「覚える」を目指さない

文庫版で再販になりました僕の「独学の技法」が、とてもよく売れています。

僕のNOTEの読者の方には「もう読んだよ」という方も多いかもしれませんが、あらためて冒頭を読み直してみて、感じるところがあったので抜粋して共有しておきたいと思います。

独学を「システム」として捉える

本書では、私がこれまでのキャリアを通じて試行錯誤しながら構築してきた「独学のシステム」について、紹介していきたいと思います。

「独学のシステム」とは聞き慣れない言葉だと思いますが、私は、独学をシステムとしてイメージしない限り、本書の目的である「知的戦闘能力を向上させる」という目的は、達成できないと思います。

独学というのは大きく「戦略策定」「インプット」「抽象化・構造化」「ストック」という四つのモジュールからなるシステムと考えることができます。

世の中には多くの「独学に関する本」があり、私もかつてそれらに目を通したことがあるんですねが、こういった本のほとんどは「独学術」というよりも、むしろ「読書術」や「図書館利用術」というべきものでした。

つまりこういった「独学術」の多くは、「独学のシステム」における「インプット」の項目しか扱っていないわけです。しかし、独学の目的を「知的戦闘能力の向上」に置くのであるとすれば、独学をシステム全体として捉える考え方が必要です。

なぜかというと、システムの出力はボトルネックに規定されるからです。たとえば、どんなに「インプット」の量が多くても、「抽象化・構造化」ができなければ、そのインプットによって単なる「物知り」にはなれるかも知れませんが、状況に応じて過去の事例を適用するような柔軟な知性の運用は難しいでしょう。

あるいはまた、たとえ「抽象化・構造化」が出来たとしても、その内容が高い歩留まりで整理・ストックされ、状況に応じて自在に引き出して使うことができなければ、やはり「知的戦闘能力の向上」は果たせないでしょう。

知的戦闘能力には身体能力と同じで瞬発力と持久力の両方が求められますが、インプットされた情報が臨機応変に引き出せないというのでは、知的戦闘能力の「瞬発力」において、おおきな問題を抱えることになります。

この点については改めて触れますが、インプットされた情報のほとんど、感覚的には9割以上が忘却されることになります。この問題に対して「いかに忘却を防ぐか」などということを考えても仕方がありません。

知的戦闘能力の向上を図ろうとすれば、むしろ「インプットされた内容の9割は短期間に忘却される」ことを前提にしながら、いかに文脈・状況に応じて適切に、忘れてしまった過去のインプットを引き出してきて活用できるかがカギなんですね。

先述した通り、これまでに書かれた独学に関する本のほとんどは(あえて「全て」とは言いませんが)、いかにしてインプットするかという点にばかりフォーカスしています。

しかし、イノベーションが様々な分野で進行し、知識の減価償却が急速に進む現在のような世の中では、こういった静的で固定的な知識を獲得するための独学法は負担が大きいばかりであまり役に立ちません。

なぜなら、インプットされた知識の多くは短いあいだに「知識としての旬」を過ぎてしまうからです。本書が、これまでに書かれた多くの「独学に関する書籍」と違う点は、独学を「動的なシステム」として捉え、徹底的に、「知的戦闘能力を高める」という目的に照らして書かれているという点にあります。

重要なのは「覚えること」を目指さないこと

独学を動的なシステムとして捉えるということは、必然的にある結論を導きます。それは、この独学法においては「覚えること」を目指さない、ということです。「覚えること」を目指さない、これが、独学に関する類書と本書を分かつ最大のポイントということになります。

おそらく多くの人は、「高い知的戦闘能力」をそのまま、「膨大な知識量=知的ストック」と紐づけて考えると思います。

しかし、一方で「覚える」ということはインプットした情報を固定的に死蔵させるということでもあります。一度インプットした情報が、長い年月にわたって活用できるような変化の乏しい社会状況であればこの独学法は機能したでしょう。

しかし、現在のように変化の激しい時代であれば、インプットされた知識の多くが極めて短い時間のあいだに陳腐化し、効用を失うことを前提にして独学のシステムを組む必要があります。

「覚えないこと」を前提にしながら独学のシステムを構築する際、カギとなるのは「脳の外部化」です。一度インプットした情報を自分なりに抽象化・構造化した上で、外部のデジタル情報として整理し、ストックする。つまり、一旦脳にインプットした情報は、エッセンスだけを汲み取る形で丸ごと外に出してしまうわけです。

汲み取ったエッセンスをストックする場所はフリーアクセス可能な外部のデジタルストレージであり、脳のパフォーマンスは、あくまでもインプットされた情報の抽象化・構造化にフォーカスさせます。そうすることで「覚えること」に時間をかけずに、知的戦闘能力を向上させることが可能になるわけです。

数々のイノベーションを主導してきたことで知られるMITメディアラボの創設者であるニコラス・ネグロポンテは、いみじくも次のように指摘しています。

Knowing is becoming obsolete
「知る」ということは、時代遅れになりつつある

中世において、「知識」とは教会の図書館に収蔵されている書籍にインクで書かれている情報でした。この「知識」を獲得するためには、当時、極めて貴重だった書籍へ物理的にアクセスすることがどうしても不可欠だったわけですが、そのような立場にある人はごくごく少数であり、その少数者が、「情報にアクセスできる」というその立場ゆえに大きな権力を持つことになりました。

つまり、この時代においては「知る」ということは、物理的に本を読み、知識を頭の中に蓄えることだったわけです。これは、現在においても、私たちの多くが、「知る」という言葉についてイメージする行為そのものと言えるでしょう。

しかし今日、あらゆる知識はフリーアクセス可能なインターネット上に存在するようになりつつあります。私達は、自分の脳の海馬に記憶された情報にアクセスするのと同じように、インターネットという巨大な「グローバルブレイン」に、いつでもアクセスできる世界に生きているわけです。

そのような世界において、「知る」、つまり知識を情報として脳にインプットすることの意味合いについて再考すべき時がきている、とネグロポンテは言っているわけです。

そして繰り返せば、本書は、まさに「知る、ということが時代遅れになりつつある時代」における、新しい独学のあり方を模索し、それを読者の皆様と共有することを目的に書かれています。

 人工知能によってますます「時代遅れ」に

 と、ここまでが書籍からの抜粋なのですが、このネグロポンテの指摘、

Knowing is becoming obsolete
「知る」ということは、時代遅れになりつつある

は、ChatGPTに代表される生成AIが日常的に利用できる環境になりつつあるいま、いよいよ重要性を増しているように思います。

ネグロポンテが指摘した「知る、ということは時代遅れになりつつある」という言葉は、情報技術の進化によって知識へのアクセスが劇的に変わる未来を見越したものでした。そして、今日の生成AI、特にChatGPTのようなAIの登場は、彼の予言が現実化しつつある状況を示しているように思えます。

従来は、知識そのものを蓄積し、それを基に判断や意思決定を行うことが重要視されていましたが、今ではAIが膨大なデータを瞬時に処理し、必要な知識や答えをリアルタイムで提供してくれます。

そのため、「知識を覚える」ことの価値は低下し、「どう問いを立て、どうAIや他のリソースを活用して解決策を導き出すか」という能力がますます重要になっています。

さらに、この状況は、教育やキャリアの在り方にも大きな影響を与えることになるでしょう。単なる情報の暗記ではなく、クリティカルシンキングや問題解決のスキル、創造性が重視される時代に移行していると言えます。知識そのものよりも、知識をどう活用するか、さらにはAIなどのツールを使ってどう価値を生み出すかが、今後ますます大事になっていくのでしょうね。

それにしても、日本の教育のシステムは、相変わらず「正解を出せる人が偉い」の価値観から抜け出せていませんね。これではますます世界に遅れをとってしまうのではないでしょうか??


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