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告知は唐突に、バスタブで。

“いい歳をして・・・”って笑われると思いますが、私たち夫婦は一緒に風呂に入っていました。作家や出版社、新聞社などの皆様にはたいへん失礼な話ですが、私ら夫婦はバスタブにつかりながら、しょっちゅうブレストをやっていたのです。ブレストはブレーン・ストーミングの略で、お互いに言いたい放題をしてアイデアを練り上げていく作業です。

小説のテーマ、話の最中に起きる事件、登場人物のキャラクター設定、タイトルなどのブレストをやっていました。私も頭を動かすのが大好きでしたし、アイデアを考えるのは学生の頃、小さな広告代理店でアルバイトをしていた頃から普通にやっていた事なので楽しくて仕方がありませんでした。但しバスタブの中ではアイデアの選択肢を増やすのが目的で、ここで何かが決定された訳ではないのでどうかご理解をお願いします、関係者の皆様。

そんな最中に、妻が私の表情を伺うような目つきで、かつ、軽い調子で話し始めました。“実は私、ALSという病気だと診断されたの。体がどんどん動かなくなって治らないんだって”と。私への告知は唐突でした。




転倒の連続。でも深刻でなかった。


小説の編集者をしていた妻は、その年の5月頃から通勤の最中にも、足に思うように力が入らなくなっていた様なのです。趣味で熱心に通っていた合気道の道場でも頻繁に転ぶ様になったと聞きました。段差もないところでも頻繁につまずきだした様でした。私は“ちゃんとしたところで診てもらったほうがいいよ”とは言いましたが、妻は整体、マッサージ、リハビリか整形外科に行くのがせいぜい。実は、夫婦ともあまり深刻に受け止めていなかったのです。


確定診断。


しかし本当にどんどん歩けなくなってしまいました。通っていた町医者の整形外科から都心の大学病院を紹介され、そこでALSと確定診断されました。2015年11月の頃です。妻は、そう診断されてからも仕事は続けていましたが、症状はどんどん進行し、11月は片杖、12月には両杖をつかないと立てない、歩けなくなってしまいました。


引っ越し先を1週間で探す。


12月の寒い日の夜、妻から電話がかかって来ました。今1階にいるけど、自分で階段を上がれないというのです。外階段のエレベーターのないマンションで暮らしていたので、すぐに迎えに行き3階まで抱えて運びました。この状態ではエレベーター付きのマンションに引っ越しせざるをえません。この街を離れたくないので、近所に急いで見つけるしかありませんでした。すぐに妻は車椅子の生活になりました。車椅子通勤の始まりです。

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全国に1万人もいない。


ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、脳や末梢神経からの指令を筋肉に伝える運動神経細胞が侵され、筋肉を動かす働きが低下していきます。手足の運動障害だけでなく、舌や喉の筋肉が弱ることで、話すことや飲み込むことが難しくなり、さらに呼吸筋も動かせなくなり、自発的な呼吸が困難になります。呼吸が難しくなった時、気管切開をして人口呼吸器を使い始めるのが全患者の約3割で、7割の方は人口呼吸器を使わずに過ごされて最期を迎えられているようです。全国に患者が9,000人から1万人の間くらい、いると言われています。世界では約40万人くらいだと聞いています。


受け入れがたい。


物理学者のスティーヴン・ホーキング博士、フランス文学者の篠沢秀夫教授などが罹患したことを知っている方は多いかもしれません。野球のメジャーリーグの選手、ルー・ゲーリックが罹患したので米国では彼の名前で病名を呼ぶことが多いと聞きました。3年ほど前には、参議院議員に当選された方もいて話題になりましたよね。京都では悲しい事件もあり、これも社会全体に課題を突き付けましたね。

有効な薬も根治療法もみつかっていませんし、いつ誰がかかるかわからない病気なのです。また妻の様に働き盛りの中高年が急に発病する事も多いらしく、症状がどんどん進行していくのでかなり激しいショックを受けます。妻本人にとって受け入れることが大変なだけでなく、私を含めた周囲にとっても受け入れて闘病を支えていくことは、とても厳しかったのです。
忙し過ぎて悩んでいる暇がなかった。

とは言うものの、進行性(症状がどんどん悪くなっていくタイプ)の病気だと分かったので、次に襲って来る症状はどのようなものか、と調べ、そうなった状況を先取りし、準備して体制を整えておくことに夢中になって、毎日駆けずり回っていました。ですので、実際は悩んではいたし頭も変になりそうでしたが、やり過ごしていた、という感じです。あまりにもやる事が多くて忙しかったのでじっくりと考え込む余裕がなかったのです。よく友人たちに“主介護者さんはタフだね”と言われますが、そうではなく、本当に今現在とこれからすぐに目の前に現れる、次の症状が進行した時への対策をいつも考えていたので悩んでいたりする余裕がなかっただけなのです。


両親は無視。


妻の両親にも病気の事は伝えました。こちらはどうしても受け入れられなかったようで、翌2016年の3月に兄弟家族も含めた親族会で顔を合わせるまで、一切、連絡がなく無視されてしまいました。娘がそんな病気であるはずがない、と受け入れがたかったゆへの”ネグレクト(無視)”と思います。


セカンドオピニオン


医師はいろいろな病気を想定して検査を進めていき最後に残ったのがALSだった、という消去法でした。当初は筋肉疲労で転び出しただけだろうと思っていたので、まさかそんな難病とは思いもしませんでした。妻はALSと診断されてもそれを受け入れることができず、生命保険についていたセカンドオピニオン費用を保険会社が負担してくれるオプションを使って、筋電図という方法を使ったALS診断で有名な別の病院に行ったのですが、そこでも診断は同じで、医師にはこう言われてしまいました。“奥さんのALSは、これまでの状況からすると進行が早いかもしれません”


地域包括センターは社会的介護全ての入り口。


私は、妻からの唐突な告白を受けて、近所の地域包括支援センターに駆け込み、堰を切った様に我が家の事情をすべてぶちまけ、介護保険の申請を含んだ支援の全てをお願いしました。まず地域包括支援センターはセンター内のケアマネジャーを選定し、我が家で妻も交えて担当者会議を行いました。最初は要支援2だったと思います。

ただ進行が速かったので、またすぐに再申請をし、介護保険課の職員が来て、介護の認定調査が行われ、要介護になったと覚えています。詳しくはまた別の項に書きますね。要介護になると“居宅支援事業所”というケアマネージャーが所属する、外部の会社を指定してくださいました。

いま現在も担当してくださっているケアマネージャーですが、最初は妻の病名を聞いて、担当するか否か逡巡されたと後で伺いました。それは悩むと思います。そもそもケアマネージャーは介護保険法に基づく仕事で、難病患者は障害者支援法に基づく重度訪問介護を受けるものです。ですから本来なら守備範囲を超えています。ですが妻を担当してくださっているケアマネージャーは“介護保険を使い果たした後、ようやく重度訪問介護も使えるのだし、支援は介護保険の延長にある”と考えてくださり、担当して頂いています。

優しい方ですが、センチメンタルにならず理性的、他人との距離感の取り方が上手くユーモアが大好きな方で、時間の余裕があればいつまでもお話をしていたい方です。良くケアマネージャーとの相性が悪くて悩んでいる方が多いと聞きます。介護という過酷なプロジェクト運営の伴走者がケアマネージャーです。嫌ならイヤと言って別の方に交替して頂いても構わないそうです。ここは妥協せずに、一緒にやっていける方を真剣に探してください。


母の遠距離介護。ダブル介護まっしぐら。


私が抱えていた難題、は妻の病気と介護だけではありませんでした。仙台に住む一人暮らしの母親の遠距離介護もありました。私は一人っ子だったので、2013年4月頃から、出張に合わせて月に1、2回帰省して、母親の状況を確認していました。随分と前に亡くなった実父ですが、いろいろあって親戚付き合いをほぼ無くしていた事もあり、地元には頼るあてがありませんでした。


母の顔に青たん。


ところが帰省した日、玄関を開けると、母がいました。顔を見ると、半分に青あざが広がっていました。“あんたが心配すると思って電話では言わなかったんだ”と説明して来ました。寝たきりの実父の介護が長期間に渡っていたのと、介護保険ができる前からの在宅介護だったので、寝たきりのガタイの大きい父をベッド上で身体の位置を動かしたりを自分でしていたので腰が90度曲がってしまい、顔が前を見るのではなく地面を見て歩いているような状態だったのです。ですので歩くことに支障が出てきていて、頻繁に転ぶ様になっていました。お年寄りが転ぶようになったら、寝たきりになってしまうリスクが一気に高まります。私は何とかそれを回避しようと考え始めました。

妻の介護と実母の遠距離介護。ダブル介護へまっしぐらです。でも正月は東京の我が家で一緒に過ごそうと仙台にまで迎えに行き、上京させました。近所の大きな公園にで出かけると、2台の車椅子に妻と母が仲良く乗って並んでいました。

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