう人はなかなかいないわけですし、いても差があり過ぎて嫉妬や怨嗟の対象になりません。ちょっと横道にそれますが、嫉妬や怨嗟の対象になるのは常に「差異が微小な対象」で、つまり差別というのは差異が大きいときではなく、むしろ差異が小さいことによって生まれる現象です。だからこそ、身分社会ではみられなかったようなストレスが現代社会では広がっていってるわけですね。これは面白いテーマなのでまた機会をあらためて書きたいと思います。

さて、先のマトリックスに話を戻します。ここで問題になるのが「仕事はデキるけど教養はない」と「教養はあるけど仕事はデキない」というマトリックスです。このうちのどちらが上位なのか、という問いに対する答えは人それぞれだと思いますが、まさに「人それぞれ」であるところに、教養主義へと逃避する人は勝機を見ているのではないか、と思うわけです。

単純に「仕事ができる人」と「仕事ができない人」を比べれば、後者を好ましいと思う人はあまりいないと思います。では、後者に位置付けられる人が、そのコンプレックスを埋め合わせられるような別の評価軸がないだろうかと考えてみると「教養」というのはとてもパワフルな尺度として浮かびあがってくる。

なぜかというと「仕事ができる人」は大概の場合、非常に忙しいので分厚い古典文学や難解な哲学書なんか読んでいる暇がないからです。これはつまり「仕事と教養がトレードオフになっている」ということであり、もっと直截に言えば、哲学や芸術といった教養分野は多くの「仕事ができる人」にとって「痛いところ=急所」だということです。時間とお金ができると急にアートの勉強し出す人、いるでしょう?

仕事であまり褒められたことのない人にとって、

「○○さんって、優秀ですよね」
「ああ、そうだね。でも教養ないでしょ、あの人」

といったやりとりが溜飲の下がるものであることはよくわかります。本来、仕事というのは人生の一側面でしかないはずで、他に「良い人生」を規定する尺度はたくさんあるはずなのに、現在の社会では「仕事がデキない」というのは社会的死刑宣告と言って良いほどに個人の尊厳を脅かす評価になってしまっています。

そのために社内でも社会でもこれまで脚光をあびることのなかった人が、自分なりに「別の死刑宣告」をするために異なる競争の枠組みを設定して自己満足に浸ることができる。これが、教養主義が過剰にはびこりつつある理由ではないかと思うのです。

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